"最低限の努力"その水準の変化 どれだけ努力すれば、嘆く権利があるのか?

 現在デジタル世界に関する記事を書いていたのですが、蛇足かも上手くまとまらんしってカットかなって思ったけど。折角書いたし供養として載せときます。

 現在、アナボリックステロイド、筋力増強剤等の薬物を使用してスポーツの試合に参加する事は、殆どの場合禁じられています。E-SPORTSのチートにはリアルスポーツの薬物が対応するのかなと思います。ゲーマー達がチート問題でやいのやいの騒ぐのが好きなように、筋トレ界隈は誰がステロイドユーザーっぽいだのでやいのやいの騒ぐのが大好きです。

 山本義徳という過去に世界で活躍した元プロボディビルダーがいますが、彼は現役時代アナボリックステロイドを使用して大会に参加していました。理由の一つが、当時はステロイドが合法で、参加者は皆ステロイドを使用していたから使わなきゃお話にならないからです。つまり、昔はボディビルで闘う為の"最低限の努力"の一つが、薬物でした。現在、薬物は努力から違法行為になりました。

 どういう仕組なのかは詳しく知りませんが、東西分裂時代の東ドイツで、女性を妊娠させた後にすぐに中絶させる事で筋力を増やし優秀なアスリートの増加を目論む、という現代だったら絶対に許されないだろう非倫理的な行為を国策でやっていました。ただ時代背景を考えれば、それくらい形振り構っちゃいられなかったのかもしれません。



 話を変えますが、私が小中学生くらいの頃。ルックスを良くする為の努力というのは、ダイエットや筋トレ、メイクやファッションの研究――といった病気でもない限りはその気になれば誰でも可能な微笑ましいものでした。
 しかしルッキズムの凄まじく蔓延した現在は、美容整形という骨肉を斬り血反吐に塗れる手術でもやらなければ努力とはいえない。そんな風潮があるように思えます。
 目を二重にする、くらいのプチ整形なら学生のバイト代でもなんとかなるでしょう。ただ骨格をどうこうしたりする為には、数百万単位の莫大な費用が必要です。花たる若い内に、それだけの費用を捻出する為の方法は限られています。まず、売春しかありません。

 つまるところ、昔は走ったり食事制限したり美容部員や美容師に相談すれば美意識高いと言えたけれど、今やオッサンのチンポしゃぶって股を開いて金を稼いで骨肉を切り血を流す事に耐えなければ美意識が低い――努力したとは言えなくなっているのです。
 求められる努力のレベルがかなり上がりました。ウメハラが言うように、対戦ゲームも上手いプレイヤーになる為に求められる努力の水準がかなり上がっています。今の若者は私の若い頃と違って本当にゲームが上手です。



 私は自分の容姿がコンプレックスです。昔それを嘆いていたら、整形してから言えよ努力しろよというような事を実際に言われました。もはや、美容整形は、ルックスを良くする為の努力の必要最低限なのです!
 私が子供の頃は、整形はゲームにおけるチートのような扱いで、ズルい事のような、忌避感が強かった気がします。でもそれはここまで受け入れられるようになりました。ちなみに、私は親から押し付けられたものを努力で変えられる美容整形を、心の底から肯定します。

 0年代の前半、スラヴォイ・ジジェクがどこかでこのような事を語っていました。「現状、本から知識を得る為にする勉強という努力には価値がある。だが機械を脳に繋ぎ、眠っている間に本の内容を全てインストール可能な世の中になれば、ノートとペンで行う努力に価値などあるだろうか?努力というものの意味が全く変質してしまうのではないだろうか」。
 そういった意味で、"最低限の努力"すら"できない"ユースレスクラスが発生する世界に、近づきつつあると思っています。



 運動も食事制限もせずにお菓子をバクつきながら、痩せねぇ~と嘆く人がいれば、そりゃあちょっとは歩いたり節制してから嘆きなさいよ、と言いたくなります。全く勉強をせずに資格試験に落ちて何故落ちるんだと怒っている人がいれば、そんな都合の良い話はないだろうと思うでしょう。だって1mmも目的達成へのアプローチをしていないのだから。

 では、ならば。どれだけ努力すれば、嘆く権利があるのでしょうか? 体質差さえあれど、ダイエットはカロリー収支をマイナスにするという鉄則を守っていれば成功するシンプルな事です。人体生理学に詳しい人ならば、その閾値を適切に提示する事が可能なのかもしれません。ですが勉強やスポーツのような個人差が更に大きなものになってくると、恐らく不可能でしょう。アファーマティブ・アクションに文句を垂れる人が多いのは、これと同根の問題かもしれません。

 で。私がかつて言われたように、美容整形すらせずに容姿が悪い事を嘆くのは、都合の良い甘えなのでしょうか? 私は"最低限の努力”すらしていないのでしょうか。

 かつての私はゲームが下手で、上手く出来ないよ~と嘆く友人に対して、親の都合で決まってしまう学歴や、それに大きく準拠する労働環境などと違って、ゲームの上手さなんか自分の努力で全然どうにかなるから頑張れば絶対上手くなるよ!というような事をしたり顔で語っていました。

 愚かな誤りでした。世の中にはゲームの上達の為の"最低限の努力"が出来ない人もいる事を知りませんでした。ゲームというのは、不公平極まりない理不尽で残酷な才能の世界の一つです。Fakerは努力せずにランクマッチ1位になったと語っていますが、T1とLoLの為に多大な努力をしています。

ベストプラクティス
 細菌や微生物が発見される前のヨーロッパでは、医者は血染めのガウンを羽織り、絶対に洗濯はしませんでした。大量の血を吸ったガウンは熟練の医者の証であり、白いガウンを羽織った医者は未熟者という訳です。言い換えれば、ドス黒いガウンは医師としての努力の証でした。

 細菌が発見されて常識が変わり、今度は細菌を恐れるあまりにオレンジジュースを高温殺菌するようになりました。加熱されたオレンジジュースは健康の為の努力の証でした。血染めのガウンに比べれば著しい進歩ですが、現代ではビタミンは高温で加熱すると破壊される事が知られています。高温殺菌オレンジジュースでは壊血病を防ぐことが出来ません。

 時代が進んでビタミンについて解明されていくと、今度はメガビタミン療法という疑似医療が台頭してきました。ビタミンは接種すれば接種するほど身体に良く寿命が伸びるという迷信です。現代の栄養学では否定されていますが、無理をしてでも多量の微量栄養素を接種させる事は、ある種の医者の献身的努力の証だったのかもしれません。

 こういった現代から見て間抜けな事例を、ビジネスやITの世界では「ベストプラクティス」と言うらしいです。我々が今"努力"と呼んでいるそれは、後世の人々(あるいは違う文化圏の人間)からすれば、血染めのガウン、高温殺菌オレンジジュース、メガビタミンなのかもしれません。でも何故か私は未だに血染めのガウンを羽織って誇る人間を、アホらしいと思うと同時に今はあまり責める気になれません。

 結婚して子を産めば幸せになれる式のナラティブに縋る人間も、ネオリベ自己実現の情報商材に搾取される弱者にも、俗悪なカルト宗教を真理の礎と見做す節穴にも、哀れみ糾弾したい気持ちと、仕方がないと目を逸らしたい気持ちがぐちゃぐちゃになって、なんだか不思議な気分です。

 ただ、かつて絶対の真理の礎と見做したものが、取るに足らない些細な世迷い言でしかないと過った時。ぜひ心の底から嘆いて下さい。批判と検証という努力を始めざるをえない刑罰が与えられた事に。努力の対価が嘆きの権利なのではなく、嘆きに与えられる恩寵が努力なのです。


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