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怒る人なんていない

こんにちは。
こんひろです。

最近ライフスタイルを見直して、楽しくスッキリ時間が過ぎているように思います。そのひとつ、モノを減らすこと。毎日少しずつ手放してます。休日にはクローゼット。ウエディングドレスは迷ったけどもしかしたらリメイクしたり娘が着るかもと踏ん切りつかず元におさめました。今朝は引き出しの中。服のスペアボタン。ぽろんと転がってる何かのキャップ。いざというときのために取ってる領収書。次から次に出てくる。どんどん捨てちゃいます。

人と同じように物にも自身の居場所があるようでピッタリしっくりくることがある。整理して整頓していくと幸せな気持ち、成功気分になれる。動くたびにピキピキと尾てい骨が痛くてテンションがズンズンさがるけどプラマイゼロ。

探しものの時間も少なくなった。心にゆとりにもできてエレベーターの扉が閉まる数秒は深く息を吸って吐いて呼吸を整える。毎食の頂きますとご馳走様も目を閉じて感謝する。できそうでできなかったこと。

物や情報を手放していく中で人との繋がりはなかなか難しいと改めて思ってます。合わない人はもう仕方ないので気にとめませんが、大切な人との関係は今も昭和も明治も、私もみんなも悩み続けるんです。傷つけたり傷つけられたり。人の心も私の心も弱い。

ちょっと話飛びます。

今夏目漱石を読んでます。

私は今よりいっそう寂しい未来の私を我慢する代りに、寂しい今の私を我慢したいのです。自由と独立と己とにみちた現代に生まれた我々は、その犠牲としてみんなこの寂しみを味わわなくてはならないでしょう。

こころの一文です。
私は今まで夏目漱石をちゃんと読んだことがありません。子どもの頃は犬好きだったので、我輩は猫であると書いてある本も読みませんでした。今は読まず嫌いだったと思ってます。

まだほんのさわりの部分しか読んでいません。"上 先生と私" の途中だけど勝手な解釈でここまでで私が感じたことを書きます。

夏目漱石のこころは人の弱さとか寂しさとかを裏付けしてくれてるようです。私はやっぱりそうか。これでいいんだと思えるのです。ときどき人のことがとても強く見えることがあります。だけどいつの時代も私もみんなもそんなところがある。当たり前のことだけど夏目漱石が代弁してくれてるそんな気がします。この本は暗いけど今のところ嫌な気持ちではありません。どちらかと言うと私にはしっくりとくる。

この文章もそうです。

私は私自身さえ信用していないのです。つまり自分で自分が信用できないから、人も信用できないのです。

自分で自分を信用しよう。
そしたら人のことも信用できる。
そんな強い気持ちになれる一文です。

ストーリーもいいけど私に馴染むことがたくさん書いてあります。やっと私にも夏目漱石が来ました。漱石 来たー!!と嬉しいです。美味しいコーヒーを淹れて現実と明治を行き来できる時間がとても落ち着きます。

文学って自分勝手に好きなように読み進めるととても面白いなぁと思いました。今までずっと正解通りに読まないと夏目漱石や文学の研究してる人たちから怒られそうな気がしてました。こんな偏った思い込みを捨てて、文学も音楽も発言ももっと自由にしていこうと思います。

いろいろ捨てるといいことが沢山ある気がします。

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