EP.7「見えざるモノ、幻視するモノ」Cp.1

ひんやりとした空気と静寂に満たされた深夜の郊外。
三日月が照らし出すそこには、粘る墨汁を垂らしたような濃い影の中、周囲の闇と同化するように身を隠す少女が一人。

「こちらメメリです。対象と思しき生物を視認いたしました」

月光に反射する薄金色の光。
視線の先の生物は、四つ足で地面を踏みしめる。頭部の高さはメメリの身長とほとんど変わらず、その体格の大きさが伺い知れる。
一見すると狼のようにも見えるその姿。しかしその頭部には、本来なら存在しないはずの歪な冠上の角が突き出ていた。

「分かりました。対象に動きはありますか?」

「今のところはありません。ただ――こちらには気付いていそうですね」

その生物は先程からその場に静止しているばかりで、大きな動きを見せる様子はない。
だが、まるで視線のような捉えどころのない感覚をメメリは肌で感じていた。
互いに警戒を向けつつ、相手の出方を伺うように停滞する空間。

それを崩したのは、視線の先の生物からだった。揺れ動いていた頭部をこちらへ向けると、獣のような姿でメメリの隠れていた場所へと突進する。

耳に手を当てNo.966へ告げる。

「対象、動き出しました。戦闘を開始します」

先程まで隠れていた影から身を滑らせ躱すものの、獣は追いかけるようにメメリへとその灰色の巨躯を走らせる。

「分かりました、私もそちらへ向かいますね。私が到着するまで問題はなさそうですか?」

「――問題ありません。しばらくは牽制に徹しますので」

素早い動きで距離を開けようとするメメリへと近付いていく獣。
その前足がメメリを切り裂くように振るわれるのを、横へ飛びのき回避する。

「では、これより業務を始めましょう。より良い環境を作るために」

クロムと呼ばれた黒猫――No.966が告げる。通信機から聞こえる声を合図に、メメリが愛用の釘打ち機“Mosquito”に手を添えた。

――――――――――――――――――――――――――――――――――

「研究施設での火災……ですか?」

「ああ、ボーパルの調査で元々は四物関連の研究をしていた民間の研究所だということが分かった。焼け跡からは8人の死者。まだ原因は不明だが、そこから脱走したものが問題だ」

先程まで手の中の書類に向けられていた皇の瞳がNo.966とメメリに向く。普段ならNo.966のみが呼ばれるはずの課長室に、メメリが踏み入ることは滅多にない。
あるいは、それだけ今回の事態が重篤な環境変動の危険性を孕んでいるのか。

思案しながらも視線を皇へと向ける。しばし言葉を探っていたNo.966が口を開いた。

「脱走したものというのは……場所からして実験動物か何かということでしょうか?」

「恐らくはそうだ。近隣の監視カメラに辛うじて姿が映っていたが、研究所からは離れた場所にあったせいで詳細までは解らない。火災のせいでほとんどの情報が消失しているのも現状だ」

「分かりました。私達が呼ばれたということは……つまり、そういうことでしょうか?」

「ああ、予測されている環境変動値への悪影響は看過できない。対象には私を含むランク4数名の処理許可も既に下りている」

その声は淡々と執務室に響く。
机を挟んだ先の二人も、その言葉に表情を変えることは一切無い。

密葬係。環境課という一役所に過ぎないはずの集団が持つ裏の顔。
組織図にすら記されていないその係の業務は通常の役所が持っている権能を逸脱し、環境を保全するという目的のためであれば正規の手続きを一切踏むことなく、諜報から対象の連行、無力化、果ては環境を乱すものの処理すら実行される。

そして、それらの業務は環境課外部へ一切知らされることもなく課長へと報告され、やがて誰に知らされるでもなく、密やかに葬られる。

「しかし、私達だけで事足りるでしょうか」

そんな密葬係の長である黒猫――No.966は目の前の皇へと言葉を投げかける。

「お前たち二人の能力は買っている。だからこその密葬係だ」

だが……と皇が言いよどむ。

「現状では情報があまりにも少ない。引き続き調査させてはいるが、これ以上の情報が集まる確証もない。無論、必要なものは全て用意させるが、それで確実に足りるとも言い切れない」

それは、状況如何によっては部下に万が一の危険が迫る可能性を危惧しているからか。
発言の裏には、課員を喪うという最悪のケースになる可能性も決して低くはない……そんな心配もあるのだろう。

「とはいえ、夜まではまだまだ時間もある。対象の動きは分からないが、それまでにボーパルの眼がどこにいるか見つけ出すだろう」

「では、そこからは私たちの仕事ですね」

「そうだ。対象を発見次第、業務を開始。内容は対象の処理――無論、手段は問わない」

頷きを返す。No.966の掌が僅かに開かれたのを、メメリの眼は見逃さなかった。
ああ、と呟いて皇がメメリに視線を向ける。

「後でリアムのいる整備室へ行ってくれ。何でも、以前から製作していたものが使用可能な状態になったそうだ」

「そういえば、以前にお話がありましたね。承知しました」

「それでは、メメリちゃんはまた後ほど。いつもの部屋で落ち合いましょう」

No.966の言葉に頷きを返すと「では、失礼いたします」と言い残し課長室を後にする。

後には皇とNo.966だけが残る。メメリの去った扉を見つめ、しばらくした後机の上に置かれていたちゅーるの包みをぺりりと破く。

「ところで、メメリの様子はどうだ。最近は他の課員とも一緒にいることがあるようだが」

言いながらひと舐め。それを見ていたNo.966も、先程までの密葬係としての表情が少しだけ緩み、微笑みを返す。

「ええ、仰る通りで他の方々とお食事にも行っているようですね」

「そうか、初めて会った時からすれば大分明るくなったようにも感じるな」

「そうですね、本当に」

言いながら思い出すその表情は、当初と比べれば多少とはいえ柔らかさを増したようでもあった。

「種族は違うとはいえ、似ているところも多いからな。これからも後輩を頼むぞ、クロム」

「お任せください、課長」

――――――――――――――――――――――――――――――――――

「つまり……って話聞いてる?」

「申し訳ありません、私の知識では少々理解が追い付かないものでして」

ため息を吐きながらメメリの方を向くのは、開発/整備係のリアムだった。
大量の工具と義体のパーツ、その他素人からすれば一切用途が分からない鋼鉄の数々が所狭しと並ぶその空間は、環境課を足元から支える重要な場所でもある。

皇に言われ足を運んだものの、リアムの口から流れ出る専門的な用語の多い説明はただでさえ機械に疎いメメリにとって、最早異国の言語のようにしか聞こえなかった。

「早い話が、視界を共有できるってこと!」

「何度聞いても不思議なのですが……本当にそのようなことが?」

「そもそも、電脳化されていれば難なくできることなんだけど。まあそれを生身にも転用したってだけの話」

「君も使ってるでしょ、AR」とメメリの右眼を指しながら言う。

「……便利とはわかっているのですが、あれは未だに慣れないですね」

指先程のペラペラな物体を目に入れるだけで、様々な情報を閲覧することが出来る……らしい技術。
それが驚くべきことなのは解るのだが、メメリにとってそれはあまりにも理解の外にありすぎて、視界の先に浮かぶ幻覚のような光景が信用に足るものなのか、未だ判断が出来なかった。
結局、あまり使用せずにいるのは内緒だ。

「それと似たようなことを、あのデバイスを付けてない完全に生身の人間にも出来るようにしたのが、これって訳」

そういうと机の上に置かれた小さな銃弾と左耳用と思われる小型の通信機、手のひらに収まりそうなほどの大きさの拳銃――デリンジャーを指さす。

「ま、さすがにホイホイ試すわけにもいかないから、確実に視界を共有できるとは限らないけどね。そもそもコレ、本来の用途はあくまで味方同士で視界を共有することだから、見ず知らずの他人に視界を押し付けるものじゃないんだけど」

「そうですか。どちらにせよ使えるなら問題はありません。万が一の時にはクロムさんにお任せしますから」

「……冗談。天才のボクが手掛けたんだ。不発はあり得ないね」

それは環境課の整備係を束ねるものとしての、確かな経験に裏打ちされた自負なのか。
あまり知らない間柄とは言え、彼がそう言うのならば自分も信用するべきだろう。

銃弾と通信機、そして拳銃をリアムから受け取る。
お世辞にも腕力のあるとは言えないメメリにとってもその拳銃は軽く、使用する分にも問題はなさそうだった。
一般的に備品として登録されている銃は義体化した課員や戦闘を主な業務とする課員に合わせて作られているのか、メメリにとっては少々重く、またその反動も使い勝手の悪さを感じる一因でもあった。

「とはいえ、釘があるので出番が来るかどうかはその時次第ですね」

「あっ、アレちゃんと使ったらメンテナンスしてる!?全然臭いが取れないんだけど」

「……精一杯してはいるのですが、なかなか細かいところまでは」

「まあいいけどさ、乱暴には扱うなよ」

「承知しました。保証は出来かねますが」

目的は達成したとばかりに、頭を下げてそそくさ退出する。
リアムの少しだけ尖った視線を背中に感じつつも、苦手なものは仕方がない。あるいは、他の課員ならこうはならないのだろうか。

「……考えても仕方がありませんね」

頭を切り替え庁舎内の一室、No.966の待つ場所へと向かう。刻々と近付いてくる密葬係としての時間に比例して、あの頃の、死を看取り続けた自分が帰ってくるのを感じていた。

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