女は、美しくなくても可愛くなくてもいい

私にかかっていた一つの呪縛が解けそうなので備忘録を。またこの呪いに飲み込まれそうになったら読み返すためにブログに残しておく。

最近、髪を切った。胸まであって、毛先にはパーマをかけて、野暮ったくならないように茶色にしていた髪を、ばっさりと。切った髪はヘアドネーションにし、かつらになって必要な人のもとへと届けられるはずだ。ボランティアをして、気分もいい。
そして、自分の見た目にも満足してる。うなじをさっぱりさせて、ちょっとパーマをかけて、それっぽいお洒落なパーマ頭になった。ちなみに友人には「昭和のマダム」と言われた。せやな。でも、ロングの頃よりま自分に似合ってるし、私の好きな髪型で、気持ちも上がった。

ずーっと、長い髪が少し煩わしくて、切りたかった。掃除も大変だし、正直自分にはあんまり似合わないと思っていた。
でもなんとなく切れなかった。
伸ばし始めたキッカケは、単純に「あんまり伸ばしたことがないからやってみよう」という好奇心。ある程度伸びてからは美容院に行くたびに「ショートにしようかな」と思いつつ、明確な理由もないままためらって、4年が経っていた。
理由は、今ならわかる。そんなに顔の造形そのものや雰囲気が、所謂『かわいい』女性として自信のない私は、無意識のうちに長い髪に『綺麗な女性っぽい要素』を委ねてすがっていたんだろう。
久しぶりに髪の毛を短くして、さっぱりして、気持ちが軽い。早くこうすればよかった、と思う。

話は変わるけど、私は自分の容姿に自信がない。
基本的に自己肯定感は高い方だと思うけど、見た目のことになるととんとダメだった。友人にも「なんで見た目だけそんな卑屈なの?」と言われたことがあるし、自分でもそのへんだけ自己肯定感あがってほしいなーと思ってる。とても。でも世の中はままならずに外見の話をされるとしおしおと気持ちがひからびてしまう。

なんでなのか、それは母のなにげない言葉であったり、思春期に浴びせられたからかいだったり、昔付き合っていた人からの率直な言葉だったり、少しずつ積み重なった呪いをほどけていないから。いつも私を傷つけるのは、親しかった人からの言葉だ。恨みもできないのに、私は傷ばかり引き受けて身動きが取れなくなっている。
同時に、美しい女たちにとてつもない羨望があった。なぜなら彼女たちは自信に満ち溢れているから。
美しさそのものより、美しいからこそ承認され、自信に溢れ、さらに彼女たちが輝いていく世界がどうしようもなく羨ましかった。美しいからこそ寄ってくる人がいる、私の知らない苦労もたくさんあるだろう、でも、それ以上に彼女たちはチャンスと自信を味方につけていくように見えた。美しく、可愛いということをとっかかりに「あの人と友達になりたい」と同性間でも話題になる。どうしようもないことであり、容姿のよさも含めて彼女たちの魅力であり、そして私自身その魅力に少なからず惹かれているのに、自分が決して手に入れられない言葉を悔しく思って、その格差に悲しくなった。
私にとっての救いであり怒りは、私自身が本当に欲しいのは「容姿のよさ」ではなく、それに付随する「自分への自信」や「周りからの印象」なのだ。
今、私が欲しいもの。
職場での評価、同人誌即売会で初対面の人たちに変な人だと思われたくないな、オタクの飲み会って結構派手な人が来るからその人たちと一緒にいて後ろめたくなりたくないな、昔からの友だちはどんどん大人っぽくなってくから私も上品になりたいな、あとは、パートナーがほしい、その人に魅力的だって思われたい。
そう、ほしかったはずだった。

髪を切った。ただそれだけのことだ。下手したら二次元の推しより髪が短い。
長い髪の時に否応なくあった「おねーさん感」はなくなった。今欲しかったモノから遠ざかった。
正直、めちゃくちゃ可愛いかと言ったらそうではない。癖っ毛なので子供っぽいし、ロングだった頃と違って女性らしさもどっかにいった。美しい、可愛らしい、とは違う。
でも私は好きな髪型で、好きな格好で、私らしい、と自分のことを評価することができる。

なんだ、大したことなかったんだ。
自然と、そう思うことができた。


「どんな女性も美しい」ではない。
「太ってても可愛い」でもない。

「女性は美しくなくてもいいし、可愛くなくてもいい」と思った途端、すごく心がスッキリした。

当たり前のことだけど、女性にとって目指すべきものが「見た目」だというのがめちゃくちゃしんどかった。「令和の現代、女性の魅力は見た目だけじゃないなんてみんなわかってる。」そうでしょうとも。でもさ、「可愛いけど知的」「美人じゃないけど面白い」面白さも知的さも、まず見た目の評価の次にされるもの。もしくは、かわいさや美しさは、面白さや知的さを底上げさせる万能の厚底下駄になる。そう、「可愛い」「美しい」は女性にとって万能の正義のように思えるのだ。「女の子は誰だって可愛い」「太ってるのだってその人の魅力」いや、全部見た目の話じゃないっすか。
どうあがいてもそこに重きを置けない自分が情けなくて、いつも世界からつはまじきのような気がしていた。それで反骨精神よろしく美女になってやる!とか、私は私の美を極める!とか言えればいいんだろうけど、正直私は「外見を装う」ことがそんなに重要度高くない。重要度高くなくてそこにエネルギー割くのは後回しにしがちなくせに、気にしてしまう自分も嫌だった。
そんなことない、と自ら言うことは簡単だし、周りの人に慰めを求めれば快く私の見た目を承認してくれるだろう。暗示をかけようと思い込むことだって、難しくはない。
でも、「優しい」「賢い」「面白い」は二流だ。だって考えてみて、私たちはいつもその文頭に「可愛いのに」「美人なのに」とつける。ギャップ萌えだという。
この文法を使う私たちの意識は、やっぱり女性の一番の重きは「見た目」だと、属性を置いているんじゃないか。これが私の勘違いだったら、本当にルッキズムに囚われたバカな人間だな、と笑って欲しい。笑ってくれる人が多いなら私は明日から安心して生きていけるから。

SNSで見かけるフェミニストたちの中にも、正直ちょっと苦手な人たちがいる。なぜなんだろう、と考えてみてそれはやっぱり「見た目」に重きを置く人々だからと気づいた。
情報化社会で、写真や動画といった視覚的なツールが誰にでも使える時代だ。自己を演出することが好きなおしゃれな人や、人前に出る自信を身につけて育った美しい人たちにとって、そこは活き活きと自己表現できる場所なんだろう。既存の美の枠にとらわれないプラスサイズモデルたち、毛の処理をしてなかったり、あばたもエクボどころではない活力に溢れる彼女たちを素直に美しいと思える自分が結構好きだ。
でも同時に、あふれる多様な美しさは、見ててしんどい。
綺麗な写真集や雑誌は昔から好きで、気に入ったものは購入もする。そうやって活き活きと自己表現する人たちの活力も見てて元気をもらえる。でも同時に、「たくさんの人が美しく、見た目の美を追求している世界」の存在感が強すぎて、しんどいのだ。
女性が自分を着飾るのは異性にモテたいわけではない、自分のために着飾るのだ、というのは今や当たり前。こんなこと言ったけど私もオシャレは好きだし気に入った服でばっちりメイクして遊びにいくのはテンションが上がる。でもそれは私の人生におけるすごくすごくオプショナルなもので、ある意味心と体の贅沢品だと捉えている。だから時々、世界がしんどい。

当たり前に、誰もが分かっている通り、女性の魅力は「容姿がいい」だけではない。
誰もが可愛くなる必要はない。美しい女、強い女、おしゃれな女、好きな格好をした女、そんなものだけが次世代の女性の理想像ではない。
優しい人、思いやりのある人、よく気がつく人、人を笑わすのが好きな人、賢い人、知識が豊富な人、リーダーシップのある人、、、私が想像もつかないほどたくさんのナンバーワンの魅力があるはずだ。もちろんその中には、ファッションや美容、肉体美といった外見を装う魅力も含まれる。
目指す人間像として、見た目以外の部分が当たり前に選択される世界。見た目の価値をポイと捨ててもいい世界。女性だけに限らないのかもしれない。 そんな今更なことを、ただ髪を切っただけで改めて考えてしまった。
今、夫婦別姓も同性パートナーシップも認められない世界で、医学部は女子だというだけで減点されて、国会の女性議員の比率は明らかに少ないし、そんな国で生きる私たちは、思いもよらないところに地雷を抱えている。
自分の外見に頓着しない人間だからと言って、二流に収まんなきゃいけない世界がおかしいんだな、と思ったら、少しだけスッキリした。

これからもまた、私は自分の見た目に苦しむことはたくさんあると思う。でも、今日からわたしには「美しくなくても可愛くなくてもいい」というお守りがある。いつか自然体でそれを言えるようになりたい。

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