2024-08-14_自分の意志力

自分は全然意志力とかなくて、感覚的に「これやりたーい」と思ったら計画とかどうでもよくなっちゃう性格の人間ではあるんだけれども、それで地雷踏むこともあれば、逆に良い感じになることもある。自分の意志力なんて全くといっていいほど信用していないんだけれども、ちゃんと願望を抑えて計画した通りに計画を進めることができたら、どうなるのかな?と思う時もある。

大前提、「意志力 = 素直に"意志"ではない」と考えていて、どちらかというと「これやりたーい」の願望を意志の方向に向くように仕組みを作ることだと考えている。たとえば今こうしてほぼ毎日誰も見ないnoteを書き続けているけれど、ただ単に「毎日noteに思考を言語化する」と決めただけだったら絶対続かない。断言する。

では、なぜ2ヶ月以上も継続できているのか?
それは毎日記事を書きたくなるように、1日書かなかったら「明日は書かなきゃ!」と自分が思えるように仕組み化したから。具体的にはチェックリストを作って、「毎日チェックしないと空欄だらけになる」という状態を作り出した。チェックリストを見て、やろうと決めたことに空欄が生じると不快じゃないですか。それを利用していることが1つ。

次にそのチェックリストがいつでも目につく場所に設置したこと。
嫌でも自分が何をサボっているのか目につくようにしたことで、少なくともやると決めたことの半分は習慣化できている。さすがに全部空欄となると嫌なので、特に習慣化したいことは最低限手をつける状態になった。

このように、前提として意志力とは即ち仕組み作りだと私は考えている。
そう考えると意志力は全然意志なんかじゃない。意志とは河川でイメージするとたぶんわかりやすい。仕組みが作られていない状態の感情とはなんの整備もされいない一級河川のイメージに近くて、海に流れ着くまでに流路は変わるし、流れ出る場所も変わってしまう。ちょっと悪天候になれば簡単に氾濫して周辺の田畑を崩壊させる。そんな状態の河川に対して人力だけで「特定のポイントに流し込むぞ!」なんてことはできないわけですよ。人がいくら流路が変わらないようにその場しのぎの対策をしても大自然の前にはあまりにも無力すぎる。人間の感情とはそれくらい強い。

一方で、現代の河川はたまに氾濫こそするけど1600年頃より以前にくらべたら比べ物にもならないくらい流路は固定化され、ちょっとやそっとの台風・大雨程度じゃ氾濫もしない。それは400年の時間の中で大量の資金と人力が投入されて抜本的な河川整備が行われ続けてきた歴史があるから。護岸工事、放出先を増やす、流路を人為的に付け替えるなどなど、、、まさに仕組み化ですよね。自然の力には抗うのではなく、自然の力が意図した方向に向くように環境を作る。とはいえその仕組みを作るだけでも多大な犠牲を生んでいる事実もある。それくらい自然の力とは強力で、平気で生物の命を刈り取る力があるのですよね。

みんなの云う"意志力"の本質とはそういうものなのだろうと考えている。
文言そのままに捉えて、自分の意志だけで自然の河川に飛び込み、「この川を堰き止めて流れ先を変えるぞ!!」ってやっちゃったらさすがに無理、、、だよね。

自分の意志力を信用していないというのはまさにそういうことで、仕組みを作ってない分野に関して、「〇〇しよう!」なんて決めること自体が無謀だなと思ってる。たとえば一切筋トレをする習慣がないんだけれども、「よし、毎日筋トレしよう!」と思っても、まぁ三日坊主で終わりますよね。継続する仕組みも作っていなければ、継続した先の理想もないからそこまでやる熱意がない。

一般的に言われている意志ってたぶん順番が逆で、まずは熱意を生み出さないといけない。「〇〇の状態になりたい!!」という理想。
次に、その理想の状態に自分自身を連れていくための仕組みをあれこれ整える。そこまでやって初めて"何かしら行動を始める"が成立する。

「あれこれ考えてないでまずは行動しろよ!」と云う人たちのほとんどは無自覚にこれをやってるんだと思う。もはや"考えている"と自覚していないほど無意識に組み込まれているか、驚くほど爆速(秒単位)でこの思考を終わらせているか。

第三者から見たときの「意志力が強い」とされる人はたぶんこういうことを常にやってる人たちなんだろうなと思ったりした次第でした。





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