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ミネコ1934 第四章 そして、失恋 

 
第四章 そして、失恋

 思いもよらず八十歳過ぎまで長生きしたミネコだったが、過去の肝心なことはほとんど何も告げず、あの世へ旅立ってしまった。
そう。とうとうミネコは、娘である私の本当の父親の名さえ明かさず、墓場まで持って行ってしまったのである。
ミネコの人生行路は、霧の彼方に浮かんでは消える。それでも私は、知られざる母の謎を追い求めて、夢想の世界へと足を踏み入れるのだった。

住み慣れた九州から、逃げるようにしてたどり着いた岩国――。
タイプの猛特訓のお陰もあって、ミネコは米軍基地での実技と面接の試験に合格し、晴れて秘書としての仕事に就くことができた。 
ここでもミネコは、英語力と正確で速いタイプのスキルを買われて、目立つ存在になって行った。
やがて、一人の軍幹部の目に留まる。基地の中でも親日家として知られるL中将。基地内では敬愛を込めて「ショウグン」と呼ばれていた。
暫くすると、ミネコに辞令が下りた。「L中将専属秘書を命ず」。
この年、昭和二十五年の六月には、米ソ対立の直接的な引き金となった朝鮮戦争が勃発している。当然、在日駐留アメリカ軍の内部は慌ただしい動きとなっていた。
間髪を入れず、L将軍にアメリカ空軍立川基地への異動が命じられた。いうまでもなく立川基地は、朝鮮戦争での兵員・物資の輸送を担う重要な要石だった。
東京・日比谷に本部を置くGHQ(連合国軍最高司令官総司令部)からは、重要な暗号電文が立川基地に送られてくる。
ひっきりなしに送られてくる電文を暗号解読班が解読し、その英文をタイプしてL将軍に上げるのが、ミネコの仕事だった。時には分厚い日本語資料を渡され、数日で英文に翻訳するよう命じられることもあった
とにかく濃密で多忙な日々を送った。
晩年、ミネコはこう述懐している。
「わたしが立川基地で働いたのは、六年とちょっとだけど、あそこで一生分の仕事をした気がするな」
 あるいは、こうも。
「わたしね、あの頃の日本で、いちばん速く打てるタイピストだったのよ」
 
 勤務はたいへんだったが、立川での生活は初めて体験することばかりだった。
 岩国から軍用機に乗って立川基地に降り立った時のことが、忘れられない。
 ああ、ここはアメリカだ。
 敗戦から間もない日本では想像もできない豊かな暮らし。
 ミネコは、軍の将校用に用意された宿舎でL将軍の家族と一緒に住みながら仕事をした。もちろん、自分用の部屋をあてがわれて、メイドさんもつけられた。
朝食はスクランブルエッグと焼きたてのパン、それに紅茶。
昼はローストビーフのサンドイッチをほおばりながら、業務に忙殺された。
夜は、食事を取ってバスに浸かると、疲れ果てて泥のように眠るのだった。
ミネコの唯一の愉しみは、週末に基地内のダンスホールで開催される盛大なパーティーだった。
選りすぐりのバンドの演奏をバックに、ダンスパーティーは、夜通し続いた。
ミネコもパーティー用のドレスを新調してダンスに夢中になった。
チャチャチャ、タンゴ……仕事の疲れを吹き飛ばすようにミネコは踊る、踊る。
目まぐるしく転変する自らの人生を重ね合わせて、ミネコは、激しく情熱的に、踊るのだった。
立川基地に勤めた6年余りの間に、一生分の仕事をしたミネコだったが、同時に一生分の恋愛もした。
あるとき立川基地のダンスパーティーに、名門大学の学生バンドがやって来た。
その学生の中にひときわ目を引く青年がいた。上品な佇まい、鼻筋の通った顔立ちのベーシスト。もはやひと目惚れだった。
基地内の施設のほかはほとんど外の世界を知らないミネコは、思い切って青年に声をかけた。
「わたしをドライブに連れて行ってくださらない?」
九州から出てきて、東京には知り合いも身寄りもいない身の上を打ち明けると、青年は優しく微笑んで、こう約束してくれた。
「オッケー。東京をご案内しましょう」
代々医者の家系で、名家の子息である青年は、名前を「栄」といった。
徒手空拳、ひとりで生きてきたミネコにとって、初めて信頼できるオトコとの出逢いだった。
「栄くんはほんと、音楽の才能があるよね」
医者の道を選ばないことで、家族の中で肩身の狭い思いを抱えていた栄も、ミネコの奔放な生き方に惹かれるものを感じていた。
何度かデートを重ねる中で、お互いがかけがえのない存在となって行った。
朝鮮戦争の激化とともに、ミネコの仕事はますます忙しくなり、青年と逢える機会が減ってきた。
そうなればなるほど、勤務の合い間を縫うようにしてつくる栄との時間が、いとおしく思えるのだった。
いわゆる「朝鮮特需」によって、日本にも軍需景気の波が押し寄せて来ていた。
そんな中で、ミネコは思うのだった。
いま何不自由のないわたしの生活が、戦争という多くの人の命の犠牲の上に成り立っていること。そして、ひと握りの「勝者」によって支配されるこの世界が、いかに不条理なものであるかということ。
この先、自分はどう生きるのか。悩んだ先にミネコは一つの結論にたどり着く。
「そうだ。人として唯一信頼できる彼と結婚したい。そして、ふつうの幸せをつかもう」
 意を決して、ミネコは栄に思いを伝えた。
「栄くん、わたしと結婚してください」
 青年は、少しの間、下を向いて黙ったままだった。やがて深いため息をつくと、何も言わず静かにその場から立ち去った。
 そして、二度と彼がミネコの前に姿を現すことはなかった。
 ミネコ十九歳、初めての失恋であった。
 日々膨大な英文の文書をタイプし、翻訳できるわたしが、こんな短い日本語でしか愛を伝えることができないなんて。
 ミネコは自らの不甲斐なさに、呆然と立ち尽くすばかりだった。
 抜け殻のようになったミネコに、運命はさらなる追い打ちをかける。
 昭和二十八年七月に、朝鮮戦争が終結すると、L将軍に本国への帰還命令が下った。
 立川基地での後ろ盾になってくれていた将軍が去ると、当然のようにミネコへの処遇にも次第に冷たい逆風が吹き始めていった。
 ミネコは、毎日書き溜めてきた日記を、不要になった英文資料と一緒に焚火の中に放り込み、焼き捨てた。
 カバン一つで立川基地を後にしたのは、昭和三十一年秋。第二次中東戦争が始まる直前のことであった。
 米軍が退職者への謝意として差し回してくれたハイヤーに乗ったものの、ミネコには行く当てがない。
 ふいに、いま一度、栄の家に行ってみたい衝動に駆られる。ミネコにとってそれは、想いを断ち切るための通過儀礼のようなものだったのかも知れない。
 国分寺にあった栄の家の前に着くと、
「運転手さん、ここで待っててね」
 そう言うとミネコは、小走りに玄関まで行き、チャイムを押すと、また走ってハイヤーに戻った。
「運転手さん、とにかく遠くまでクルマを走らせてください」
 都心に入ってハイヤーを返すと、ミネコは郵便局に行き、九州の実家に電報を打った。
「ミネコ シス」
 偽装電報で過去の自分に別れを告げ、ミネコはそのまま夜の街へと姿を消したのだった。

 
 
  エピローグ

 再び、ウユニ塩湖。
この世のものとも思えないような美しい夕陽を見ながら、わたしは考える。
 この世に自分が生まれてきた意味を、だ。
 夜の街へ消えてから七年後、ミネコは、生まれたばかりの私を抱えて、福岡空港に降り立った。
 ミネコの心は晴れやかだった。
 故郷を捨てたミネコは、わたしを産んだことで、新しい故郷をつくることができたのだと、実感していた。
 ミネコは、この世の何よりもわたしを愛し、そしてわたしも、ミネコを愛した。
 もしかしたら、わたしはミネコを愛したオトコたちの一人で、ミネコを護るために生まれ変わってこの世に現れたのかもしれない。
 わたしが生まれてきた意味を探し求める旅は、さらに深みへと迷い込んで行く。
まずは雪の女王ならぬ、塩の女王に、逢いに行こう。
       ウユニ塩湖にて 杉田かおる  

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