intro「他者をジャッジしないことの重要性」

多くのスピリチュアルで言われてる「他者をジャッジしない」「赦し」についてですが、最重要と言われるわりには日常での適用についてはとにかく分かりにくいワークでした。
やっとその方法が分かったのでシェアします。

実際に行うことは「相手の思考」を憶測しない、です。
この憶測を勝手に「そうに違いない」判決を下すことを「ジャッジする」と言います。
(見た目などで勝手に「〇〇な人に違いない」とジャッジするのも同じです)

これは他者と接する日頃生活で頻繁に行われていることですが、この内面世界の行為を控えるだけで悩みや不安の少ない平和な日常、幸せが訪れることをご存知だったでしょうか。

日々のシーンで幾度も取り組める内容ですし、あらゆる問題や不幸、拡大すれば社会問題や環境問題などの全人類の問題にも関係している問題のある心の内容なので、大変取り組みがいもあるワークになるかとも思います。

キリストの名言「人を裁くことなかれ、しからば汝らも裁かれざらん」の真意でもあります。
人の考えを憶測し「そう考えてるに違いない」と決定、すなわちジャッジすると何が起こるか。

まずは実際そうは考えてないかもしれないのに(相手の内面世界は知りようもないのに)、「そう考えていると思える、いやそうに違いない」と他者の内面性を断定することは、実は見た目などの外面性を超えたその人の本来性である人間の内面の取り違え、ある意味書き換えを生むことになります。

人間は「考える存在」なので、新たな勝手なる判断でその考えを書き換えることは、その「存在」を歪め、変容していることと実は同じなのです。


更に悪いことには、相手の内面性を判断できているとみなしているこの行為は、逆に相手側も自分の内面を勝手に想定し判断しているということを無意識的に受け入れていることでもあります。(与えるものが与えられるという、宇宙のド根本法則によるものとも言えます)

他者に判断された自己の容認=「他者の視線から見えてる自己」が自分になってしまうこととともなり、なんとも言ってみれば虚像とも言える自分が全現代人の自己イメージになっているという、相手も自分も全員が本来のその人ではないというのが、残念ながら現在の「私たち」なのです。

ネガティブなスピ用語でもある「分離」です。スピリチュアル界隈でやはりよく言われる全体からの分離です。

この全員レベルで起こっている分離は、いとも簡単に自己も他者も全て客観視されている客体、言い換えれば私=単なる物質、肉体と認識に容易に行きつくこととなり、物質的存在に落ちて、さらには重い次元でもあるためか捕らえられて分離から戻ることは難しくなっているのが現代人の状況です。

natan氏のヌースロジー解説サイトにて、なぜ現代の人間はこのような「死んだら終わり」の肉体存在になってしまったのか説明されています。

p.s.英語で「許す、赦す」はforgiveですが、for=前面に、give=与える、からも、外面世界に一任してしまう、そのまま任せてしまうとういうのが語源的になこととも思われます。

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今後のテクニック集などでは、具体的なワークについて触れてます🖐️

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