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古代オリンピック


○古代オリンピックについて
はじまり〜終焉まで。


・時期 : 紀元前9世紀ごろ
〜紀元後393年

・場所 : ギリシア、エーリス地方
オリンピア

・目的 : ヘレニズム文化圏の宗教行事
(全能の神ゼウスをはじめ多くの神々を崇めるため)


 紀元前776年の第1回大会から紀元前728年の第13回大会まで、古代オリンピックで開かれていたのは1スタディオンのコース を走る「競走」だけでした。

オリンピアの聖地には、競走のための「スタディオン」が築かれていました。 スタディオンは長さ約215m、幅約30mの広場を高い盛り土がスタンドのように囲んだ施設(貴賓席として白い大理石のベンチも用意されていた)です。
1スタディオンという距離は、このスタディオンの競技場が基準となった単位なのです。
1スタディオンはゼウス(全能の神)の足裏600歩分に相当。(約191m)


参加資格のあるのは、健康で成年のギリシア人の男子のみで、女、子供、奴隷は参加できませんでした。
全裸で競技が行われました。
(不正を防ぐため)


○競技 (7つ)

ディアロウス競走
 紀元前724年の第14回大会から、2スタディオンの距離を走る中距離競走が種目に加わりました。
ちょうど現在の400mに相当し、スピードと持久力が必要な競技でした。

ドリコス競走
 第15回大会からは長距離競走も実施されるようになりました。
その距離は大会によって変更されたようですが、スタディオンの直線路を10往復する競技でした。現在の陸上競技のようにタイムを計測するわけではないので、競技者はスローペースで駆け引きを繰り広げ、最後のスパートで勝負を決したようです。

ペンタスロン
 紀元前708年の第18回大会から、ペンタスロンといわれる五種競技が始まりました 。短距離競走、幅跳び、円盤投げ、やり投げ、レスリングの5種目を一人の選手がこなす競技で、3種目以上を制した者が優勝者と認定されていたようです。

レスリング
 ペンタスロンで行われたレスリングが、紀元前668年の第23回大会から単独の競技として実施されるようになりました。立ったままの姿勢から(投げるために片膝をつくことは認められていた)相手を持ち上げて投げる競技で、正しく美しいフォームで投げなくてはなりませんでした。時間制限はなく、勝敗が決するまでに長い時間がかかる過酷な競技だったようです。

ボクシング
 レスリングと同じ大会から、ボクシングも始まりました。レスリングと同様に時間 制限もインターバルもなく、たとえ倒されても敗北を認めない限り相手の攻撃は止まりません。さらに体重別の階級はなく、グローブの代わりに敵へのダメージを大きくするための革ひも(のちに金属の鋲まで埋め込まれた)を拳に巻いての殴り合いだったようです。

戦車競走
 紀元前680年の第25回大会からは、48スタディオンの距離で争われる4頭立ての戦車競走が始まりました。また、第33回大会(紀元前648年)からは競馬競走も行われたようです。こうした競技はスタディオンの南に位置するヒッポドロモスで開催されていたらしいのですが、現在でも未発掘のため詳細はわかっていません。

パンクラティオン
 第33回大会からは、パンクラティオンという格闘技もオリンピック競技に加わりました。ギリシア語で「パン」とは「すべての」を、「クラティオン」は「力強い」を意味します。素手ならどんな攻撃をしてもよいというルールで、間接技や首を絞めることも許され、ボクシングと同じようにどちらかが敗北を認めない限りは勝負が決することのない熾烈な競技でした。


勝者には、勝利の枝と勝利を示すリボンのタイニアが両腕に巻かれ、ゼウス神官よりオリーブの冠(かんむり)が授与され自身の像を神域に残す事が許されました。

オリーブの冠を授かった者は、神と同席することを許された者として、故郷で盛大に迎えられました。
祖国の神殿に、像が作られた競技者もいるし、税が免除されることもありました。
いずれにしても祖国の歴史にながく名が刻まれることになったのです。


末期
この祖国での優勝者への過剰な褒章が、逆に大祭の腐敗を生みました。
祖国が優勝者に支払う報奨金は跳ね上がり、褒章欲しさに、不正を働くもの、審判を買収するものが出て、オリュンピア大祭は腐敗しました。
買収を行ったものと応じたものは以後の大祭から追放されるだけでなく、多額の罰金が科せられました。

ローマがギリシア全土を征服し、属州に編入した後もオリュンピア祭は続けられましたが、暴君として知られるローマ皇帝ネロは、自分が出場して勝者となるために第211回オリュンピア競技会の日程を本来行うべき65年から無理やり67年にずらしたのみならず、たとえ競技に敗れても優勝扱いにさえなっています。

また、自分の歌を披露するため、音楽競技を追加した。
ネロは7種目で優勝したとされるが、その競技内容は悲惨で、特に音楽競技は聴くに堪えない劣悪なものだったといいます。


最末期、キリスト教が広まるにつれ、異教ローマ神の祭典であるオリュンピアは、しだいに廃れていきました。
313年、ローマはキリスト教を認め、392年、国教としました。
この時キリスト教以外の宗教は禁じられた事によりオリュンピア大祭も禁じられる事になりました。

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