John Doe in the Wonderland!

にじさんじ所属Vtuber、ジョー・力一の1stミニアルバム「カーニバル・イブ」より、先行公開されたジョン・ドゥ・パレードについて、感想などを諸々つづっていきます。

まず曲がよーーーーーーい!!!!!
曲が良すぎませんか。
僕はサンホラ→ヒラサワと聞いて来たオタクなんです。
展開が多くてドラマティックな曲が大大大好きなんですよ。
曲が良すぎる。
オルゴールのねじを回すような音と、薄暗い屋根裏のような、モノクロ映画のような始まりから、鐘の音、金管の踊るような明るいメロディと移行していくのがめちゃめちゃに好み!!!!
すき。


歌詞について

雨に晒されたキャンバスの中で
屋根裏部屋のクッキー缶の中で
忘れられた楽園のあの夢が
レムに眠る街へと 君を呼ぶ

夜の闇に傘をさし
まわれ まわれ あどけなく
素顔よりずっと自分に似た
仮面を幾重 重ね

最初「UNDO in the Wonderland」と仮歌詞が入っていたという所からも、
「忘れ去られたもの、置き去りにされたもの、無かったことにされたものたちのパレード」なんですよね。
その上で、「屋根裏のクッキー缶」「雨に晒されたキャンバス」が最初に出てくる。
思い出だったり、衝動だったり、自己表現だったりが置き去りにされてしまった状態から始まって、浅い眠りについている夜の街へと誘われる。
「あどけなく」「素顔よりずっと自分に似た仮面」で夜に踊る。
ここって、大人が忘れてしまった幼いころの自分だったり、本当の気持ちを取り戻して踊って、なんだろうなぁ。
素顔よりずっと自分に似た仮面、というのはVとしての姿、とも考えられるし、自分がいつも鏡で見ている「大人として、日常につかれた、お行儀のよい顔」ではなく、その奥にある純粋な楽しみだったり愛情だったり感情のことにも思えます。
本音やむき出しの感性は大人だったら隠してしまう物だし、それがいわゆる普通の仮面なんだろうと思うし、ともすればそれが本当の自分だと思って過ごしている、自分はこうなんだと思い込まなきゃやってられないのが大人なのかもしれない。
だって、なにかに一喜一憂して、みずみずしい感性のまま子供のようにふるまうことを「大人」としては定義しないし。
いつも鏡で見て、認識している「素顔」ってほんとに素顔なんですか?って問いかけなのかも。知らないうちに本音を殺してませんか?って。

一番サビ
John Doe in the Wonderland
さぁ踊ろう
幸も不幸もここじゃ身元不明
昏倒寸前のビッグバンド 鳴り響け
振り返る君を待ってる
この孤独に集え
それぞれのファンファーレで 幻夜のパレード

めっちゃいいよね・・・・(急に低下する語彙力)。
幸も不幸もここじゃ身元不明、振り返る君を待ってるってあたりが好き。
孤独に集え、それぞれのファンファーレでっていうのも、あくまでも個として独立した存在が、行き先もそれぞれだけどワンダーランドに集合して出発していくみたいで、孤独なんだけど孤独じゃない雰囲気が好き。
振り返るってことはやっぱり置き去りにしたモノたちの歌なんですよね。

出来損ないにさえなれぬまま
「有り得ない」と嗤い 大人びた
昏く眩い刹那のあの夢が
百鬼夜行のランタンに灯を点す

ここが一番好きだ!!!!!!
チャレンジすらせず、あり得ないと切り捨てられた夢が、行く先を照らすはずのランタンに灯を点すんだよ。
捨てたモノが行く先を照らすってイメージは平沢進楽曲にもあるイメージなかなと思っています。
現代の情報の波が激しい社会の中で、自分の大切なモノや感性を守っていくってすごくカロリーが高いと思うんですよね。
波にもまれる中で、自分には無理だと自嘲しながら、あるいはありもしない他人の嘲笑を想像して手を離してしまった、常識や普通からは少し逸脱するモノが、実は大切なのではないかって思う時があって、それはいわゆる「世間様」からすると後ろ指差して笑いたくなるモノなのかもしれません。
まぁそれは「世間様」の都合なので、本当は自分が大事ならそれでいいんですけどね。
「昏く眩い」というところからも、捨てた夢はすこし後ろめたさを含む憧れのものだったのが見えます。
それが百鬼夜行のランタンを輝かせる・・・。
最高の画じゃありませんか・・・。

それはやがて罪深く
イデアに咲く誤変換
「美しいもの」の定義なんて
簡単に変わらないでしょう?

この部分、ちょっと解釈が難しいかな?と思っています。
イデアがなんなのか、まず考えないといけないんですが、ちょっと調べてみると「理想」「理念」としているところが多いです。
とりあえず「イデア」=「理想」として考えてみると、「理想に咲く誤変換」ってなんぞ・・・?となります。
続く「美しいもの」の定義なんて簡単に変わらないという一文も意味深ですけど、具体的じゃないですよね。
うーん、難しい・・・。

イデアを哲学の用語として解釈することもできます。
が、読んでみたけど難しすぎ。
一応、他のサイト様から引用すると「知覚を超越した場所に存在し、直接には知覚できずに想起によってのみ認識し得る、抽象化された純粋な理念のこと。そして、対象を対象たらしめている根拠であり本質、真の存在」らしいです。
引用元:https://news.mynavi.jp/article/20210525-1880768/

ざっと読んでみた限りだと、哲学用語のイデアが感覚的に近いのかもしれません。
「理想の状態」って、今の自分が経験してなくても思い浮かべられますよね。
目の前にないのにある状態を想像できるということは、実は最初から自分たちは「それ(万物)を知っている」んじゃないか?というのがイデア論みたいなので、あらゆるものを知っている自分たちの思い浮かべる「理想」の中に「誤変換」・・・本来なら消されて修正されてしまうはずの「間違った理想」が出てきてしまった。
間違った理想は修正されるべきなのかもしれませんが、あらゆるものを知っているはずの自分の中に果たして「間違い」なんてあるんでしょうか?
自分が「美しいもの」を思い浮かべた時に出てきたイメージが「誤変換」のように一般的には修正されるべきものだったとしても、自分の中の「美しいもの」が出力したものは「簡単に変わるはずのない」自分自身のオリジナルな定義なんじゃない?
ちょっと無理やりかもしれませんが、そんな風に解釈しています。
力ちゃんの曲や活動の中にある一貫したスタンスと比較してもしっくりきそうかな。

ラスサビ前の間奏のお祭り感、すき。
スガシカオの午後のパレードという曲があるんですが、なんかそういうパレード感のエッセンスを感じます。
感覚的で申し訳ないんですが、こう、ちょっと狂乱と狂騒の何が起きるかわからないけど楽しくてお祭り騒ぎなかんじ。
でもぱっと切り替わるので不思議と統率はとれてる気がする。
この曲に感じるミュージカルとかお芝居の雰囲気はこのピシッとした切り替わりと狂騒の雰囲気なのかなぁ。

John Doe in the Wonderland
さぁ踊ろう
二度と再現できないステップで
逆行のメリーゴーランド 笑えるかい
その果てに何が待ってる?

「二度と再現できないステップで」踊ろうっていいですよね。
その場の気分ででたらめなステップを踏んでいるパレード。
映画パプリカのわけわからんでたらめパレードっぽさもあります。
「逆行のメリーゴーランド 笑えるかい」って聞いてくるの、
笑う覚悟があるかい、というニュアンスもあるんですが、笑い飛ばしちゃいなよ、You!みたいなのも感じませんか?
Flowing,walkingに「どんなことでも 笑い飛ばしたいんだ」ってあるように、笑う事で救うのは力ちゃんのスタンスだと思うから、君もそうしちゃったら?みたいな。
クエスチョンマークがない問いかけだからより提案っぽいのかな。
そして「その果てに何が待ってる?」
こっちはクエスチョンマークがあるのでホントになにが起きるかわからない感があります。
まぁ、行き先はそれぞれですから、その先に何があるかは個人個人で違うんでね。そうですよね。

この孤独に集え
目的地はひとつじゃない エンドレスパレード

やっぱり孤独に集うんですよね。
力ちゃんの発信するメッセージの中に、「孤独」ってやっぱり含まれている気がして、良くも悪くも人は孤独なので、より「個としての自立」みたいなものをしっかり見つめてるように感じてます。
だからこそ「一緒に夢の世界にいきましょう」ではなくて、あくまでも
「目的地はひとつじゃない」なんですよね。
行き先は貴方が決めてくださいね、でも同じ孤独をもって集まることは出来るし、ここからそれぞれに進んでもパレードになるんですよって言ってる。
良く考えればパレードって行先は同じ集団なはずなんですけど、目的地が一つじゃないのにパレードとして成立するって歌うのが力ちゃんらしくて好きだなぁって思います。
多対一になるのを怖がったりする様子からも「個と個」の対話を大切にしてるだろうし、個であってほしいと思ってるのかもしれませんね。
Vtuberは人間をみせるものだ、という考え方からすると、それぞれの人生、それぞれの夢、理想、好き嫌いを大事にしている人だと思うので、より一層、このジョン・ドゥ・パレードを聞いてどこに目を向けてほしいのか考えて作詞してるんだろうな。
V=人間をみせるもの、なら、本当は私たちひとりひとりがVになる素養は持ってるはずなんです。
それぞれの人生、好きなモノ、経験、全部違うので、それぞれが主人公としてお話を紡ぐことが出来るんですよね。
実際に機材を用意してうんぬん、という事じゃなくて「貴方の人生の主人公は貴方しかいません」というメッセージが力ちゃん自身の生き方からも見えるんじゃないかなぁって。

余談ですが、私はレイテスト・ショーマンは「りきちゃんの渾身の自己肯定」だなぁと思っています。
逆に言うと、自己否定するわけないよね、前向きで当然だよね、という気持ちもあります。
もちろん明るくてまっすぐで、最高の曲なんですが、これは聞き手の問題です。
今こうしてVとして活躍している人間として、いつからでも夢を追う事を否定できるわけがないよね、というちょっと斜に構えた解釈をいれてしまうので、素直に聞きづらいのかもしれません(笑)
煌さんはレイテスト・ショーマンをすこし鬱陶しく?説教臭く?感じちゃう側のひとなんですねぇ。
なので、このジョン・ドゥ・パレードは聞きやすくて好きです。
個々の肯定であって「力ちゃんの肯定」とはちょっと違うから。

いろいろ書いてみましたが、ジョン・ドゥ・パレード最高です。
私はヒラサワと共に20代を過ごしたので、パレードがそもそも好きなんですけど、このジョン・ドゥ・パレードもヒラサワイズムがあると思います。
もちろん力ちゃんに流れている音楽はヒラサワだけじゃないので、B'zが好きな人から解釈した歌詞はまた違う景色だと思います。
煌はこう聞いたよ、ってだけなので間違いも解釈違いもいっぱいあってください。
それぞれのジョン・ドゥ・パレードが胸にあると思うので。
煌としては、個々の理想や夢の肯定、それにむかって行くことの肯定を強く感じています。
ジョン・ドゥ、名無しのパレード。
名前なんかで縛らないよ、いまこれを聞いてるお前のパレードだよって事なんじゃないかな。


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