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「何者であるか」に答えないで躱そうとしてきたけど、それでは私は視線から逃れられないんだ

19世紀の産業革命期からずっと人類は「我々は何者で、どこから来て、どこへ行こうとしているのか」という疑問に頭を支配されてきたそうです。


※参照

Where Do We Come From? What Are We? Where Are We Going?
Paul Gauguin (French, 1848–1903)1897–98

ボストン美術館 Museum of Fine Arts, Boston

https://www.mfa.org


私の経験上、この「何者であるか」という疑問は自分にだけ向いているのではないです。
つまり、人は「この他人は何者であるのか」と自分だけでなく他人の立場・肩書き・役割・出発地・到着地も気になる生き物なのではないか、と私は思うのです。



私はありふれた珍しい人生を送ってきたので、「いま何をしているのか」「どこ出身なのか」「なぜここにいるのか」「将来は何をする予定なのか」等の質問をされるたびに逃げたい気持ちでいっぱいになっていました。
非常に答えるのが難しかったのです。自分のことを言いたくなかったですし、そもそもその質問への答えを持っていなかったのです。自分が何者であるかを決めないようにしていたからです。

実際に質問への答えを濁したり、「あ~あはは」みたいな感じでごまかすときもありました。そうしたら私への追及が済むと思っていたからです。

これらの方法は一時的には効果がありました。
なので一回しか会わない人にはこれでよかったです。
しかし、何度も出会うご近所さんやこれからも関係が長期間続く人に自分の素性を明かさない日々が続くと、そういった人の未知への恐怖と興味を一身に受け続けることになり、かえって辛い気持ちになることが分かってきました。私が何者であるかに関する追及が止まないのです。



また、私は他人が何者であるかがあまり気にならないタイプですが、世の中の多くの人はそうではないらしいということも分かってきました。

私からすれば、何度もしつこく出身や所属組織、将来の進路を聞いてくる人が理解できませんでしたが、反対に相手側からすれば何もはっきりしたことを話さない私が理解できなかったであろうということも分かってきました。

私はそういう相手にイライラしていましたし「なんでなんだろう」という気持ちでいっぱいでしたが、相手も私に対してそういう気持ちでいっぱいであったであろうということが分かってきたのです。

未知への恐怖と興味は、相手も私も持ち合わせていたのです。

相手の送ってきた人生では、出身地は明確で、将来も確実で予測可能性に富んでいたのでしょう。肩書きも明確なものが一つあるのが当然だったのでしょう。

私は色々な時代、土地に生きてきた人の生き方を知ったことで、ある程度色々な価値観が生まれた過程が理解できるようになりました。
だからといって、その過程によって生まれた結果を受け入れられるかというと、それら2つはまったくもって別問題ですが。

どちらかが未知を既知にしなければ、いつまでたっても恐怖と興味は尽きないのだろうと思います。

だから、「君は何者であるか」という質問に答えなければ、延々と私は相手にとっては未知で、恐怖と興味の対象になるのです。

とはいっても、今でも「私は何者であるか」「どこ出身か」「将来は何をするのか」等に対する答えは決めていないので明確に答えられないのですが。


結局、このような質問から逃げる方法はないのでしょうか。
私は今でもこれらの追求から逃れられるなら逃れたいのです。

根本的に自分のことを知られたくないのです。



小学生のとき、転校した小学校で学年全体150人ぐらいの前で「どこから転校してきたのか」を言わなければなりませんでした。
断れる雰囲気ではなかったですし、断るという発想もなかったので「○○県から引っ越してきました。○○です。」と言いましたが、なんだかそれをすごく聞かれたくありませんでした。

大学生の時、授業で大勢の前で「なんで○○県から遠く離れたうちの大学にわざわざ来ようと思ったの?」と聞かれて「あぁ…言いたくないな」と思いました。

別に、今まで居た土地が恥ずかしいとか、引っ越しの理由が恥ずかしいとか、大学の志望理由が恥ずかしいとか、色々とやましいことがあるとかそんなことはないのです。
「やましいことが何もないなら言えるでしょう!」とお思いのかたもいると思います。
でも、やましいことがなんらなくても言いたくないときが、私にはあるのです。

大勢の前というのも自分のことを言いたくなくなる一つの要因だと思うのですが、一対一でも言いたくないときもあるので心は複雑だなと思います。



おそらく、こういった「あなたは何者か」という質問をされるたびに自分の異質性を認識させられるから、質問に答えたくなくなるのではないかと思います。

例えばこの「なんで○○県から遠く離れたうちの大学にわざわざ来ようと思ったの?」という質問は分かりやすくて、相手がにいて私はに置かれたように感じるわけです。

同じ組織、共同体、グループに所属している(少なくとも所属し始めた)と私は思っているのに、よそ者扱いされるのが苦しい気持ちになる要因なのだと思います。


出身を聞かれたら何て答えるのがいいかな、と何度も考えてきました。

今まで住んできた県の中で一番住んでいた年月が長い都道府県をピックアップして「○○県です。」と適当に答えてみたこともあるのですが、自分の心の奥底で「でも本当はそこだけじゃないんだよ」という声がこだまするのです。葛藤があるわけです。

ならば、今まで住んできたすべての都道府県を言えばいいじゃないか、と考えるかたもいらっしゃると思います。

しかし、結局それらの都道府県と現在私がいる土地・職業・生き方に相手方が関係性を見出せなければ、「なんで○○なの?」と理由を聞かれ、相手が納得する理由を与えられるまでこの追及は終わらないのです。


できることならば、叶姉妹のように「すべてです。」、もしくは「ありません。」と言ってすべての質問を終わらせたいです。

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