痛々しいシン仮面ライダー感想

シン・仮面ライダーが公開されたので観に行った。

学生のときにシン・ゴジラ
社会に出てからシン・エヴァンゲリオン
社会の荒波に揉まれてからシン・ウルトラマン

そして、環境が変わった今シン・仮面ライダーが公開された。

仮面ライダーは自分が生まれるはるか前の作品であり、今も好きな仮面ライダーシリーズの礎になった大切な作品である。

仮面ライダー1号、仮面ライダー2号と後に呼ばれることになったショッカーの改造人間のドラマは自分の生まれてからリメイクも作られたり、レジェンド客演として常に後続の作品の背を押してきてくれた偉大なヒーローの印象が強い。

仮面ライダー自体すべての作品を見たわけではない。
ただ、昔の昭和ライダー特集ビデオや、平成になってからの客演で注目された話、レンタルビデオで親が借りてきてくれたものを観ただけだ。

仮面ライダーとは改造された人間がもう人には戻れないという悲しみとともに、同じ改造人間であるショッカー怪人たちの命を奪う悲哀の物語だと知ったのは少し大人に近づいた年頃の時だった。


だからこそ、概念でしか自分は本郷猛=1号、一文字隼人=2号を知らなかったし、知ることができた手段は仮面ライダーTHE FIRST・THE NEXT、仮面ライダー大戦、映画仮面ライダー1号、スーパーヒーロー戦記の、成熟した藤岡弘、の辿り着いた究極のヒーロー像か黄川田将也の未熟で不屈のヒーロー像しかない。

このどれもが同じ改造人間を手に掛けるという命の奪い合いに対する葛藤は答えが出てしまっていたため、実際にちゃんと目にしたかと言われると、答え合わせをした感じが強かった。

ただ黄川田将也の1号はちゃんと改造人間になって人ではなくなったところがあったため、昔ブラックで見た「もう戻れない」という現実をそこで知れた。


さて、話は戻ってシン・仮面ライダー公開前に出た予告で僕の期待は限界点まで達していた。いやもう、正直すんげぇかっこよくシンプルなライダーキックが予告に出てきて、こりゃすげえもんが見れると思った。

その予想はいい意味で裏切られる。


始まってすぐは映倫判定が出るのも頷けるシン仮面ライダーだった。

だが、段々話が進むと毛色が変わる。

まず、本郷猛は改造人間である現実と改造人間の命を奪った事実に耐えられていない。
というか改造された事実よりも、命を奪った事実のほうがとても重い。会話をするときなどは顕著に、声が震え、目線はある一点しか見ていない緊張状態だ。

緑川博士から「君が望んだ力だ」と言われる。本郷猛は凡そ一般的に見て間違いなく善性を持ち合わせた普通の人だ。そんな人が急に「力は渡した。今から敵を倒して(殺して)」と言われてできるか?

出来るわけがない。暴力に対して暴力は出せても殺気を出すというのは全く違う。ジョジョ5部を見て痛感したことだが、殺すと思ったときには行動は終えている。そのレベルの意思決定力があってこそできるのが、明確な殺意を持って戦うことだと思う。

それなのに彼は仮面に組み込まれた機能のせいで相手の頭を潰し、体を蹴り砕くことができる。仮面を脱いだあと残るのは命を奪った結果のみ。

本郷が泣いたとき、僕も泣きそうだった。

本郷猛には緑川ルリ子を守るという社会的に見ても正義と捉えられる行為のために反社会的行動の殺人をしなければならない矛盾に心が締め付けられる。

五代雄介が嫌な感触と話した人を殴る感覚、彼はそれを嫌と言う思考の前に行動を完結できてしまう体になっていた。

すべてが本人ではどうしようもないレベルの状況で変身を解かれ舵取りを戻されて、最後の願いを託される。

なまじ達成するために必要な要素をすべて持っているので、投げ出すこともできない。
彼はルリ子を守ることを放棄するわけない。それは善性に背く行為だし、あの時点で本郷猛がバッタオーグではないという証明になるのだから。

彼は自分がオーグではないことを証明するために命を奪うことを肯定しなければいけない。

間違いなく、これは悲哀だろう。


自分語りで申し訳ないが、自分じゃどうしょうもない仕事を振られたとき、自分の能力では足りないのを嫌でも分からされながら日々仕事は嫌味のように進んでいく。
プライドも何もかも捨てて頭を下げながら色んな人の手と知識と経験を借りてなんとか振られた仕事が及第点でできてしまった。
これが一回きりならいいが、学生の頃から色々な事案が続いているので、自分はすり減る中、人としての信用が生まれたのは間違いなかった。もし次も同じことがあったら、また自分はなんとか頑張るのだろう。
今まで犠牲にしてきた自分に顔向けできないし、できる手を尽くしてないのに逃げるのなんて自分が許さないから。

この身内から腹切り精神と呼ばれた経験と行動と思考回路が、本当に全然違うのに、全くこの映画のテーマに掠ってるわけでもないのに、どうしても、本人の関与しないまま始まってしまった本郷猛に重なってしまった。

ここからは完全に僕の妄想である。

本郷猛は、守るという信念のもとヘルメットの機能に打ち克ち、最後までバッタオーグではなく仮面ライダーとして戦い抜いた。

ルリ子を失って一人泣いたあと、覚悟が決まったように見えるが、僕には最後の一線をなくしたことで歯止めが効かなくなったように見えた。

仮面ライダーである証明は常にルリ子が隣りにいることで成り立ったのに、第二号という同士(代替)が出来て、仮面ライダーという踏ん張り続けた名前の唯一性がなくなったのだ。

彼は自分が今ここにいる意味を緑川博士との約束に縋っていたが、次第に今隣りにいるルリ子を守る仮面ライダーという称号に縋ったんじゃないかと思ってしまう。

そのため、それを失ってしまった彼は、ルリ子が最後に託した約束を最後にすがるものにするしかない。
何を犠牲にしても、それを果たすことで彼は仮面ライダーでいられるのだから。

そうなるとやることは一つ。戦うことだ。
しかし敵は強い。じぶんではどうしようもないことはわかり切っている。取れる手が少ないから、彼は一文字隼人にも素直に助力を頼める。

第0号との戦いのはてに彼は肉体を犠牲にすることを選んだ。

それはなぜか。守るべきはもはや約束しかないため、もはや命を顧みる意味などないからだ。

第0号との戦いでの本郷猛の顔は、一番安らかなもののように僕は見えた。父の最期の記憶との決着、最後まで仮面ライダーとして戦い抜けた結果、一文字隼人という、自身の願いを託せる仮面ライダーも見つけた。

一文字も律儀な人間だ。彼は仮面ライダー第1号の横に並び立ちつつ、その背中を見てしまったことでシン仮面ライダーとする覚悟が出来上がった。


あまりにも美しくて本当に映画のときに涙が止まらなかった。
本郷猛は、自身を変えた。一文字隼人は変わらないまま仮面ライダーになった。

一文字が欲した新しいヘルメットは鮮やかな水色。それは空色かと思ったが、それは空ではなく風の色だった。

一人の人間が突如力を手にしたときに到達する終着点として一つの究極系を見せられて本当に感情がおかしくなった。

帰り道に縁石に座り込み、夜空の星を見て缶コーヒーを啜りどれだけ泣いたかわからない。

作品を楽しむ上でしたくなかった自分に重ねてしまうというタブーを犯してしまった恥と罪悪感があるにしても、それは後悔ではなく感動の涙だったのは暫くの間自分の感情を壊し続けるトリガーであり続けると思う。

シン仮面ライダー、人に見てほしいとは思わない。本来感情を入れ込むように作られてない本郷猛に感情移入してしまった自分には、自分の紹介で誰かがこれを見たという責任を負うことができないから。この記事見て見てみようなんて言う人はいるも思えないが、万が一興味をそそられた人がいるなら、自分で見ると決めた上で見てほしい。責任を負うことは僕にはできない。


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