2024-10-03 時を経て思い出すのはいつだって苦しいかったときのことなんだ

最近、とあるアーティストの方が逝去されたというニュースを耳にした。その方が産み出した音楽に初めて触れたのは人生のドン底にいた2017年のことだったと記憶している。

当時アルバイトしていた同僚から「この曲すごい好き!」とオススメされて聴き始めたのがキッカケなんだけど、歌詞も曲調も歌っている姿も、なんかすごくすごく惹きつけられて、2017〜19年あたりは何度も何度も繰り返し聴いていた。

だから、逝去されたというニュースを耳にして、すごく自分としても思うところがあった。

17歳の自分へ

"17歳の自分へ"
僕の人生は基本的にずっとドン底で、その中でもダントツ1番のドン底だったのが高校時代の3年間だった。毎朝毎朝死んだ方がマシだと思いながら学校に向かっていた、そんなときに聴いていた曲が突然YouTubeのおすすめに上がってきた。

閉じ込めていた当時の地獄のような記憶が一気に思い出されてきて、年甲斐もなく1人で涙した。そのときに当時の自分に向けて書いた文章のタイトルがこれ。

人生の豊かさとは溺れてもがいた数の多さなのかもしれない

最近こういう昔のことを思い出す機会がやたら多くて、それで思ったんすよね。なんかいつも思い出すのは苦しかった時のこととか、死にたかった時のこととか、失敗しまくってたときのことばっかりだなーって。

みんなが思い描くような楽しかった記憶もたくさんあるはずなのに、そういう思い出は記憶の片隅にもない。大学のときなんかはサークルやらなんやらでけっこう遊んだ気がするけど、全然思い出すことなんて1つもない。

SNSに投稿されているような、理想的で充実した、楽しそうな、多くの人が羨むようなキラキラした記憶というのは、もしかしたら刹那の瞬きでしかないのかもしれない。そのときそのときの瞬間最大風速を、みんな切り抜いて、キラキラしている自分に酔いしれて、時間が経ったらまた違った楽しさの瞬間最大風速を追い求める。追い求めても追い求めても、、、最後に残るのはたぶん虚無。

これは令和の今に始まった話じゃないと思う。「学生時代に戻りたい」「若いときは楽しかったな」なんてほざいてる大人たちも例外なく、そういうキラキラした楽しさだけを追い求めた末の虚無なのかもしれない。

そうならないために必要な記憶というのが、苦しかったときの記憶だと思う。必死にもがいて、もがいて、もがいて、それでもダメで、「もう死ぬしかないんだ」ってところまで追い込まれて、でも死ねなくて、絶望して、諦めて、諦めた先で踏み出した些細な1歩から道が広がって、必死に頑張って頑張って頑張って、、、

時を経て思い出すそういう記憶が、自分の自信や誇りにつながっている気がする。そう考えたときに、「豊かな人生とはなんだろう?」という自分の中での再定義が始まった。

お金?友達の多さ?恋愛経験の豊富さ?人に自慢できる体験の多さ?豊富な海外経験?、、、いや、違う。"どれだけ多くの苦境を乗り越えてきたか?"だ。人に話せないような失敗、苦難、挫折、環境の過酷さ、、、それらを克服して乗り越えた先にある人生こそ、真に豊かなんだと、思った!!

「あのときキツかったなぁ」

2017年はひたすらにもがいていた。
就職先がないまま大学を卒業し、アルバイトをしながら就職先を探して活動してた。当時好きだった長年片思いしてた人には距離を置かれまくり、挙句にはボロクソにダメ出しされて振られた。あまりにもメンヘラすぎる自分自身と初めて向き合い出した頃でもあった。

「もがいてたなぁ、、、でも、あのときの俺なりに不器用でも方向性間違ってても、頑張ってたなぁ」と、すごく懐かしく、尊く感じた。

そんな若かりしときにたくさん聴いていた、心の拠り所として存在した曲たちを産み出したアーティストが逝去されたという一報は、僕を2017年の記憶に一気に引き戻した。

悔しくて悔しくて電柱を殴りまくって拳を血だらけにして帰った日もあった。花火大会から帰る人並みに逆らって歩き、もぬけの殻になった開催地で1人泣きながら歩いた夜もあった。メンヘラの生き方を見直すにはこの人の教えしかない!と狂信し、同じ本を何百回と暇さえあれば読み直していた自分もいた。採用試験の1次試験すらひとつも通らなくて絶望したときもあった。好きな人と最後に顔を合わせたときに目すら合わせてもらえず、まるで顔も知らない他人かのような扱いを受けたこともあった。

今となってはぜんぶぜんぶ恋しい記憶である。
「あのときキツかったなぁ〜」ってしみじみ思うんですよね。

みんなに自慢できるキラキラした日々を追い求めている人たちには絶対理解できない感覚なんだろうと私は思う。

苦しみはいつか豊かさに変わる

昨今、苦しみやしんどさから逃げる人が多いらしいが、そもそも失敗する可能性に踏み出す人がすごく少ないんじゃないかなと感じるときがある。

自分のような、あえて苦境に飛び込んでいくスタイルの生き方をしていると、同じような環境に同年代の人がほとんどいなくて、「すんげぇイージーモードだな」と思うことがよくある。いたとしてもみんなヌル過ぎる。「何をヌルいことしてんだ。本気でやれよ!」と、、、思う。

この令和の時代にまるで昭和の価値観のような気合と根性と執念で生き抜いている自分は、どこに行っても浮きまくるし、共感してくれる人はほぼいない。だからこそ「自分がうまくいかないわけがない」と心の底から思える節はあるんだが、、、

たぶん大多数の人たちは敷かれたレールの上を大人になった今もマジメに、ひたすらに、失敗しないように生きている。敷かれたレールの上で誰かが作った娯楽を享受して、誰かが作ったSNSで自慢して、変わり映えのない他と自分の違いを刹那的にアピールするしかないんだと思う。

それが"豊かさだ"と思うなら全然いいと思うが、僕から見るとそれは豊かさとは真逆のベクトルに見えて仕方がない。

自分がこれまでの人生で体験してきたような苦境たちが時を経て人生の豊かさに変わっていることから思うのは、その対極にある刹那的に楽しかった体験は豊かさの対極にある枯渇感に変わってしまうのではないかという懸念だ。

もちろん誰にでも刹那的に楽しかった体験はあるんだけれど、自分の場合はその刹那的楽しさの枯渇感よりも、苦境を乗り越えた後の達成感の方が何倍も豊かさを得られると知っているから、枯渇感をそこまで感じない。(もちろん少しは感じる)

何を言いたいのかよくわかんなくなってきた

締め

短期的な享楽より長期的な豊かさを
FXよりも投資信託で長期運用を
目の前の簡単に抱けそうな女よりもなかなか手の届かない高嶺の花を
SNSのいいねよりも目標達成したときの喜びを

後者を大切にしていこうね。
って、話。

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