閲覧注意

 過激派だとか、怖いとか、心の奥で何を考えているかわからない、と言われることの多い人生で、この世界の中では、私をミュートしていたり、私を嫌っていたり、私を軽蔑したりしている人が殆どだとは思いますが、私のこんな呟きごとに耳を傾けてくれるのは、これはまた珍しい物好きな人か、私のことを何も知らない人くらいなものだと思います。

 なので、今までの文章を読んでくれた方には少なからず大きな感謝があります。

 なんか、このnoteというアプリには、『あなたへのオススメ』なるものがやっぱりあって、まぁチラッと記事の題名だけ見てみるのですが、「〇〇には〇〇がいい!」「〇〇がおすすめ」「知らないと損!〇〇するための秘訣」といった感じで、なんかやたらと評論家気取りの人間がオススメだよ〜と全然おすすめじゃない自論を振り翳した自己満足文章が散見されます。

 まぁ、私みたいに自己の心のうちをべらべらと書き連ねている身でそんなことを言うのはおかしい話なのですが。何ででしょうか。そういう大衆に向けた文章を、いつか書いてみたいななんて思った時期は、ありはした気がするんですけど、結局のところ1回もしてないし、1回もできませんでした。

簡単に自分の経験談を他人に薦めれないです。
簡単に自分の本音を他人に話せないです。
簡単に自分を曝け出せないです。
簡単に自分がどういう人なのか見破られる気がするから。

 何とかツギハギだらけで無理矢理に形作られたメンタルで必死に立っているのに、さて背伸びをしてくれだなんて無理な話なんです。

 こんな私だから、いつまでたっても自分に自信も持てないし、背伸びした文章も発言もできないのだと思います。少しは背伸びしたら海の向こうにいる大衆に私の声を聞かせることができるのでしょうか。

 こないだ友人に「君は自分の正義に対して純粋だから、自分の正義を脅かす存在を排除しようとする」という旨の分析をされました。全くもってその通りで、笑えないくらい自分の核たる部分が揺らいで、立ちくらみがして、少し体調不良、そんな気分を味わいました。

 自己肯定感が高くないからこそ、余裕がなくて、私の唯一大切にしてきたそういう信念や正義の宝石に傷をつけられると、私の22年分の人生を否定され、嘲笑われ、適当にその辺の道端に捨てられみたいな気分になるんだと思います。ツギハギだらけの私のメンタルがあっという間に裁断され、使えもしない只の布切れになるのを恐れているのだと思います。だから、私はその宝石を必死に守り、脅かしてくるものに対して強い抵抗を示そうとするのだと思います。

 私は、そういったことをしてきそうな人間に対して、うっかり両手を広げられたりした時に、ガンっと手が当たって宝石に傷がついてしますのではないかと思って、物理的にも精神的にも距離をとってしまいます。こんな感じで他人の行動に気を配って、自分の核が脅かされるのを恐れてビクビク過ごしているから、こんな捻くれた人間不信な人間が生まれてしまったのだと思います。

 だから、私は自分の持っている小さな正義や信念をヨシヨシと撫でて、暖かく抱きかかえてくれる人間にしか心を完全には開けないのだと思います。

 とはいえ、じゃあ君の持っている正義とは何?と聞かれてもうまく言葉にはできないのですが、私という存在は、私の愛している人々との交流の中で生まれた社会的作品でもあると思っているので、やっぱり自分の好きな人が汚されたり、ぞんざいに扱われると強い苛立ちを覚えます。

 君の核は何と言われても、私にはわからなくて、なんとなく私の身の危険を感じるというか、なんか落ち込みそうだとか、私の大切にしている信念や人生観みたいなものを容赦なく否定されることに怯え続けているのだと思います。なんか立ったの一言で全てが終わる気がして、勇気を持って宝石を見せることができません。

本当は私の核なんて「空っぽ」でしかないのだと思います。

 別に何か印象深い出来事があって人生観が変わったりしたわけでもないし、ただひたすら人間関係に挟まれながら、宝物をツギハギだらけの布で覆い続け、外面として自分のことを偽ったりしてきたことで、いつの間にか、宝物を見ないことに慣れ、姿を忘れてしまったのだと思います。

きっと風と共に去って塵になてどっかへ行ってしまったんだと思います。

 なので、自分の核心に迫る質問をされると、ニヤニヤ薄ら笑いを浮かべ、その場のお茶を濁すだけで、結局「虚」な自分がいるのだと思います。

なんと余裕がなくて面白くない人間なんでしょうと私でも思います。

いつからこんなのになってしまったのでしょうか。

 最近は、もう仲良い人とただ笑いあって寿命を全うしたいなという思いしか、私の生きる希望はない、そんな気がします。

 私が、将来就きたいと昔は思っていた専門職についても「なんとなく」わかって、ただ「なんとなく」わかっている日常を誰と過ごしたら、少しはマシになるかなとしか考えれなくなってしまいました。夢や希望を捨てて、愛に生きるなんていえば格好はいいかもしれませんが、そういうことじゃなくて、なんか夢が簡単に叶うものになってしまった、というかそういう夢しか持てない、つまらない野心の持てない人間になってしまったのだと思います(現実では、それすら難しいのかもしれませんが)。

 私はこんなにも虚で、夢も希望も野心も自己肯定感も全て無くしてしまった人間だから、もう私と仲良くしてくれた、こんな人間不信の私が心を開けた人々への感謝を続け、眠るのでしょうね。もう一種の出家、悟りだと思います。

 この世で、戦争の次に自分自身のことが嫌いで、その代わり平和の次に君達のことが好きな私は、こんな感じで怯えながら生きているので余裕がありません。こんな感じだから、メンヘラじゃないけどメンヘラの素質があると言われたりするのでしょうね。

 今、ダラダラと自分語りをして後悔をしているけど、闇雲にタイピングをすることで誤魔化しています。

 何が言いたいかというと、生きていく上で、余裕のある人って、自己肯定感の高い人だと思います。別に否定されても、自分を愛している気持ちが優っているから、傷にもならなくてひたすら輝くダイヤモンド。羨ましいけど、神様を呪うくらいには私がダイヤモンドを持てない現実というのは悔しいものです。

 私の心の中にゆるやかにある「正義」、それを脅かす人なんてここまで私の駄文を読んでくれた人にはいないでしょうから、少しだけ見せたいと思います。どんなものか私でも全く見当がついていませんが、自己肯定感の高い人がいろんな人に見せて回っているダイヤモンドほどじゃないけど中毒的な光り方をしていると信じています。信じたいです。

 自己肯定感をもっと高く持っていれば、そういった宝石を外気に触れさせることにも慣れ、どんどん自分を愛して育っていくのだと思います。対する私は、いつまでもジュクジュクで宝石を外気に触れさせてこなかったから、少しでも風が宝物に当たると、慌てて、ダメにしてしまい、自分のことを結果的に嫌いになってしまいます。

 でもこのままじゃまずいなと、最近はこれから寒くなる季節に逆らって、少しだけツギハギの布に穴を開けてみようと思います。もしかしたら、また当て布を当ててしますかもしれないけど、5:26、こんな時間にこんな長文が書けるくらいには少しは勇気が出た。そんな気がします。

私は、私の抱える宝石を綺麗だねっていってくれる人がやっぱり好きです。
きっと、君達の持っている宝石の方が輝いてるかもしれないけど、
共に磨きあって、
輝きを増しあって、
少しはダイヤモンドみたいな輝き方じゃないけど、
輝いていると断言できる
自分らしい輝き方を見つけたいなと思います。

でも、あまり磨きすぎないでほしいです。
すごく輝いて、向こう側に行かれちゃうと
世界に取り残される、そんな気がするから。
少し夜風が冷たくなって
当て布を当てて
寒さを耐えるのだけは
もう懲り懲りだから。


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