やおいとミステリと時代 ~『タナトス・ゲーム 伊集院大介の世紀末』によせて~

 腐女子山荘殺人事件がおもしろい広がりを見せていて、ふと思い出した。
 ずーっと心にひっかかっていた世紀末のミステリ、まだそれらが基本的には「やおい」と呼ばれていたころ。腐女子たちの渦で巻き起こった事件に果敢に挑んだ探偵がいる。

 その名を、伊集院大介という。


 さてそういうことで今回はちょろっと「ボーイズラブおよび女性向け同人周辺にまつわる記憶のかけら」みたいな印象で
タナトス・ゲーム 伊集院大介の世紀末』(栗本薫 著、1999年7月刊、講談社、2002年7月文庫化)
 に関わる個人的な思い語りをしよう。Kindle版もあるよ
 手元にあるのは文庫版なんだけど、裏のあらすじ、当時でも「ヤオラー」とは称さなかったと思うんだけど、まあ、おいとこう。そもそもなんで全編通してカタカナなんだろう……ひらがなだよね普通……当時でも今でも……

 注意点として
 ●本題部分は敬称略
 ●全体のネタバレを含む(あれこれに配慮してぼかした言い方はします)
 ●筆者は栗本薫氏の作品をあまり読んでいない(今回の本、エッセイの一部と別名義の評論、短編集は読んだ)
 ●あとはちょっと、故人の作品にぶつくさ投げるのもちょっと、はばかられるんだけど、も。言いたいことを置いておく感じです。なので思い語り。
 ご了承いただけたのならば、どうかお付き合い下さいませ。

 時は1999年。ざっくりくくるとワンピとかナルトがどどーんと現れた時期、というとわかるだろうか。刊行が1999年なだけで執筆はもうちょっと遡るとは思うが、それはそれでガンダムWや幽白が華やかなりし時期にかぶりそうだ。どちらにせよ、この頃には実在人物を扱った同人誌回りにはかっちりとルールだかマナーだかが成立していたはずなのである。サークルカットに書かれているJ禁の意味を調べたあの頃。

 しかしその静寂を破って探偵・伊集院大介のもとに同人誌が届けられる。――自分が描かれた同人誌、カップリングは探偵×助手。
 恐怖新聞より恐怖だ。
 そして送り手がいっさいそれに頓着していない。怖いよ! もうその時点で怖いよ! ちゃんとイベントとかで現地取材しました?!
 しかしそれは本題ではないのだ。本を送ってきたその描き手は、次いで相談事を持ち込んでくる。友人たち、そして私淑している同人出身の商業作家。不可思議な失踪をした人々を追うところから、物語は始まる。まあその前に探偵と助手と客人のやおい談義が挟まるんだけども。やめろ共感性羞恥とかなんかそんなあたりの何かがしんどい。

 話の流れとしては、件の商業作家が主宰するWEBサイト(当時はホームページと呼んでいた)の中で巻き起こる人間模様や出来事を辿って伊集院が聞き取りをしていくのがメインになる。
 でもさ、インタネなんて略さなかったよね当時。
 Win95の当初から「インターネット」とか「ネット」って言ってたよ!
 他の用語はわりと正確なのになぜここだけ。登場人物の特異性の表現ならいいんだけど、身内でそう略していたのを外に取材せずそのまま使ったという可能性は……まあ邪推はゴミ箱に捨てて進もう。

 あと【ノストラ大王】なるものが出てくるが、たぶんある一定の年代以下にはこのネーミングたちがピンとこないかもしれない。当時「ノストラダムス本」はほんとうに広範囲に、老若男女の別なく意識に根を下ろしていたのである。だいたいの人は、程度の差こそあれなーんとなく「1999年に何か起こるのでは」と思っていたんじゃないかな。デマを検証するとか、そういう発想すらあんまりなかった時代だった。
 余談だけど、西暦って紀元1年から始まるから「世紀末」って2000年のことだよ!

 まあそうして事件に巻き込まれていく中でサークル内の実情がわかってくる、のだが。
 ……なんというかその、仲が悪いというより、まともな人間性というものはないのかと言いたくなる。
 詳細は省くが「せめてもうちょっと……もうちょっとこう、なんとかならんのかお前ら」と言いたい。業から逃れたくて連帯を組み創作してるのに、元気なほうがやらかすことはなべて業の濃縮還元100%である。君らなぁ。まあ今も観測されたりされなかったりするけど……リアルで顔突き合わせてそれなのか……
 なお元気でないほうはひたすら救いがない。詳細は省くが救いがない。なんのためのサークルとか創作なんだよ……私たちは無力だ……
 あと今気づいたんだけど、この小説ひょっとして「クローズドサークル(電話のつながんない崖の上の山荘とかそういうアレ)」と「サークル(同人)」をかけてる? 掛詞にしてる? 違う? 違うか。

 結局いくつか現れた謎のうち、事件性があるのは最後のひとつのみ。ミステリ要素もここに集中しているので詳細は避けるが、まあわかりやすく言うと「わたしの理想の漫画描きのままでいろ」というお気持ちダイレクトアタックが根底の動機である。ライフで受けたら人は死ぬんですよ!
 あとここで犯人がかっこいいぽいことを言う。いやぜんぜんかっこよくないよ……?

 ※ちなみに謎解きの段に来ると一ヶ所「それはもうどうしようもなく差別では!?!?!」と目をむく描写が現れるのだがそこはなんというか言いたくない。自撮りポエムアカウントに無自覚に憎しみがたぎってる気がするるるる。
(当時そんな概念はないんだけど、この表現がいちばんしっくりくる)
(個人的には自撮りポエムについて特に思うところはないしまあ表現なんだろうなーだと思ってるけど、犯罪に巻き込まれやすいと思うから気をつけてほしい)
 
 あとはもうエピローグだけなのだが、どちらかというと末尾に付記された「参考資料」がめちゃくちゃ気になる。だって中島梓とは、栗本薫の別名義なのだから。
 自著を参考文献に引っ張ってくるのは許されるんだろうか……
 「要出展とか独自研究タグを回避」みたいなムーヴをどうしても感じてしまうし、なんか人ひとりの世界から出てない感がすごい。すごくない?

 とまあ、あれこれ言ったけれど嫌いにはなれない。熟達した筆力やリズム感が生む読ませる力は年月を経た今でも健在だし、登場人物の口を借りた「当時《やおい》と呼ばれていたもの」に対する語りには今もなお通ずるものがある。(登場人物の口を借りる是非はまあ、おいとこう)
 本来なら私がこうしてなんやかんや言うのもはばかられる、時代を作った偉大な書き手による一編だ。

 でも、不遜だけれど、この物語の歪さの源泉もわかる気がするのだ。
 この2019年にこうして世界のすみっこで文をものしているからこそ、なんだかわかってしまうのだ。

 こんなふうにでもしないと「自分がただ好きなだけ」を肯定できなかった。
 ひどいやつなんて世界にはあたりまえにたくさんいるのに、どうして私たちばかりと嘆いた、そして嘆くことを思い付くこともできずにいた。そういう感情が、開かれながらも閉じた集まりの内側でぐるぐるとまわって。
 経験をフィクションに落とし込む際に誇張され削られたものは多かろうが、これは当時の女性向け同人に対する視線とか、それを受けてのW(作者をベースとした)書(描)き手の内面とか、そういうもんにゃりしたものたちが写し取られた一編なのだ。
 昭和よりマシで、でも今よりずっとずーっと、男も女も「性別通りのまともな何か」であることが課されていて、だいたいはそれを疑うこともなかった時代。今よりずっと情報が遠かった時代。

 ――そこからおよそ20年経ち、今。
 はるか遠くの誰かと平和にミステリあるあるネタができる。もはや、探偵に恐怖を含んだ奇異と畏怖の目で見られることもない。(好奇の目はまだちょっとあるかも)
 まだ向かい合わなければいけないこと、新しく向かい合わねばならぬことは多いけれど、わたしたちがたどり着いたところは、なんだかんだで進歩しつづけている、にぎやかな場所である。

 うれしいね。

 草葉の陰で見守ってくれているだろうか。
 なんか怒りそうな気もしないではない。

 でもまあ、タナトスとかなんじゃらほいで、なんとか生きていますよってに。多目に見てほしい。

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