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【重要】ホーキンズ博士の意識のマップについて

先日からホーキンズ博士の「 I <わたし> 真実と主観性」についての記事を書きはじめました。これについてはすでにマガジンを作っておきましたが、せっかくなので「 I <わたし> 真実と主観性」だけではなく「パワーか、フォースか」の内容も今後とりあげていくことにします。

そこで、というわけでもないですが、博士の意識のスケールの概念を学んでいく上での大前提となる図表を今回は紹介し、これについて多少の解説をしてみたいと思います。この図表は「パワーか、フォースか」の第3章(第2章までは意識のスケールを設定する際の根拠となっているキネシオロジーテストについての概説となっており、肝心の意識のスケールについての本題はこの第3章からになっています)の冒頭に提示されています。それがこちらです。

本の図表をそのまま同じようにパソコンで作成しました

この表こそが意識のスケールの概念そのものといってよいもので、この表の見方をしっかりと身につけて理解することなしに、この概念を自分のものにすることはできません。基本中の基本、大前提の大前提といってよいものなのですが、わたしが思うに「パワーか、フォースか」にはこの表そのものの読み方、見方についてのちょっとした説明が抜けているんですよね。その説明とは、「表の一番上の段にある各項目がなにを意味しているのか」というものです。

真ん中の「レベル」「ログ」については、わたしも記事においてよく言及していますが、これはそのまま意識レベルを表す代表的な数値(ログ)と、それぞれのレベルを象徴する感情や態度(レベル)を表しています。ここについてはそんなに説明はいらないかと思いますが、あとで重要な点だけ指摘しておきましょう。

問題はそれ以外の項目「神の視点」「人生の視点」「感情」「プロセス」とはなんぞや? というところですね。これらの意味をしっかり理解できなければ、この表の価値は半減(それでもすごい価値ですが)するといっても過言ではないでしょう。それではさっそくみていきましょう。

「レベル」

「レベル」は文字通り意識のレベルを表しています。意識レベルについて言及する際には 意識レベル500、意識レベル175 というように数値であらわすことが多くなりますが、この数値はあくまでそれが人間の意識のグラデーションにおいてどの位置にあるのかを示すための指標(これが「ログ」です)であって、実際にその位置にいる人物がどんなレベルなのかを表しているのがこの「レベル」ですね。

他のところでも書きましたが、この「レベル」に書かれているキーワードはそのレベルの人物にとっての人生の動機を表してもいます。意識レベル175の人物の人生はプライドによって突き動かされています。意識レベル310の人物は意欲によって日常を切り開いていますし、意識レベル540の人は生きることそれ自体が喜びであり、なにをするのも喜びからであり、かつ、なにをしても喜びと感じます。

ただし、600(平和・覚醒)のレベルでは二元性が超越され、個人的な動機はコンテクストの中に溶けて消えてしまいます。それゆえ、600(平和)や700-1000(悟り)の領域では「レベル」は動機ではなく状態を表します。

「ログ」

ログとはlog(対数)のことで、意識のスケールの数値はこの対数で表現されており、たとえば意識レベル200とは10の200乗を意味しています。この数値が示すのは意識のエネルギーの強さです。

基本的なこととして、200未満(199以下)はネガティブなエネルギー(フォース)で、200以上はポジティブなエネルギー(パワー)と表現されます。これは見落とされがちだと思いますが、フォースは生命の維持にとってマイナスで、パワーは生命に有意義であるというのがその本質的な定義になります。ひとりの人間でみた場合、フォースは自分自身が生きるためのエネルギーを供給することしかできません。パワーの領域になると、他者とエネルギーを分かちあうことが可能になります。

意識レベル201だと10の201乗ということになりますから、意識レベルが1ポイント上がる毎に、意識のエネルギーの強さは10倍になるわけです。10ポイントだと、なんと100億倍! です。とんでもない違いですね。もっとも、このエネルギーはとっても微細なもので、現在の地球の科学では測定はおろか検知さえできません。それでも、ブッダ(意識レベル1000)のような人類最高レベルの人物になると、記録では後光が差していたなどと伝えられていますね。実際に輝いて見えたかどうかは分からないですが、そうでなくてもそれだけ強大なエネルギーを放っているわけですから、感知できる人にはできちゃったかもしれませんね。

「神の視点」

「神の視点」の項目にある言葉はそれぞれのレベルにいる人物が「神をどんな存在だと感じているか」を表します。これは「神の視点」という言葉だと正直ちょっと分かりにくいと思いますね。「神についての視点」とした方が適切でしょう。

30のレベル(罪悪感)にいる人にとって神は罪深い自分に復讐する存在です。125(欲望)のレベルの人は自分の動機(欲)がいつも神に否定されると感じています。350(受容)レベルの人は神の働きに慈悲深さを感じ、600(平和・覚醒)のレベルにいる覚者は「神とは存在するすべてである」と知覚しています。

他の項目もそうですが、神という存在について自分自身がどう感じ、どのようなものだと考えているかを自問自答してみることによって、自分がいまどのような意識レベルにあるのかを大まかに知ることができます。これがこの表のすごいところです。ちなみに無神論者はどうなる? という疑問もあるかもしれません。その場合は神を「運命」に置き換えてみればいいかもしれません。

「人生の視点」

「人生の視点」も、この言葉だと主客を逆に見てしまいそうでちょっと分かりにくいと思います。ですが、これも「神の視点」と同じで、人生をどのようなものだと思っているかということです。つまり「人生についての視点」すなわち人生観ですね。もしくはその人の人生を一言で象徴したらこうなる、といってもよいでしょうか。

深い悲しみのレベル(75)にいる人にとって人生はまさに「悲劇」です。200(勇気)のレベルの人は人生を実行可能なもの(自分の意志で切り開いていけるもの)と見ています。意欲(310)の人物にとって人生は希望そのものであり、理性の領域である400台の人々は人生を有意義なもの、生きる価値のあるものだと認識しています。愛のレベル(500)では人生は神の恩恵(恩寵)です。

自分にとって人生とはどんなものだろうかと考えてみることによって自分がどのレベルにいるかを知ることができますし、また他の人たちの人生観を知ることで、自分のまわりにどんなレベルの人々がいるかを知ることができます。

「感情」

「感情」の項目はそれぞれのレベルにいる人々に顕著な感情または態度を表しています。「レベル」の項目にも感情や態度が示されていますが、あちらはその人の原動力となる能動的な感情と態度で、こちらの「感情」では「レベル」で示されたものによってその人が生きていくなかで自然と発露される感情や態度を表しています。これらは原因と結果といえますし、または裏表とみなすこともできるでしょう。

ここでは低い領域では感情が、高い領域では態度が示されているところがポイントです。感情が前面に出てくる人は低い意識レベルの領域にあり、意識レベルが高くなるにつれ感情はポジティブな態度に置き換えられていき、さらに高いところ(540-)ではその人の内面の状態がプレゼンス(臨在)として表現されます。

ちなみに500における「崇敬」はちょっと分かりにくいでしょうか。崇敬とは自分よりも高いもの、偉いものを敬うという意味です。そのまんまの意味にとってもよいですが、500が霊的なレベルのはじまりであることを考えると、より高次の存在(神やハイヤーセルフ)を認識できるようになり、謙虚に頭が下がるようになるということです。この崇敬には理由は不要です。

「プロセス」

「プロセス」はそのレベルではなにが経験されるかを示しています。欲望(125)のレベルでは人は欲望の奴隷である自分を経験します。中立(250)では善悪の判断や固定観念から開放され、350(受容)のレベルに至るとさらにそうした観念がすべて自我の作り出す幻想にすぎないことを理解しはじめます。知覚の焦点はコンテントから徐々にコンテクストへと向きはじめます。この変化が「超越」という言葉が指しているものです。例えば多様性という言葉が最近よく使われますが、より低いレベルでは多様性とは文字通り多様なものが存在しているということを意味していますが、350のレベルでは多様性とは「全体性」の意味になります。

この「プロセス」は特に霊的な領域(500-)に到達しているかどうかを確認する上ではもっとも重要な側面です。500のレベルに到達すると、啓示を頻繁に経験します。啓示というとやや神秘的に過ぎますが、インスピレーションや直感、あるいはシンクロニシティをしょっちゅう経験するようになると、その人は500以上の意識レベルに至っている可能性が高いといえます。

540では自己と神がおなじ一つのものである(すべてはひとつである)という知覚が生じはじめます。これを神人合一とも言いますが、表にある「(神)変身」とはこのことです。覚醒(600)した人の多くは隠遁したり、この世から去ることを選びますが、なかには俗世で生き続けることを選ぶ人もいます。そうする目的は人類を啓蒙することです。

まとめ

これでこの表の見方についての解説はおしまいです。それぞれのレベルについてのより詳細な解説は「パワーか、フォースか」に書いてありますので、そちらをお読みください。その際に、この表をスマホに表示させておいて逐一照らし合わせながら読まれると、より一層理解が進むことでしょう。

最後に「パワーか、フォースか」より、この表についての博士のコメントを引用しておきます。

この意識のマップを熟視していただくと、それらの表現が意味することに共感が生まれ、みなさんが「至福」の境地に至る道がさらに短くなります。至福の境地に至る秘訣は、自分自身も含めて、生きとし生きるものすべてに対する無条件の優しさです。これを慈悲心(思いやり)と呼びます。

どんなに努力しても、思いやりがなければ有意義なことは何も達成できません。個人的なセラピーから大きな社会的状況に至るまで、一般論的なことに対しても同じことが言えます。患者は自分自身にも、また他の人々に対しても、思いやりのパワーを呼び起こすまでは、本当の意味で治ったり、根本的に癒されることはありません。そういう癒しが起きると、今までヒーリングされていた人が、きっとヒーラーになることでしょう。

至福とは意識レベル600において経験される内面の状態です。600は覚醒の領域であり、この領域に到達した人を覚者と呼ぶのですが、覚醒とはいわゆる解脱のことでもあります。解脱とは輪廻転生から脱するという意味ですから、覚者になるともはやカルマからは解放され、望まない限り生まれ変わる必要もなくなります。

歴史を通じて人が覚醒に至ることは非常に稀なこととされていますが、博士はこの意識のスケールの概念を学び理解し、人生の全局面において活用すれば、覚醒に至るのもそんなに難しいことではないんだよ、と言ってくれています。

それに、もちろん覚醒だけがゴールではありません。わたしの経験も踏まえていえば、意識レベル500を超えると人はほんとうの幸せを感じて生きることができるようになります。また、540を超えればよほど凶悪なルシファー的エネルギーに目をつけられない限りはもうそこから意識が転落することがなくなります。ですから、わたしは事ある毎に意識レベル540を目指しましょうと言い続けてきましたが、その思いはいまでも変わりません。

また、博士が思いやり(慈悲心)を強調されていることにも注目してください。これはわたしの持論ですが、意識レベルを高めるために一番大切なことは「自分の身の回りにいる人々、家族やパートナー、友人、知人といった人々に対して思いやりをもって優しく親切に接すること。そして彼らの役に立つこと」です。

これ以上に大切なことはありません。瞑想だとかヨガだとか、なんちゃらエネルギーワークとかは正直にいえばどうでもいいとわたしは思っています。身近な人々を思いやって優しく接することの出来ない人がいくら瞑想したところで、それはエゴを余計に元気にさせてしまうだけです。

その意味でいえば、すべての人にとって最も重要で、かつ最も適切な学びの場は、その人の日常生活そのものです。そこにいる人々との関わりにおいて、どんな自分であるか、どんな態度でいるか、なにができるかがすべてです。なぜなら人生にはそれしかないからです。

ちょっと余談が長くなってしまいましたが、今回はここまでになります。お読みくださってありがとうございました。また次の記事でお会いしましょう。

(余談の余談)最近、何周かまわってGARNET CROWをまた聴いています。いま聴いてみるとGARNET CROWの歌詞(by AZUKI七さん)はキリスト教の世界観を中心にスピリチュアルな要素が多いですね。そのせいもあってか、わりと安心して聴くことができます。昔はそういうことあまり考えてなかったなあ。

音楽ももちろんそれぞれ異なった意識レベルで測定されるのですが、低い意識レベルだから駄目だと一概に言えるものでもないんですよね。極端な例ですが、意識レベル50の無気力、絶望の領域にいる人にとっては欲望(125)や怒り(150)を触発するメッセージに満ちたギャングスタ・ラップを聴くことは生きていくエネルギーを高めるための刺激になります。

とはいえ、より高い意識レベルへと自身を高めたいのであれば、言語的なメッセージがなく調和的なメロディを奏でるインストゥルメンタルやクラシックなどが無難でしょうか。もちろん歌詞のある楽曲でも高い意識レベルの世界を表現しているものもあるでしょうが、見出すのはなかなか難しいかもしれませんね。でも、たとえば水曜日のカンパネラの詩羽さんの歌はネガティブな言葉が一切ない(代わりに意味もあまりない😆)ので気楽に聴けるでしょう。


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