紺野藍『言い逃げ』一首評というか感想

お店の音楽とわたしの音楽が混ざり合いわたしの方を必死に聴いた

紺野藍『言い逃げ』

ヘッドフォンステレオには、世に出始めた頃から「使用者と周囲との間に精神的な壁を作る」という批判があったが、今では誰も取り立ててそんな事を言わないくらいに、商品が定着している。

しかし、『新世紀エヴァンゲリオン』の劇中の重要アイテムとしてDATウォークマンが登場し、その疑似ATフィールド的な演出意図が、当然のように受け入れられている事を考えると、これらのパーソナル音楽プレイヤーは、周囲との壁を作る、使用者からするとバリアの効果を持つ存在として、十分に認知されているように思う。

掲出歌は、おそらくカナル型のイヤフォンで音楽を聴いていた主体が、BGMがそこそこにデカい音で鳴っている店に入り、耳に混入してくる店内BGMに対して、必死に自分のプレイヤーの音楽を聴き続けようとする姿が詠まれている。

カクテルパーティー効果というのがある。カクテルパーティーのように、大勢の人間が同時に会話し、音楽が鳴りグラスの音が響く環境においても、人間は会話している相手の声を選択して聴き続けて、会話を成立させる事ができるというものだ。

主体はこの効果を脳でフル稼働し、音楽プレイヤーで張ったパーソナルなバリアに意識を向けて、周囲の望ましくない音、ノイズと化したBGMを無効化しようとしている。

直径2センチ程度×2個の大きさで、自分を守る戦いが繰り広げられている。
初句と二句の過剰な9音が、それぞれの音楽が「耳前」で拮抗する状況を表していると感じる。

三句以降が577であることによって、初句二句の過剰さが顕著になると同時に、結句の「必死」が、主体の行為の過剰を感じさせて、バランスを取っている。一首の構成によって、主体の意識が、「わたしの方」の音楽に向かって集中していく様子が感じられる。

何もそんな事くらいで必死にならなくても、と思う。しかし、ここには譲れない主体の、店内BNGの侵入を許さない、自分のバリアを守るという強固な意思がある。

確かに、コンビニやショッピングセンターのBGMは、こちらの心境とは関係なく、店の都合、あるいはマーケティング的な意図をもって流されている。我々は無意識にこれらのBGMの曲調やリズムの存在を受け入れる事によって、街の景、言わば「モブ」として取り込まれる。

一方で、イヤフォンから入ってくる音楽は、自分の見ている風景を自分の文脈に意味づけして、その状況を守る限りは、自分は自分の物語の主人公をあり続けることができる。

この一首には、自分の世界において、自分が常に主人公としてあろうとする主体の、それこそ必死の戦いを見て取ることができる。

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