最近の何でもない日常(AFFAIR)

そんな事が度々起きて、悲しい出来事が静かにやってきた。
…だけど私の“日常”は大きく変化する事もなく、気付いたら部屋の中は足の踏み場もない位に、自分にとって大事なもので溢れ返ってしまった。
 
流石にこれは良くない。QOLだだ下がりじゃないか!
 
数週間かけて毎日コツコツ片付けて、ようやく“掃除が日常的に出来る状態”まで漕ぎ付けた。
あんまり根を詰めて作業するのは良くないんだけど、せめてクローゼットやチェストの中を整理できる状態にまで、床の状況を持って行っておきたかった。
あと、大量に備蓄してある未組・組み立て済みの模型の数々も。
 
両親や家族、当時の級友から心無い言葉を投げつけられ続けても、模型は私にとって一生モノの趣味だと思ってた。今でもそう思う。
だけど…今までの様に、模型を続けられるだろうか?
仮に止めるとしたら、そんな時だろう?正直、そんな未来は来ないと思った。
なら、“今まで通り”模型を続ける?それも何か違う気がした。
 
10年以上前(!)の完成品や、組み立て途中のものは、処分した。
十数年、組んだ事や所有してた事自体で、もう充分楽しんだ。勿論根底にあるのは“物理的に所有出来ない”という、現実ではあるのだけど。
…これを打ち込んでたら捨ててる最中の自分を思い出して、後悔もしてるし、不思議と安心もしてる。同時に自分の物への執着への気付き。
 
若い頃の趣味や楽しみって、自分自身の自我やアイデンティティを形成するのに、ちょっとした補助線を引いてくれる、大事な存在。
勿論そういう存在を必要としないで大人になってく事も可能だけど、何かしらに挑戦したり楽しんだ経験の積み重ねは、モノの見方や考え方・自分の外側の世界への意識や敬意を払う事、有形無形のその積み重ねが、年齢を重ねていった後に、案外と活きてくるものだと思う。
 
だけど、もしそれらが“今の自分”を縛っているとしたら、どうだろう。
好きで始めた事、楽しくてたまらなかった事が、いつしか“こうでなければならない”とか“○○はこうあるべき”って、自分自身を縛っていたら笑えない。
それはいつか、自分ではない誰かにも向かうかもしれない。
 
ここ最近思うのは、“今の自分が、この先も模型を楽しむ為にはどう考えればいいのか”ということ。
今もだけど、明確にこうすればとか、こう考えたら良いって正解はないんだと思う。

   ただ自分なりに、折り合いを付けてくこと。
   日常を誤魔化さない・嘘をつかない。
   心から楽しいと思える事をする。

…自分自身、今だまとまっていないから、打ち込みながら疑問もあるけど、そんな感じでゆるゆるやってけば良いのかな。
考える事は決して諦めないで。
 
一時間?二時間くらいかな?
流石にこの文章量で、二時間越えは掛かり過ぎ!
タイピングの練習になってない気がするなぁ…。
でも気が向いたら続けたいと思う。
頭の体操・整理にもなって丁度いいかも。
 
…しかし実際問題、残りの模型たちの何を処分するかひっじょ~に悩む。
Amazonからの着弾は残り二発、コトブキヤからの飛翔体はあと一つ。
暫くは消耗品を買い足す程度で、模型は過不足なく楽しめる。
コトブキヤのは、再販を四年近く待ってたものだから、大本命。
Amazonのは予約の初動が遅れると買えない懸念があるシリーズだったのと、両方ともPayPay決済にて支払い済み。
とはいえ置き場所が、なぁ…。今後は予約は出来るだけセーブだな。
買えるものは店舗で、それが良いのかも。
自分にとっちゃ実際、お休みの時に外出する理由になるし。
いやぁ…歳を取ると、外出や仕事も、お金や遣り甲斐以上に、
“健康状態を維持管理するためのもの”
になっちゃうね。しょうがないよね!
…ヘルニアで絶賛腰痛中(腰サポーター標準装備)なのは目をつむろう。

気付く事や、思い出した事の置き場所