ひとを信用しない人

たまにだけど,

  もっとひとを信用した方が良いよ
  もっと自分を信用して欲しい

と言われます.ぼくがいう場合はあまりないけれど稀にこうした表現を使います.
近しい関係で「自分を信用して」はわかる.信用していないわけはない.確かにそう思う.近しいなら,ごめんで済むことが多い.
一方で、大括りにして「ひとを」と示された途端に,それは価値観とか物事に対する構え方みたいなものを押し付けてしまっているような気がします.

不潔恐怖症のような場合はともかく,そもそも風邪を引くと大変なときにマスクをして防御する,帰宅してうがいをするーこうしたことは,ひとを信用する・しないとは関係ない.仮に,どっちだといわれれば,信用しないことになるのかも知れません.

手すりやつり革は,意見が分かれるでしょう.

病院はどうでしょう.これはマスクをしていく程度の準備が必要とぼくは思っています.風邪は引きたくないし,近しいひとたちに風邪等を広げかねない.

では,一定の役割を認めれている方々についてはどうでしょう.

弁護士,医師,看護師,保健師,教員,保育士,公認会計士,一級建築士,公認心理師,等々.これまた意見はさまざまでしょう.資格や免許が国に認められていれば,「信用できる」「信用していい」ひとに思いたいですが,もちろん,これは嘘です.「信用できる」範囲は仕事について法的な範囲は限っていますから,嘘とも言い切れませんが,そもそもひとの資格や免許をひとの作った試験で「信用できる」次元まで引き上げるのは無理です.かれらが信用されるに足る言動に努めなければならないことは確かです.ゴーンさんが雇った弁護士はやり手だと聞きます.では,ゴーンさんが無罪になれば,彼は「信用できる」のでしょうか.有罪になれば「信用できる」のでしょうか.看護師と公認心理師は医師との関係性が法的に決定しますから,この限りにおいては問題ありませんが,医師の方法や理解に疑問を持っているのに,医師のいう通りにしなければならないのでしょうか.そうなると最早信用する・しないの問題ではなくなります.

話を元に戻すと,「もっとひとを信用した方が良いよ」には,そうではない場合を含み混んだ複雑な諭し方と言わざるを得ません.ぼくの性質からいうと,なかなか理解しにくいところもあります.でも,わからないことはありません.一方で,「あれもだめ,これもだめ,じゃあ,なにがいいというのか」ということと同じだとすれば,時として言われた本人は辛い孤独を味わいます.そんなことは百も承知で苦しんでいるんだ.そういうのがやっと.

もっとひとを信用した方が良いよという側であり続けられるのは,割とラッキーだとも思います.

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?