Trans、トランス、とらんす。 - 3 変わったのではなく、気付いただけ(4)

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ポリアモリーについて(と、締めくくり)

minatsu_bi_happyを好きになった時、わたしには5年付き合った彼氏がいました。

minatsuにもわたしより以前から付き合っている彼氏がいましたが、彼女はポリアモリー(複数恋愛)を自覚し、公言もしています。
対してわたしは、自分はモノアモリー(単数恋愛)という認識。

minatsuのことは好きだけど、彼氏と別れるつもりはない。
だけど、minatsuのことも諦められない。
これって浮気なんだろうか‥‥。と、初めはすごく悩みました。
minatsuを好きになってしまったことも、彼氏になかなか言えずにいました。

2人を同時に好きになった時点で、自分がポリアモリーである可能性に突き当たってはいたのですが、正直それは微妙な線だと思っていました。
その理由の一つは、独占欲。

minatsuも含め、わたしが直接会ったり話を聞いたりしたポリアモリーの人達は、皆独占欲が強くなく、やきもちもあまり妬きません。
恋人が自分と一緒にいない時、誰と会っているのか、何をしているのかということに、全く関心のない人もいます。
そうして、複数の恋人とのお付き合いを、皆平和に、バランス良く楽しんでいました。

わたしは、その人達のようなある意味「クール」な部分は持ち合わせておらず、そのことが、自分もポリアモリーなのだと認めることを阻んでいたのです。
 

当時minatsuは、わたしから比較的近い地域に、期間限定で引っ越してきていました。
時が来れば、やがて遠い、彼女の地元に帰ってしまう。
そのことに対する焦りや不安、寂しさもあったのでしょう。

彼女の奔放な恋愛スタイルに、いちいち悲しんだり、怒ったり、戸惑ったり。
でも、その気持ちをあからさまに彼女にぶつけるのが筋違いだということも、自分では分かっていて。
抑え込んだ嫉妬は心の中でどろどろしたものになり、自家中毒のようにわたしの心を蝕んでいき、ついには情緒のバランスをおかしくしてしまいました。

様子がおかしいと気付いたminatsuに事情を尋ねられ、促されて、わたしは彼氏に一部始終を話します。

彼は

「構わないよ。
 どっちも好きで選べないっていうなら、仕方がない」

とあっさり許してくれました。

聞けば、以前身近にポリアモリーの友人がいたとのこと。
そんなに詳しいわけではないけど、ポリアモリーの心情や行動原理は、何となく知っていたのだそうです。

大山鳴動して、鼠一匹。
 

その後minatsuは地元に帰り、わたし達は遠距離のお付き合いを続けることになります。

会えなくて寂しいことも多いし、相変わらずやきもち妬きなわたしですが、なんとか先輩達のようなクールさを身に付け、ほどほどのバランスで3人の恋愛を楽しんでいます。
 

ちなみに前回出てきた旧友ですが、わたしに彼氏と彼女がいることを話すと。

「オマエ昔っからそんなかんj

‥‥あれ?(^_^;
 

確かに高校時代、好きな男の子がいたのと片想いしている女の子がいたのは、同時進行でした。

フリーター時代、何人かの女の子を同時に好きな時期がありました。

元嫁と一緒に暮らしている間も、好きになった人が何人かいました。
例によって極めてナチュラルに、「○○ちゃんのこと好きーヽ(・∀・)ノ」とか、元嫁に話してましたけど。
元嫁も笑って聞いていました。

まぁ、そういう感情についてわたしが始終あけっぴろげだったのと、好きだからといって今の関係を崩してまでどうこうしたいっていうのは全くなかったのと、わたしのLikeとLoveの境目が元々あんまりハッキリしていなかった(随分広いグラデーション)お陰で、そういうことが特に問題にならなかったんだと思います。

でも、結局、ポリアモリー的資質はその頃からあったわけですね‥‥。
先入観てホント恐い(^_^;




さて、ここまで4話書いてきたわけですが、全編を通してわたしが訴えたかったポイントは、タイトルにもある

「変わったのではなく、気付いただけ」

ということです。
 

性自認も、性指向も、ポリアモリーについても、わたしの根っこの部分は、小さい頃から何も変わっていませんでした。
けれど、基準にする物差しがきちんとなかったせいで、自分の正しいセクシャリティ(性的傾向や状態、アイデンティティ)を把握するのに時間がかかってしまった。

今の社会、特に日本の社会は、「この世の中には男と女しかいない」という性二元論をベースに作られていて、それ以外のセクシャリティの存在はあまり想定されていません。

人間が学び、成長して大人になっていくには、節目節目でロールモデル(考え方や行動、役割のお手本になる存在)が必要です。
性二元論基準の社会にはセクシャルマイノリティ(性的少数者)のロールモデルになり得る人が少ないし、いても広く周知されません。
だから、わたしの例のように、自分の正しい状態を把握できなかったり、誤解してしまったりする。
 

セクシャルマイノリティ関連の教育を忌避する人達はしばしば、
「下手に情報に触れさせると、子供達がオカマになってしまうかもしれない」
等と言いますが、それはまるでないと言わせてもらいます。

ストレートの子は、ゲイの存在を知ったところでゲイになりません。ゲイの友達がいたからといってゲイにはなりません。
ゲイに「なった」ように見える子がいたら、その子は元よりゲイの資質を持っていた子です。
知らなかった自分のセクシャリティに「気付いた」だけです。

同様に、レズビアンの子は、ストレートの子の中で過ごしたからといってストレートになりません。
自己を表現していじめられることを恐れてストレートの振りをすることはよくありますが、根本的な気質は変わりません。

トランスジェンダーも、「治り」ません。
GIDという病名がありますが、あれは法律的な措置のために便宜上付けた病名です。
教育や薬の結果で、性二元論にぴたりと合致する模範的な児童に変貌を遂げたりしません。

セクシャリティは、その子の人格の根本に根付くもの。
周囲からの情報や働きかけが原因で、成長の途中でころころ変わったりするようなものではないのです。
 

今回の4編に関しては割と明るくさらっと書き流していますが、わたし自身も「自分ってなんだろう」と悩んだことや、苦しくて自殺を考えたことが、何度もありました。
(セクシャルマイノリティの若者は、そうではない若者の6倍近い自殺リスクがあると言われています。
 ※参考 内閣府 自殺対策推進会議 資料

セクシャルマイノリティの子供達が正しく自分を理解するために。いじめに遭わないために。
セクシャルマジョリティ(性的多数者)の子供達が、マイノリティのクラスメートと出会っても戸惑わないように。
そして、マイノリティとマジョリティがみんな仲良く手を取り合い、一緒に成長していけるように。

子供達に、人間には色んなセクシャリティがあることを、伝えてあげたい。
もし性二元論的な視点から観てちょっとズレているように見える子がいたら、キミはおかしくないんだよ、と教えてあげたい。

そういう想いで、わたしはセクシャルマイノリティの人権活動に参加しています。

もし、お願いできるのなら。
これを読んでくれたみなさんが、それぞれの出会いの中でこの話を伝えてくれたら、とてもとても嬉しいです。
 

あちこちに点在する活動家の先輩達のお陰で、セクシャルマイノリティに対する扱いも、わたしが小さい頃に比べると随分変わってきました。
でも、まだまだです。
まだまだ、苦しんでいる子が、たくさんいます。

わたしの言葉が、その子達を救う一助になりますように。




ここまで読んでいただいて、ありがとうございました。
課金していただいたお金は、セクシャルマイノリティ支援の活動資金に充てさせていただきます。

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