思い出したくない事にかぎって記憶に残りがち

私がこのツイートを見付けて最初に思ったのは、ツイ主と事の真偽。Twitterって“そういう場所”でもあるから、念の為

この先生(学校とは“見解の相違”は有ろうけど)は単純に職業倫理にあふれた良い先生なんだろうなって思った。“良い先生”が間違いや失敗を犯す筈がない…て思いたい人が多いだろうけど、それは無関係な他人の単なる願望で、寧ろその使命感や職業倫理ゆえに間違いを犯す。私がこの先生を“良い”と表現したのは、先生の言葉一つ一つに、驚く程に嘘がなく真っ当だからだ

“ 「娘さんはご愁傷様です。でも加害者生徒は生きていて、未来がある。我々は守らなければいけないのです。」”

おそらく先生(そして多分、学校も)は、本心からそう思っている。被害女子と目の前の生徒達を教職員として天秤(元より比較も測定も出来ない筈だが)にかけた結果、生きて成長する可能性のある眼前の生徒達を(マスコミ取材や報道から)護る事に優先順位を置いた。だが、その言葉を娘を虐めで亡くした遺族に直接向ける事がどういう結果に結び付く事になるか、致命的決定的に想像力が足りなかった

学校という組織がちゃんと機能していればしている程(この先生の様に言葉にまでしない迄も)、この先生や学校と同様な対応になる。それが(加害者も含めて)大勢の生徒を預かり教育の為に教鞭に立つ教職員の方々の使命であり倫理であるからだ。そこに“再発防止”や“真相解明”といった根本的な対策はない。何故なら“生者の間に禍根を残す”事は、“護られた空間”である学校という場所の役割にそぐわないからだ

例えどんな名目であろうと、生者が集まる空間や場には“虐め”も“政治”も起こる。多くの日本人はそれを見ないフリをし続けているし、“自分達の場所(空間)だけは違う”と思い念じ続けている。様々な界隈の“常識”に触れ続けてきた身として、それを強く感じる

いい歳した大人がずっとそうなんだから、子供達がそうであっても驚きはないし、“彼女”の事は良い様に思い出として改ざんされて、多くの同級生の中で生き続けるんだと思う

私は彼女の冥福を祈る気はない。苦しみ抜いて自死を選び未来を絶たざる負えなかった彼女へ対して、何が“ご冥福をお祈ります”だと思っている

残念な事に、呪いもオカルトも正義の味方も“能力者”もいない世界を我々は生きている。逃げられる“大霊界”も“異世界”もない。人間が犯した事は同じ人間が解決しなきゃならない。とてもとても面倒くさい手続きと不感症の世間に対してそれでもなお

行く末への興味も無くはない。けど、数日後にはエントリーと一緒に忘れようと思う。偶然これを読んだ貴方も、事件も彼女の事も忘れて、明日も変わらない毎日を続けて欲しい

自死した彼女に対して何も出来ないなら、せめて一生を生き抜こうと思う。貴方もどうか生き抜いて

気付く事や、思い出した事の置き場所