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ピエール・ド・クーベルタン ③


(ピエール・ド・クーベルタン ②
からの続き)


〜ピエール・ド・クーベルタンの苦悩〜

クーベルタンは1894年、
このパリ国際アスレチック会議で、
「スポーツの力を取り込んだ教育改革を地球上で展開し、これによって世界平和に貢献する」という理想を説きました。
後に「オリンピズム」と表現される「理念」です。

しかし、実際は大半の委員たちは理解していなかったといいます。

理念よりも総合競技大会という“目新しさ”に飛びついたのが実情であったのでしょう。
それでも教育者であるクーベルタンは理念にこだわり、1925年にIOC会長を退くまで、いや退いた後までも「オリンピズム」の理解、浸透に努めました。

今日、オリンピックの憲法ともいうべき『オリンピック憲章』は、
「オリンピズムの根本原則」をこう書き起こします。

「オリンピズムは肉体と意志と精神のすべての資質を高め、バランスよく結合させる生き方の哲学である。オリンピズムはスポーツを文化、教育と融合させ、生き方の創造を探求するものである。その生き方は努力する喜び、良い模範であることの教育的価値、社会的な責任、さらに普遍的で根本的な倫理規範の尊重を基盤とする」

憲章の理念を簡単にいえば、オリンピズムとは生き方の哲学で、目的は平和な社会の構築に寄与すること、スポーツを人類の調和の取れた発展に役立たせることといえるでしょうか。

このオリンピズムを推進する活動を「オリンピック・ムーブメント」といい、競技大会をムーブメントの頂点とします。
また、スポーツをすることは人間がもつ権利であり、どのような差別も受けず、友情や連帯、フェアプレー精神とともに相互理解を深めると規定してます。スポーツの本質、原点といえるでしょう。

オリンピックのシンボルとして知られる五輪のマークも、クーベルタンが考案したものです。
青、黄、黒、緑、赤の色は、地色の白を加えると、世界の国旗のほとんどを描くことができるという理由で選んだ、と、彼自身が書き残しています。
また、5つの輪は5大陸の結合をあらわしています。

クーベルタンは理想追求のため、
友人たちの言葉まで借りました。
例えば「より速く、より高く、より強く」というモットーは、友人である神父のペーター・ディドンが1897年のIOC総会で語った演説です。
「オリンピックは勝つことではなく、参加することに意義がある」。
これもまた有名な言葉ですが、1908年の第4回ロンドン大会で米国と英国の選手たちの対立を重くみたペンシルベニア主教が、日曜礼拝で選手たちを諭さとした説教でした。
クーベルタンはわかりやすい言葉で理解を深めようとしたのでした。

14カ国の参加で始まったオリンピックはいまや、200を超える国・地域が参加する地上最大の組織、イベントとなりました。
そして、第1次、第2次世界大戦や東西冷戦時のボイコット合戦、財政危機などを、乗り越えた歴史を持ちます。

ただ、クーベルタン自身は1927年、こう演説しました。
「もし輪廻りんねというものが実際に存在し、100年後にこの世に戻ってきたなら、私は自分が作ったものをすべて破壊することでしょう」 
教育者として自分が描いていた理想と現実との乖離、苦悩がいわせた言葉であると思われます。

ピエール・ド・クーベルタンは1937年9月2日、スイス・ジュネーブのラグルンジュ公園を散策中、急逝きゅうせいしました。74歳。家族的には恵まれず、寂しい晩年であったそうです。

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