自己否定感と、怒りの話

「自己肯定感」という言葉をよく耳にする。
コトバンクにおいては、「自分の価値や存在を、肯定できる感情」とされている。
すなわち、「そのままの自分って価値があるんだ!」と思える、絶対的な自信のことだと私は思う。

しかし、全ての人が、十分な自己肯定感を持っている訳では無い。現に、「日本人には自己肯定感が低い人が多い」と、指摘する人もいるようだ。

私も例に漏れず、自己肯定感の低い人間である。むしろ、「そのままの自分には価値がない」という、絶対的な不信がいつも付きまとっている。私はこれを、「自己肯定感」に対比させ、「自己否定感」と呼ぶことにした。

自己否定感は、無意識に落ちる影のようなものだと、私は思う。些細なきっかけからじわじわと、頭を占領するのだ。
タチが悪いことに、「自分は自己否定感にとらわれている」と気づくのは、副作用の「絶望感」に、どっぷり浸かったあとなのだ。
知らない間に自己否定感に侵食され、知らない間に絶望感に沈んでいく。気づいた時には手遅れで、助けを求める為のエネルギーも、残っていないのである。

私は時折、人がたまらなく妬ましくなる。私のような「自己否定感による苦しみ」を経験せず、自分に価値があるという前提のもと暮らしていて、その上「欲しいものが手に入らなくて辛い」と文句を言う人を、見ていられなくなる。

一方的で勝手な妬みだとは分かっていた。しかし、辛い環境から逃げる為に、無理をして自立するしかなかった私にとって、「ありのまま、なんとなく生きていればいい」(ように見える)人の姿は、「なぜ自分には、なんとなく生きることが許されなかったのだろう」と、辛くなるものだったのだ。

さて、今日ふと、気づいたことがある。
それは、私を巣食う自己否定感へ怒りだ。

私は他人から、「お前は、なんとなく生きていてはダメな人間だ」と言われた訳では無い。また、「どうして私だけ」「私ばっかり頑張っている」と憤ることもあったが、他人に「お前だけ余分に頑張りなさい」「お前だけが怠けてはならない人間だ」と言われたことは無いのである。

辛い道を選んだのは自分であり、ひとに手助けを求めなかったのも私だと気づいた。「自己否定感」という私の一部が、私自身を、無駄な努力や心配、無理のしすぎへ歩みを進めるよう、唆している。
唆す際の大義名分はいつも、「ありのままのお前を見せれば、人はみんな離れていくぞ」という、根拠の無い脅しであった。

怒りを向けるべきは、他人や運命ではなく、不幸の方へと足を引っ張る、「自己否定感」であったのだと、私は思った。

書き留めなければ、また無意識のうちに、自己否定感に騙されそうだったので、ここにこうして書き残す。
未来の私が、自分自身に騙されそうになった時、助けになることを祈っている