リアリティ・トランサーフィンの考察㉕『ポジ・スライドの使い方』
今日は七夕ですね。日本全体では一部を除いて天気もよいので、夜には織女星(こと座のベガ)と彦星(わし座のアルタイル)が見える地域も多いのではないでしょうか。どちらも明るい一等星なので、星見表があれば誰でも見つけられるはずです。
ところで、肉眼で見えにくい星を探すにはコツがあります。それは、その星があるはずの場所を最初に視野の真ん中ではなく、周辺視野に入れることです。周辺視野にある視覚細胞はかん状体細胞といって、明暗を見分けることを得意としています。いっぽう、視野の中央には錐状体細胞が多く存在していて、こちらは色合いを見分けることが得意です。
このため、視野の中央で探しても見えないような暗い星でも、周辺視野を使えば見えることがあります。いちど見つけてしまえば、視野の中央でも次第に見えてくるはずです。
いわゆるオーラと呼ばれるもののうち、エーテル体は半分物質で半分非物質であると言われています。実はこのエーテル体を見るには周辺視野を使うのですが、ここから分かることは、エーテル体はかすかに光を発しているということですね。見てみたい人は、薄暗い部屋で自分の手を周辺視野を使って、なるべく白っぽい壁が背景となるようにして眺めてみることを頑張って続けてみてください。
これは同時に、気づきを増やす(=理性を緩める)練習にもなりますし、それがゆくゆくは霊的な視野の獲得にもつながっています。おそらくですが、かん状体細胞には単に明暗を見分ける以上の秘密が存在しているとわたしは思っています。かん状体細胞を鍛えていくと、知覚そのものが書き換わっていきます。それが霊的な視野をもたらしてくれるのでしょう。
さて、前回の記事ではネガ・スライドという概念について学びました。ネガ・スライドは重要性というフィルムに「自分自身についてのネガティブな思考や感情」が写しこまれているもので、これが意識の光を受けて、そのネガティブな思考や感情を世界に(他者に)投影しているということでした。
ネガ・スライドそのものは願望実現に直接的に役立つというわけではありませんが、ネガ・スライドについて知っておくことで心理学において投影と呼ばれるものについて理解しやすくなることでしょう。また、投影の本質は重要性にあることもネガ・スライドは説明してくれています。このように、トランサーフィンは重要性について様々な側面から語っていますが、それは言ってみれば重要性こそが人生を開く鍵であるということでもあります。
そして、このスライドの働きを逆手に取って「理性がポジティブな態度になるように説得する」ために使えるのがポジ・スライドです。今回はこのポジ・スライドについて見ていくのですが、その前にこちらの画像をご覧ください。
前に見ていただいた画像に矢印をつけ加えただけのものですが、いま話題にしているのはこの矢印の部分ですね。つまり、目的の達成について魂は望んでいるけれども理性が弱気になってしまっているケースを、左隣へと移動させたいわけです。そうすることができれば外的意図が目的を現実化してくれるはずですね。そこで、ポジ・スライドの出番というわけです。ではゼランドの説明をみていきましょう。
ポジ・スライドという時点で、それはポジティブなものを投影させようとすることだろうという想像はついていたかと思います。ネガ・スライドは自分自身についてのネガティブな思考や感情(=短所)で作られていましたが、ポジ・スライドはその反対に、自分の長所を写しこみ、それを世界へと投影するものとイメージできますね。具体的にはどんな感じでしょうか?
あとで注意点を紹介しますが、言ってみればポジ・スライドはビジュアライゼーション(視覚化)の一種です。ここで注目しておきたいのは最後の部分ですね。
ここが一番のポイントになります。そのあとの部分とあわせて読むと、「スライドに調子を合わせるようになると、外的意図が仕事をしてくれる」という風に理解することができます。では、「スライドに調子を合わせるようになる」とは具体的にはどういうことなのでしょうか? それは快適域が拡がることを意味しています。これがポジ・スライドの働きの核心なのですが、その前になにが起こるのか、まずは順を追ってみていきましょう。
ここも重要な部分です。スライドを再現し続けていくと、やがてスライドは消えてしまうといいます。みなさんはまだスライドを作ってそれを再現してみるということをやっていませんが、その前にこのことはしっかりと理解しておく必要があるでしょう。
ネガ・スライドの場合、重要性はネガ・スライドができてしまった時点でそれは過大なものになっています。つまり、過剰ポテンシャルとなっているわけです。
いっぽう、ポジ・スライドにおいては、自分の理想像や長所、美点などをビジュアライズしてスライドに写しこむのですが、最初の時点ではそれらの像や長所、美点に与えられた重要性はマイナスといってよいでしょう。それらを重要だと思えていないからこそ、逆に悪いところ、好きではないところばかり考えてしまって、それがネガ・スライドになってしまっているわけですからね。
前回の記事で紹介したIn SPIRE の記事では「それについて考えれば考えるほど、それは重要になっていく」ことを明らかにしていますが、ネガ・スライドもそのようにして作られていくということです。であるなら、自分についてのポジティブなイメージも「そのことをずっと考えていたら、それについての重要性は上がっていく」ということになりますね。
とはいったものの、先に書いたように、最初の時点ではポジティブイメージに与えられた重要性はマイナスでした。第1巻の解説でも触れていますが、重要性に関しては、それが適正なレベルから外れていることが問題となるのであって、その外れかたがプラスであるか、マイナスであるかは関係がありません(いずれの場合もそれが過剰ポテンシャルを産み出します)。
つまり、言ってみればポジ・スライドを作ろうという最初の時点では、それに与えられているマイナスの重要性は、その人のネガ・スライドに与えられているプラスの重要性の裏返しとなっているわけです。
さて、とにもかくにもポジ・スライドを作ってそれを再現するということを続けてみました。すると、どうなるでしょうか? ポジ・スライドを再現するということは、そこに写しこんだイメージについて考えるということですから、再現し続けていくとそのイメージの重要性はだんだん上がっていくはずです。
やがて、ポジ・スライドの重要性がマイナスからプラスマイナスゼロに転じる段階が訪れるはずですが、これはなにを意味しているでしょうか? それは、自分についてのポジティブなイメージが程よい重要性を持つに至ったということです。
そしてこのとき、同時にネガ・スライドに与えられていたプラスの重要性もプラスマイナスゼロにまで引き下げられています。こちらも、欠点は欠点、短所は短所と知ってはいるけれど、そのことに過大な重要性はもはや与えられていないという状態になったわけです。
つまり、ここで重要性とともにスライドが消えるということですね。ゼランドの説明では消えるのはポジ・スライドですが、こうして考えてみると、同時にそれに対応するネガ・スライドも消えてしまうことが分かると思います。なお、ここで注意したいのは、スライドが消えるといっても、頭の中からスライドが記憶として消えてしまうというわけではないというところです。実際には、マイナスであった重要性をゼロにまで引き上げたことによって、スライドはもう必要ではなくなるということだと思ってください。
どうなったとき、スライドが消えた(必要性がなくなった)ことが分かるのでしょうか? そうです、それが「理性が目的の達成についてポジティブになった」ときです。とってもうまくできていますね。
さて、重要性を取り去る方法についてトランサーフィンではこれまでにもいくつかの方法が提示されていますが、ここまで見てきたようにポジ・スライドもその一つということができるでしょう。ですから願望とは別に、なんらかの重要性の問題に対処するためにポジ・スライドを試してみることは、もちろんアリです。
ただ、こと願望の実現ということに関していえば、ポジ・スライドを使うことのメリットは別の面からでも説明できます。それが先ほど触れた快適域を拡大するということです。
ここで快適域という概念が登場してきます。実は第1巻の内容を解説したこちらの記事でもこの言葉を使っているのですが、そこでは本筋ではなかったので、快適域とはなにかという説明はしていませんでした。
どんな人も、その人の周波数に合った現実を生きていると考えてみてください。するとその現実は、言ってみればその人にとって「居心地のよい」ものとなっているはずですね。たとえばあなたがもし居酒屋で飲んだり食べたりするのが好きだとしたら、居酒屋ですごす時間はあなたにとって居心地がよいわけです。逆に、そんなあなたにとってはお洒落で落ち着いたバーという空間はなんとも居心地の悪いものかもしれません。
このとき、居酒屋ですごすということは、その周波数はあなた自身の周波数の範囲に収まっているのですが、これを「居酒屋ですごすことはあなたの快適域の中にある」と言います。いっぽう、お洒落なバーで落ち着いた時間を過ごすということの周波数はあなた自身の周波数と合致していません。これは「お洒落なバーはあなたの快適域の外にある」と表現します。
さて、お洒落なバーが苦手なあなたですが、仕事上のつきあいでどうしても断れない、というような理由があって、月に二度三度は苦手なバーへと足を運ばざるを得なくなったとします。すると、どうなりますか? おそらくですが、バーが好きになるかはともかくとしても、バーで飲むという行動そのものには慣れていくのではないでしょうか? このとき、バーで飲むことはあなたの快適域に入ったということができるのですが、これを別の角度からみれば、自分の快適域の外側へと飛び出していった結果、新たにそこがあなたの快適域になったということもできます。かといって今度は居酒屋が苦手になるというわけでもないでしょうから、この場合は快適域が移動したというよりは、拡大したということになりますね。
快適域(コンフォートゾーン)については、わたしが知るかぎりでは苫米地博士がもっとも優れたエキスパートです。できればこの本などを読んでいただいて、コンフォートゾーンについてさらに知っていただくのがおすすめです。なんであれ、本当に頭のよい人が書いた文章を読むことには計り知れない恩恵があるものですが、その点でいえば苫米地博士の本はどんな本も読む価値があります。
ともあれ、ここでは次のことを要点として述べておきます。
理性が目的の達成についてネガティブなのは、目的が達成された状態(の周波数)がその人の快適域の外に存在していることを示唆しています。苫米地博士の本も含めて、コンフォートゾーンの概念を採用している願望実現法では、「快適域の外にある願望を実現するためには、自ら快適域の外に飛び出していけばよい」という風に言っていると思いますが、飛び出していくのでもよいし、飛び出しはしないで快適域そのものを願望の周波数に届くところまで拡大する、でもよいとわたしは考えます。ゼランドも、おそらくそのように考えているのでしょう。
異なっているのは、苫米地メソッドなどでは願望が快適域に入ればそれは現実化すると言っている(もちろんそれだけの単純な話ではないと思いますが)のに対し、トランサーフィンでは願望が快適域に入ることは理性に目的の現実化を信じこませるための要件であり、目的が現実化するには魂がそれを望んでいることが同時に必要であると説いている点です。
またしても長い記事になってしまいましたので、最後に重要なところを一つだけ指摘して、続きは次回の記事で書いていきたいと思います。
この文章の、「あなたがどんな夢も手に入れられるという考え方に対して魂の不快を信じなくなる」という箇所ですが、これは快適域が拡がって目的の達成にたいして理性がポジティブになれたとき、同時に「魂だってそれを望んでいるはずだ」と自然と思えるようになるという意味だと思います。
そもそも、ここまでのところ、魂がそれを望んでいるということについては、どうやってそのことを知るのか? 分からないときはどうするのか? といったことについては触れていません。これについてはまた別の記事で書いていく予定ですが、ここでは快適域が拡大されれば、そのとき理性は魂がそれを望んでいることをはっきりと分かるようになる、という風に理解しておいてください。
それでは、読んでくださってありがとうございました🙂
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