2024-06-29_自分がなぜ自分なのか

所用で田舎に来ていて習慣化のルーティンが狂いがち。
遠出は好きだけど、習慣化を定着させる上ではあまり良い効果がないなと感じたりした。

さて、現在は寝落ちして目覚めた朝4時にこの文章を書いているので、厳密には全然6/29じゃないんだけども、2日書いてないのは個人的にアウトなので自分との約束を継続させるためにも前日分として書く。

「自分がなぜ自分なのか?」
これは別に自己啓発的な意味ではなくて、自分が物心ついたときからずっと感じていた疑問のこと。どう表現していいのか未だに的確な表現がわからないから暫定的にこの表現にするのだけれども、自分という意識にどうして自分がいるのか、なぜ他の人にも意識はあるがそこには自分がいないのか。子どものときとても不思議に感じていたし、今も時折不思議に感じることがある。

人間としての自我のさらに上位に別の何かの自我がある感覚?とでも表現できるだろうか。自分の物心が付くまでは無であったのたのに、そこから先に有になった。なぜ自分が生まれるより以前や他の人の意識に対してのように、無ではないのだろう??なぜ自分の意識に自分はいるのだろう。

これまでの人生でそれはそれはいろんなことを考えた。
元は天上にいたけれど何か罰を犯してこの世に落とされたのかなーとか、この世で過ごす最後の生まれ変わりで魂の成長が完成に向かうからなのかなーとか、、、仏教やスピリチュアルと出会うよりも遥か昔の子どもの自分がそんなことを考えていたの今思うとめちゃめちゃ気持ち悪いな。

ふと、そんなことをまた思い出したりしましたね。
ほんとどう表現するのが一番伝わるのかわからないんだけれど、ゲームのキャラクターの意識の中に画面外のプレイヤーである自分が1人称視点で入り込んでしまっているような、、、でも、画面外にいた記憶なんかは1つも存在しないから「え?何この感覚??」という違和感がずっとある。

最近、仏教とか東洋思想とかちょっと触れ始めて久しぶりに思い出したことでした。

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