人生でも屈指の、最悪の日 前編

最悪の日の話をします。
最悪な日だし、僕自身も最悪です。



22.23歳の時に道路工事の警備員のバイトをしていた。
芸人の養成所に通っていた時期のバイト。まだ東京には住んでおらず実家の神奈川県から通っていた。

建物の警備ではなく道路工事の警備員なので工事の場所によってその日の現場が違った。全て電車移動。基本は神奈川県内の現場だったが、東京の現場もたまにあり、今回の最悪な出来事は東京の現場に入った時に起こる。

ある1月の冷え込む冬の日、東京都大田区の現場に来ていた。この日は道路工事がある道を車両通行止めにする為に、その道の入り口に立って車を誘導するという業務内容だった。


冬場は青を基調とした膝下までの長いベンチコートのような制服に、下は紺のスラックス、足元は脛まで高さのある鉄板入りの激重の安全靴、という格好で業務に当たっていた。その日は実家からそのままの格好で大田区の現場まで来ていて、着替えは持ってきていなかった。


朝の9時から道の入り口に立ち続け、なんだかんだしているうちに昼の12時になった。その日一緒に働いていたおじいさんの警備員が僕のところに来て「昼ごはん食べてきなさい」と言われ、変わりばんこにお昼休憩をとることになった。


僕が働いていた警備会社は、なんだか怖い人が多くて、全員厳しかった。ほぼ職場の人の笑顔を見た記憶がない。今思えばなんでそんなに厳しいところでわざわざ働いていたのかわからないが、そんな中でこのおじいさん警備員はニコニコしていて、優しかった。いつも朝、現場に到着しておじいさんがいると心が穏やかになった。


僕は自分が警備している道の入り口から30メートルほど離れたコンビニにお昼ご飯を買いに行った。コンビニ弁当を適当に買い、元いた警備の場所に戻る。その時ハッと気づいた。

財布がなかった。



その時の僕は制服のベンチコートの右ポケットに財布、左ポケットにスマホを入れていた。それなのにコンビニから帰ってくると右ポケットはスカスカで左ポケットのスマホだけになっていた。全身のポケットというポケットを服の裏地まで漁ってみたが財布の感触はどこにも見つけられない。やってしまった。と背筋が凍った。



弁当を買えているのだから、落としたとしたらその後だ。もしかして会計時にコンビニに忘れたかもしれない。急いでコンビニに戻り、店員さんに聞いてみたが「財布はない」と言われた。店内も探してみたのだがどこにもない。コンビニまでの30メートルの道も、隅々まで探しながら戻ってきたが、どこにも見当たらない。僕はパニックだった。本当に目と鼻の先の短い距離で財布が忽然と姿を消したのだ。


僕はもう一度、全身のポケットを漁ってみようとポケットというポケットに手を突っ込んでみた。そして、旋律が走った。

スマホがなかった。



財布を探していた時には左ポケットに入っていたはずのスマホがどこにもなかった。スマホも落としてしまった。もちろん財布も引き続き見つからない。僅か30メートルの道を2往復している間に次々と貴重品がなくなっていく。頭がおかしくなりそうだった。ここは地元では有名な神隠しの道なのか?


再び、先ほどのコンビニとその道中をくまなく探してみたが財布もスマホもどちらも見つけることは出来なかった。店員さんにも聞いてみた。店員からしたら「さっきは財布で今度はスマホ?」
意味不明な客だ。僕がもうちょっとごねていたら、店長を呼びに行く寸前だっただろう。


休憩開始からスマホをなくすまでが僅か20分ほどの間の出来事。何が起きている?誰かに拾われたとしてもスパンが短すぎやしないか?


パニックの中、僕の肩をトントンと叩く感触を感じた。振り返ると、事情を知らないニコニコおじいさんだった。



「休憩、交代だよ」






睨んでしまった。




絶対に睨んではいけないのだがこの時の僕はおじいさんを睨んでしまったのだ。そして、僕に悪魔が乗り移る。


「このじいさんが盗ったのか?」




心の中で思った。疑ってしまった。状況的に考えておじいさんには絶対に盗ることは出来ないのだが、冷静さを欠いていた僕はおじいさんが犯人だと思い込んでしまった。大好きだったおじいさんを。この厳しいバイト先のオアシスだったおじいさんを。



「ちょっと、ユニフォームのポケット見せてもらっていいですか?」


事情も伝えずに、そんな事を言ってしまった。おじいさんは疑問を浮かべながらもポケットの中身を全て見せてくれた。もちろん、入っていなかった。カバンの中も見せてくれた。大人用の紙オムツしか入っていなかった。当たり前だ。あるはずがないのだから。無実は証明されたが、おじいさんの顔からはニコニコの笑顔は消え去っていた。悲しそうな顔をしてコンビニにお昼ご飯を買いに向かった。


1人になった僕は冷静になった。


なんて事をしてしまったのだ。




寒空の下、涙が溢れてきた。



僅か20分の間に、財布とスマホ。そして、人間として大事なものを失ってしまった。




その日はスカスカのポケットと心のまま、17時までの勤務を終了し、おじいさんにはすぐに謝った。おじいさんは許してくれた。許してくれたが、おじいさんの顔には最後まで笑顔は戻らなかった。また泣きそうになった。あんなに大好きだったおじいさんを疑って傷つけてしまった。そしておじいさんは乗ってきた原付で家に帰っていった。



そして更に追い打ちをかけるような、無慈悲な現実に僕は気づく。



ここは東京都大田区。自宅は神奈川県平塚市。



財布とスマホはない。

帰るお金も、誰かに連絡をとる手段も無かった。





後編に続きます。




ちなみにこの日以来、おじいさんとは会っていません。もう一度謝りたかった。笑顔を見たかった。

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