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自分を他人に100%理解してもらうことが不可能だからこそうまくいく

フォーカシングは一人でしかできないのか?

昨日の フォーカシング読書会で次のような質問があった。

自分のフェルトセンス(体感覚、感情)に意識を向けて感じ取ってみることはできても、それを言葉にして他人に伝えると抜け落ちてしまうものがたくさん出る。だから、フォーカシングは1人でしかできないものなのではないか?

自分の体験を100%正確に他人に理解してもらうのは不可能

体験を言葉にして他人に伝えると抜け落ちるものがたくさん出る。それは確かにその通りだ。本人が体験していることをそっくりそのまま100%全く同じように他人が体験することはできない。

フォーカシングでは、自分のフェルトセンス(体感覚・感情)を感じる側を「フォーカサー」、フォーカサーと対話してその体験を聞きとりながら、フォーカサーがフェルトセンスを感じ取る、つまり、フォーカシングするお手伝いをする側を「リスナー」と呼ぶ。

リスナーはフォーカサーの内的な体験を100%同じように体験することはできない。

イメージでいうと、大きなリュックサックにたくさん色々なものを詰め込んであり、中に何が入ってるのかを知らないのだが、そこに手を入れて手触りで中にあるものを推測する感じに近い。なんとなくぼんやりこんなものがあるのかなと想像してみることはできるが、本当にそうであるかどうかはわからないし、100%正確に推測できているということはありえない。

コミュニケーション一般においても100%の体験共有は不可能

そして、他者との間で100%体験を共有できないというのは、フォーカシングに限ったことではない。

たとえば、人と人が会話する時にはいつも話し手の体験は言語化した時点である程度歪曲、削減されてしまい、聞き手は100%話し手の体験を共有できることはない。 ここがコミュニケーションの基本となる。

しかし、フォーカシングでも一般のコミュニケーションでも、自分の体験を100%正しく他者に理解させないと、その目的が果たせないわけではない。 時には100%共有できていないからこそ、かえってうまくいくこともある。

フォーカシングの目的は、未知の自分を知り、つながること

フォーカシングの場合、その目的はフォーカサーが自分自身のフェルトセンス(体感覚・感情)とより深くつながる、フェルトセンスの輪郭や内容をよく感じ取り、受け入れていくことにある。自分で自分の心の中には何があるのかを知る、ということだ。リスナーはその手伝いをするだけであるから、最終的にはフォーカサーの体験がさっぱりわからなくとも問題がない。フォーカサーが自分のフェルトセンスとより深く繋がることができればそれで良い。

リスナーもフォーカサーも100%の理解はできていないからこそ、フォーカサーは自分を知ることができる

ここには一つの前提がある。それはフォーカサー自身も自分の体験のことを100%熟知しているわけではないということだ。

一つちょっとしたたとえ話をしてみよう。

ぼくは今の地域に10年以上住んでいて、周りには見慣れた風景が広がっている。 でも、まだ入ったことのないお店がたくさんあるし、そもそも、見落としていて存在に気づいていない店や家がたくさんある。民家やマンションの一つ一つを丁寧に観察したことはない。

そんなぼくに対して、遠方から初めてやってきた人が質問する。

「この辺に編み物の道具を買える店ってありますかね?」

ぼくは考え込む。

「編み物か…やったことないから、そんな店があるかどうか考えたこともなかったな。あったかな?編み物の道具がありそうなのってユザワヤとかそういう手芸用品店とかだよな。そういや駅前のパルコの中に西松屋って入ってた気がするけど、あれってユザワヤみたいなものなのかな?名前の雰囲気は似ているけど…」

でも、ネットで検索をしてみると西松屋はどうも子供服などを売ってる場所のようだ。手芸用品店とは少し違った。

そうやって、ぼくは近所の地理や店について少しだけ詳しくなる。うちの近所についてよく知らない人がぼくに質問をして、ぼくがその質問に答えようと記憶を探索したからこそ、西松屋という存在に興味を持って注目することになった。ぼくも質問者もうちの近所の地理を100%正確に把握しているわけではない。ぼくの方が質問者よりも地理を把握はしているが、それでも100%ではない。 でも、それで問題はないし、そうだからこそ、質問されることがぼくにとって意味がある。

フォーカシングにおいてリスナーが果たす役割というのは、この質問者がぼくに対してやっていることに近い。 質問者はよくわからないから、それを知るために質問する。すると、質問された側もその質問に答えようと自分の中を探索し、そこで新たに自分について何かをを知ったり、気づいたりする。

100%幻想とは何か?

もしも、フォーカサーがリスナーに対して自分の体験を100%理解してほしいし、100%理解してもらえないと不快だと感じることがあれば、それはメンタライゼーションの中で出てくる「100%幻想」概念とつながりがあるのかもしれない。100%幻想とは、外傷的育ちを経験してきた人が、心の奥底から100%自分のことを理解して対応してくれることを他者に対して強く望む気持ちのことだ。100%正しく自分を理解してくれる他者がこの世界のどこかにいて、それこそが自分にとって必要不可欠な相手であると信じている。

「うちの親は不出来な親だったので、自分のことをわかってくれなかった。でも、本当にいい親だったら100%自分のことをわかってくれたんじゃないか?」

そういう未練を親に対して持つ。

そして、実の親はその期待に応えてくれないという現実に直面すると、次は親ではなく他の親密な人たちに期待をかけるようになる。

「うちの親はまだ無理であるけれど、親以外の他の人、もっといい人であれば自分にとっての理想的で完璧な理解者になってくれるのではないか?100%自分を理解してくれるのではないか?」

だが、100%自分の期待通りに自分を理解し、対応してくれる人間などこの世界にはいない。 期待をかけた相手が100%自分を正しく理解してくれていないと気づくとそこに強い失望や怒りを感じる。 その結果、その相手に対して攻撃的な態度を取ったり、不満を爆発させたりする。こうして、100%幻想を持っている人は他者との間に親密な関係を安定して築くのが難しくなる。

100%幻想とフォーカシング

100%幻想をフォーカシングの中に持ち込むと、自分がフォーカサーの時には、リスナーが自分の体験を100%正確に共有していないことに対して腹が立ってくる。自分がリスナーをやるときには相手の体験を100%理解することなどできないがそれは許されないとハードルを上げてすごく緊張感が高まる。その結果、フォーカシング自体がうまくいかなくなることもありそうだ。

だから、そういう場合は、まずは自分の中にある100%幻想に伴う感情からフォーカシングしていくのもいいかもしれない。

現在、メンタライゼーションの読書会フォーカシングの読書会を同時並行して進めているため、質問されたことに端を発してそんな連想もわいてきたのであった。

読書会のお知らせ

先ほどから話題に出した読書会は現在も参加者募集中です。

フォーカシング読書会

月3回、木曜日21時から23時程度。アーカイブ視聴もできます。
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フォーカシング読書会(木曜読書会)

メンタライゼーション読書会

月1回、第4火曜日21時~23時程度。アーカイブ視聴もできます。
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メンタライゼーション読書会(大人のための国語セミナー オンライン読書会)


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