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84歳寅年京子ばあちゃんの老いるを楽しむを書き留めてみる その十七

新しい家に引っ越してみると、お風呂もトイレも台所も古くて、結局2階も含めてリフォームすることにしました。そうと決めたら、また方眼紙を買いに行って、定規と鉛筆をもってタイルやお風呂のカタログを見て、毎日がとても楽しくなりました。

引っ越した時はすでに次女の結婚が決まっていたので、まずは1階から。
私がタイルのカタログを見ていると、次女がのぞき込んで、「これ良いね」などと色々自分の好みを言い出します。最初は黙って聞いていましたが、カーテンやら照明やら、次女の好みをぐいぐい押してくるので、「ここは私の家なんだから、私が決めます。やりたいことがあるなら、自分の家でやってください」といいました。
次女はびっくりしていました。「えっ私の家じゃないんだ…」と。
はい、ちがいます。私の家です。みんなが帰りたくなる家にはしたいけど、あなたの好みにはなりません。当然です。

一方、夫も新しい家が気に入ったらしく、リフォームにもアイデアを出してきました。それはもちろん聞いてあげます。お風呂は広く、リビングの隣の仏間とその奥の和室は、ふすまで仕切ってはいるけれど、ふすまを全部外せば大きな一つの部屋になり、庭からも出入りができるので、自分のお葬式はこの家で、お坊さんが真ん中の部屋、庭から上がって奥の和室に人が集まるのだと。そんなことまで考えていたとは、驚きでした。この時すでに結婚して30年以上経っていましたが、子供たちのことは話し合っても、夫婦のことは話し合いにはならず、私が従うのが当たり前でした。結婚したら、妻であり、母であって、個人としての考えなど私の時代の女性たちは持っていなかったように思います。

そして、新しい家には私の母も一緒に住むことになりました。夫は年寄りが一人で食事をしているのを見るのはつらいと言って声をかけたのですが、母は当時まだ67歳。気楽に一人暮らししていたので最初は抵抗していましたが、なんとか承諾してくれました。ところが、次女もお嫁に行くし、部屋は空いているにもかかわらず、なんと母はガレージの上に自分の部屋を作ると言い出します。なんでまたそんなめんどくさいことを…と思いましたが、決心は固く、「お風呂と食事は母屋でいただきますが、基本自分の部屋は離れにつくります。」と言って、ガレージの上のスペースに2階建てをつくり、10畳ほどのお琴と三味線、お習字のお教室に使う部屋とさらにその上に小さなシステムキッチンと仏壇とベッドを入れました。

7人兄弟の長女で、世話をすることはあっても誰かのお世話になることはほとんどなかった人生なので、一緒に住むことになっても自分のことは自分でと思っていたのでしょうね。自宅で教えるのはもちろんですが、北新地のママさんたちのご自宅に三味線をもって出稽古に通っていました。夫がせっせと新地にお金を落とし、母がそれをおけいこで回収する…傍からみると、マンガみたいな関係でした(笑)

母の引っ越しが落ち着いたころ、次女が結婚します。昭和の最後の年の6月に相手のお母さんがくも膜下出血で突然帰らぬ人となりました。54歳でしたし、一番結婚を望んでくださっていたのでつらかったです。新しい家での初めてのお客様でしたが、お会いしたのはこの時が最初で最後となりました。
次女は、彼のプロポーズを待たずに、自分から先にご両親のところに「結婚します」と言いに行ったので、ご両親が慌ててご挨拶に来てくださり、亡くなったお義母さんが婚約指輪も用意してくださっていました。

年が明けて、平成元年に次女が東京に行ってから3か月後、私の心の支えだった美空ひばりさんが闘病生活に力尽き、天国に行ってしまいます。私にとっては、人生のパートナーと言っても過言ではありませんので、娘たちが「大丈夫?」と次々に電話をくれたのを覚えています。

今夜もひばりちゃんを聴きながら、長女が持って来てくれた初物の筍で、旭川の独酌三四郎のお女将さんがプロデュースした日本酒「風のささやき」をちびちびいただこうと思います。


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