見出し画像

シン・エヴァンゲリオンでオタク達は25年間の呪縛から解放される。

観た後の個人的な解釈と全体的な感想。

勿論ネタバレなのでまだ観ていない人はブラウザバック推奨。


はじめに

エヴァンゲリオンという作品は、非常に設定が難解なストーリーである。

大枠のストーリーの流れについては考察ブログが腐るほどあるので、なんとなく共通認識を持たれているものの、過去シリーズにおいて、各シーンの意味や人物の心象については多岐にわたる解釈が存在する。
絶対的な正解が存在しないものも多い。

また、エヴァを語る上で重要なキーワードの一つである人類補完計画についても、目的や意味はなんとなく分かるものの、完璧に理解出来ている人はかなり少ないだろう。

しかし、僕はエヴァにおけるこの要素についてこう思っている。

エヴァに出てくる用語は全てただの装飾品に過ぎない。

これはTV、旧劇、新劇全てのシリーズに通ずる考え方である。

僕はエヴァンゲリオンを見るとき、そのシーンにおける「なぜこうなったのか?」を深く考えないようにしている。

例えばエヴァQで地表を覆いつくしていたエヴァのようなもの『インフィニティ』について。

インフィニティ(無限)とは、=知恵の実(人類)が生命の実(使徒)と合わさることで進化した存在である。

実際は魂が入っていないので意志などは持たず、単独で自立行動することはない。(徘徊については正直分からない)

シンエヴァでは言及されていたが、初出であるQで全く説明がないのは非常に不親切である。

このように作中での説明が無いまま話が進むような設定がエヴァンゲリオンには腐るほどある。

しかし、これは物語を読み解いていくうえでさして重要ではない。

重要なのは登場人物たちの心、感情の動きである。

やけに難解に思える設定は、それらを彩る装飾品に過ぎない。

過去作はその感情の動きも非常に分かりづらいのだが、今作は台詞で明確に表している描写が多いため、非常に分かりやすく楽しめた。

ここからは、個人的に気に入ったシーンとその感想を順に書いていく。

序盤 シンジの保護~綾波消滅まで

第3村まで保護されたシンジ。
死んだと思っていた同級生が生きており、1000人近くの村が形成されていた。

この村では『出産』と『子育て』にフォーカスが当たっていたように思える。
来院していたヒカリの同級生や猫の妊娠、そして出産。

そして精神的に無垢なアヤナミに仕事をさせ、言葉を教え、生きることを教える。(綾波レイというキャラクターがまともな生活をしているシーンは作中で恐らく初めて)

そしてそれを通じて描かれる子育て。命の創造である。

桜流しの歌詞とマッチしていて個人的に感動した。

桜流し

3.0を観た時はてっきりフォースを防いだカヲル君に対する歌詞と思っていたが、シンエヴァを観る限り、どうやらそれだけではなかったように思える。

第3村での平和な暮らしを見るにシンジもまた、使徒を殲滅する事で多くの命を救っていたのだという事を改めて気付かせてくれる。

作中でトウジが言っていたように、平和な第3村を作るためには様々なストーリーがあったに違いない。

それこそ協調性のない派閥の排除などは当然起こっていただろう。

命を奪うこともあったかもしれない。

しかしケンスケが言っていた通り、ニアサーは悪い事ばかりではなかった。(これはケンスケ自身が危険な状況下で長所を活かせる環境になったことで社会的価値を見出したという意味もあるし、「絶望的な状況でも人々は幸せを見出し、前を向き生きようとしている」という二つの意味があると思う)

こうして人々が生きているのはシンジのおかげだと昔のクラスメイト達は諭すが、当初のシンジはそれどころではなかったので、その村で懸命に生きる人々と向き合うことは出来ない。

シンジのうつ状態は旧劇でもお馴染みではあるが、映画を見ている最中と見終わった後で、視聴者はそれぞれ既視感を覚えるのではないだろうか。

まず一つ目は「エヴァが作れない」といった庵野監督。

庵野監督は厳密にいえばエヴァの登場人物ではない為、ここでは深く触れないが、限界を迎えてもなお何も行動出来ず寝たきりのシンジとの姿を重ねることは容易だろう。

二つ目は終盤のゲンドウとの対話。

親戚のいる食事の場に呼ばれても食卓に交じらず、他者との関わりを避け続けた碇ゲンドウである。 

「出された飯は食え」という台詞もここに通じる。

第3村で心を病んだシンジはアヤナミという存在があって初めて自分の感情を吐き出し、立ち直る。

今まで避けてきた他者と、自分と向き合うようになっていく。

このアヤナミという存在が、当時のゲンドウにとってはユイだった事が分かる。

アスカとアヤナミの対比についてここで触れたい。

アスカとアヤナミは第3村でそれぞれ対照的な生活を送ることになる。

アヤナミは農業を手伝わされ、「ありがとう」「さようなら」「おはよう」「おやすみ」(+握手)などの言葉を覚える。

命令を受け生きることしか出来なかったと思っていた彼女だが、仕事をし、風呂に入って本を読んで、褒められて照れて、感情を理解していく。

対してアスカはケンスケの家に居候をしており、日がな一日ゲームをしている。

そんなアスカを傍で見守るケンスケ。

心の距離感も非常に近い匂わせ方をしているが、おそらくこの時点ではまだデキていない。(と思われる)

このカップリングに関してはかなり衝撃を受けたが、よくよく考えてみるとそこまで悪い組み合わせでもないように思える。

まず、ケンスケ。

14年という歳月を重ねた事で精神的にも非常に成長している。

鬱のシンジに必要以上に干渉せず、立ち直るまで黙って見守り続けた。

結果的にシンジを回復させたきっかけはアヤナミであったが、「解決はしないが支える」という自分の果たせる役割をこなせていた。

アスカは非常に承認欲求の強い人物である。他人から認められる事が自分の確立方法であり、その手段としてエヴァのパイロットを続けていた。

シンジもまた、同類といえる。常に他者からの愛を欲しているが、自己愛の強さ故に他者に恐怖を感じ、自分から距離を取っている。しかし父親に認められたい、褒められたいという思いでエヴァに乗っているというのも主な理由の一つである。

非常に似通った二人だが、14年という長い時間を経て精神的にも大人になったアスカにとって、同類でかつ精神年齢の低いシンジより、ケンスケのように黙って自分を見守り気にかけてくれる人物の方が相性が良いのかもしれない。

また、アスカは家の中を基本裸で過ごしている。これは、頑なにプラグスーツを脱がなかったアヤナミとの対比とも取れる。

ネルフにいないと(精神的にも)生きられないアヤナミ。命令が無いと生きていけないと考えていたアヤナミ。

村で生活をしていくうちに感情を覚え、徐々に「自分」を確立し始めたアヤナミはスーツを脱ぎ、制服を着た。(その服が、かつて綾波が命令を受けて通っていた中学の制服というのも皮肉である)

対してアスカはプラグスーツを殆ど着ていなかった。

中盤 ヴンダーの大気圏突入~シンジがマイナスの宇宙空間に入るまで

この中盤からシンジの精神的成長が顕著に出てくるようになる。

ヴンダーと同型の2隻を退けエヴァの発進準備を整えている中、マリとアスカはシンジの元へ向かい、アスカは最後に「私があの時殴ろうとした意味が分かった?」とシンジに問う。

シンジは乗っ取られた3号機に対し、殲滅することも救出することも選ばず、責任を負おうとしなかったことだと答える。

このシーン、エヴァの世界においてシンジが初めて自分の弱さと向き合った場面ではないだろうか?

TV版では自分の弱さと向き合うというより、その弱さ(自分らしさ)を肯定することで補完を終えていた。(僕はここにいていいんだ!)

そのシンジが客観的に自分を分析し、アスカという他者の気持ちに寄り添って発言をした姿は非常に印象深い。

旧劇では「一つになることで他人への恐怖を感じることが無くなる」と言ったレイに対し、シンジはそれは違うと否定し、他人への恐怖に怯えても尚、他人がいる世界を選ぶ。(自分という"個"を失いたくなかったのだと思っている)

しかし、ここでアスカも共に復活をする。これは、エヴァに乗っていたことでATフィールドを張りLCL化を逃れたのか、はたまたシンジが求めた事で戻ってきたのか…他にも様々な説があるが、僕は後者だと考えている。

しかし他人からの恐怖に怯えたシンジはアスカの首を絞め、殺そうとる。だが、アスカがそれを受け入れようとした姿勢を見て、また一人になることへの恐れから結局思いとどまるというラストだ。

TV版もそうだが、このシンジは自己愛に満ちており、自らを卑下しつつも傷付けられることを恐れ、他者からの承認を待っている状態である。

しかしシンエヴァのシンジはその後、終盤で13号機内のレイ・カヲル・アスカ・ゲンドウの魂との対話を果たし、導き、補完計画を完遂させているのだ。

今までのシンジとは明らかに違う。だからこそ、限りないループの中で、このシン・エヴァンゲリオンの世界が今までにないものだった事の証明にもなるだろう。


シンジと最後の対話を終えたマリとアスカが発進する。

アスカは13号機に槍を突き刺し動きを止めようとするが、アスカの搭乗する2号機自身がATフィールドを発し、自らを阻止しようとする。

式波アスカはクローンであり、13号機にあるオリジナルの魂(惣流)に手を挙げる事を恐れ、自身が搭乗する2号機に攻撃を阻まれた。

そこでアスカは自らの中にある使徒の力を解放し(目玉から封印柱を取り出していた)、自らのATフィールドをもって2号機のATフィールドを相殺しようとする。(ここまで全てアスカが説明口調で言っていたのは正直笑ってしまった)

しかし、ここまでが相手方の思惑通りだったので、生命の実(使徒になった式波)と知恵の実(13号機内部の魂)を併せることでインパクトの引き金とした。

これによってアスカの魂は13号機の中に取り込まれる。

マリもなんやかんやで大ピンチ。ていうかエヴァ13号機の腕みたいなやつが自立して動いてる奴、MGS4の仔月光にしか見えない。

取り付いたりするところまでマジでソックリである。

自爆は月光の方だが。

仔月光

また、撃たれたミサトとシンジが対話をするシーン。

そこでミドリとサクラが止めに入るが、ミサトとの対話を経て改めてマイナスの宇宙空間へと向かう。

ミサトはシンジに対し今までの謝罪を。

シンジはQで受けた仕打ちを咎めず、フォースインパクトの阻止へ向かう。

このシンジの対応が本当に成長を感じさせる。

ミサトが撃たれたシーン、旧劇場版を思い出した人は非常に多いだろう。

画像3

旧劇ではミサトが命を賭けることでシンジをどうにかエヴァに乗せていたが、本作では既にシンジは立ち上がっている。

もう大人の手を借りずとも一人で歩いていけるのである。

終盤 ゲンドウとの対話~カヲルの魂の救済

マイナス宇宙空間でのゲンドウとの対話のシーン。

ワープの原理に関してはインターステラーとグレンラガンを履修済だったので、問題なく理解できた(理解できてない)

ゲンドウが行おうとしていた補完計画は、運命を作り変えることでもう一度ユイと会うためのものだった。

ゲンドウは昔から他者と関わる事を嫌い、孤独を愛していた。ピアノだけが心の支えだった。(ここはカヲル=ゲンドウ説を裏付けるものの一つ)

親戚のいる食事の場に呼ばれたシーンは、前述した通り、心を病んだシンジがトウジの祖父に「出された飯は食え」と叱られたシーンと重なる。

そしてユイに出会い人を愛したこと、ユイを失い他者とのつながりを断ち切ったこと。

シンジはゲンドウと心象世界の電車の中で対話を重ねていくことで、お互いが同じ性質の人間であることを理解する。

しかしシンジはゲンドウと違い、アヤナミ(ユイ)を失っても尚、自分の殻に閉じこもることはしなかった。

そうしたシンジの中にユイを見たゲンドウは電車(補完計画)から降りる。

ゲンドウは「子供と向き合わない事」がユイを失ったせめてもの罪滅ぼしだと思っていた。

これは加持を失い、母であることを隠し息子との関わりを断ったミサトと全く同じである。

それぞれの息子である碇シンジと加持リョウジJr.もまた、似た者同士惹かれ合うものがあったのかもしれない。

ゲンドウがいなくなった事で補完計画はカヲルとシンジの手に委ねられる。

そこで、シンジはエヴァのいらない世界を作り替える前に13号機内の魂達と対話し、救済する。


アスカの魂の救済

アスカはエヴァに乗る事でしか他人から認められる事ができなかった。

ぬいぐるみを掲げ、一人でも大丈夫なのよと自分に言い聞かせる日々。

母国のドイツで雪の中一人で遊ぶアスカ。

そんなアスカを見守る人形。

旧劇ではその人形は母が持っていたものだったが、式波シリーズには別のストーリーがあるのだろう。

そして一人で過ごすアスカを見守っていた人形の中身は、いつしかケンスケになっていた。

独白を続けていく中で、浜辺に打ち上げられたアスカとシンジ。

自分の気持ちに素直になり、自分の居場所を見つけたアスカはエヴァの呪縛から解き放たれていた。

この時のアスカの作画も、どこか艶やかで大人の女性を感じさせる顔つきになっている。

この浜辺は旧劇のラストで首を締められ、シンジが最後に拒絶されたシーンだったが、ここではお互いが好きだった時の気持ちを伝え合う。

画像4

エヴァにおけるカップリング論争についに決着がついた。

この告白は、お互いが今の気持ちに決着をつける為のものだが、少なくとも新劇『破』まではシンジとアスカは両思いだったのである。

思いの丈を告白したアスカは、自分の居場所であるケンスケの家へと向かう。
LAS派だったので「は?????」と思った


カヲルの魂の救済

カヲルの魂の救済パートでは加地がセットで出てくる。

『渚司令』という単語、気になった方も非常に多いと思う。

ストーリー的な意味合いとしては、破→Q間で碇ゲンドウが逃亡している間の代理と思われる。

いずれにせよこの司令という呼称とシーンのカットは、ほぼ既存のものの使い回しだった事からも分かる。

だが、このカットには『ゲンドウとカヲルが同一人物ないしはゲンドウと近い性質を持つキャラクター』であるという事を含んでいる。

理由の1つ目は本物語におけるカヲルの役割について。

まずカヲルは「無限の円環の中で役割を強いられていた」と語る。

また作中でも「今回の円環の中心は碇ゲンドウだ」と言う台詞が出てくる。

この『円環』という言葉が、カヲルとゲンドウが共にループしている根拠になる。

ゲンドウは旧劇で、シンジをトリガーにしてサードインパクトを起こした。

その後ユイ(リリス)に自身と対となる存在、アダムとして選ばれる事で補完計画を遂行するという事だったが、ユイがシンジを選んだ事により失敗する。

今回は自らが13号機に乗り、補完計画を完遂しようとしている。

補完計画に至るプロセスがこうも違うのは、円環の中にゲンドウも囚われており、同じ過ちを繰り返さない為である。

そして、カヲルの魂の救済パートでの加持リョウジとのやり取り。

「老後は葛城と一緒に畑仕事でもどうですか?」という台詞。

明らかにカヲルを14歳の少年としては見ていない。

そして何より、シンジとゲンドウが対話をする心象世界において、カヲルも同席している。

エヴァの内部に魂があるからというだけであれば、アスカやレイもいておかしくないので、かなり近しい存在である事は間違いない。

また、ラストの駅のシーンでカヲルとレイが向かい合って立っており、ゲンドウとユイの組み合わせを示唆している。

カヲルもまた、円環の外へと抜け出したのだ。

カヲルの魂の救済が終わると全てのエヴァが消滅していく。

さよなら、全てのエヴァンゲリオン。


マリの迎えと反対側のホームにいるチルドレンたち

エヴァンゲリオンのいない世界(ネオンジェネシス)を作り出したシンジは駅のホームのベンチに座っていた。

反対側のホームにはレイとカヲル(ユイとゲンドウ)、ちょっと離れたベンチの端にアスカが座っている。

このシーンを見たとき、チルドレンは全員同じ世界にいるものの、シンジは彼らともう二度と交わらないのだろうと何故か思った。

心なしかホームの向こう側にいる彼らはサラリーマンになったシンジとは違い、まだ少年少女のような気がしたのだ。

迎えに来たマリと二人でシンジは駅の外へと駆けていく。

僕がまだ中学生だったころに始まった新劇場版が、ついに完結した。


新劇場版のシリーズを通して

思えばこの作品は、他のエヴァ作品と比較しても非常に時代の流れに乗っているものだったと感じている。

まず、非常に親切に解説をするパートが多い。

ゲンドウのやりたいことも相変わらず専門用語を専門用語で説明しているような感じだったが、単語の意味さえ分かれば非常に分かりやすい解説である。

アスカがインパクトのトリガーにされる件も同じ。

後、マヤが「シンジ君のシンクロ率・・・無限大です!」とか言ってたシーンは正直笑ってしまった。

個人的には非常に好感の持てる終わり方だったのだが、エヴァンゲリオンを全て観てきたうえでの感想を述べるなら、今作は非常にエヴァらしくない。

ここまで希望の持てる終わり方は今までのエヴァではありえない。

ここ最近はこういう「苦難を乗り越えれば報われる!希望を信じる!」みたいなものが多い印象を受けるので、エヴァも新規や世の中の流れに乗って作られたのだろうかと勘繰ってしまう。

そうした時代の流れを考えると、昔のような鬱々とした作風のエヴァンゲリオンに囚われてきた我々はもう卒業する日が来たのではないかと思う。

エヴァの続編を待ち望んでいたオタク達も、これで成仏出来るのではないだろうか。


ちなみに、アヤナミが学んだ言葉である「さよなら」について、ヒカリが「また元気に会うためのおまじない」と言っていたが、キャッチコピーである「さよなら、全てのエヴァンゲリオン」にはこの意味は含まれていないと思う。流石に終わろう。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?