志賀直哉(2) 「佐々木の場合」についての感想及び考察

 志賀直哉の小説「佐々木の場合」(『黒潮』大正六・六)には、『亡き夏目先生に捧ぐ」と言う献辞が添えられている。同時期に執筆されていた「城の崎にて」(『白樺』大正六・五)ではなく、何故この作品を志賀は漱石に献じたのか、この記事はその理由を考察していこうと思う。

 大正五年十二月、夏目漱石が永眠した時、志賀は前々年の四月以来、一編の小説も発表していなかった。志賀地震の説明によれば、漱石との間で約束された小説(『東京朝日新聞』大正三年)が書けず、「義理堅い夏目さんにそんな事で迷惑をかけたのは大変済まない事に感じ、何時かいい物を書いて、朝日新聞に出そうと思った」事がこの沈黙の「原因の一つであった」と言う。

 ところが、そのうちに漱石は亡くなった。それゆえ、その後に出来上がった作品を漱石に「デディケートして僅かに自分の止むを得なかった不義理を謝した」(「続創作余談」)というのである。然し、実際には「佐々木の場合」と同年同月には「城の崎にて」も書き上げられていた。にもかかわらず「佐々木の場合」の方が漱石に献じられたのは何故だろうか。

 この理由について本多秋五は、実体験に基づく「城の崎にて」より、客観小説「佐々木の場合」の方を、志賀が「より創作らしい創作、業績らしい業績」(『志賀直哉(上)』岩波書店、平成二年)と考えていたからとする。然し、それは形式のみを重視した一面的な見方であり、本質的な理由では無いと思われる。

 後に詳しく見るが、漱石の人柄や作品を語る際、志賀は常に「道念」や「倫理」と言った言葉を持ち出す。「佐々木の場合」は、正しくそうした観念を最も如実にテーマ化し、あからさまに展開した作品であった。さらに、この作品の内容は、小説執筆の約束を交わした漱石と志賀との関係を反映したものとして読むことが可能なのである。

 上記の事を確認すべく、まずは「佐々木の場合」で語られる一組の男女の物語から具体的に見ていく。

<その1 エゴイスト佐々木と道理に生きる富>

「佐々木の場合」は、ロシアから七年ぶりに日本に戻ってきた軍人佐々木が、同郷の年下の友人「自分」(佐々木には「君」と呼び掛けられている)に自身の過去と、それに起因する現在の苦しみを打ち明けるという体をとる小説である。佐々木の告白が小説冒頭から地の文の殆どを占める、終始聞き手であった「自分」の感想が末尾に示され、作品は結ばれている。

 佐々木の告白によれば、(作中現在から)十六年前、十九歳であった彼は郷里を出て「山田の家に書生をし」ながら「士官学校の入学準備をしてい」た。その時、家の「お嬢さんの守っ児」で、彼より「三つ位下」の富と言う女生徒関係を持ったと言う。ところがある日、二人が逢引している隙にお嬢さんが誤って焚火に転落し、大火傷を負ってしまう。自責の念に苦しんだ富は、このままでは肩の「肉の上がる見込みはない」お嬢さんに自身の尻の肉を提供した。一方、佐々木は士官学校の体格試験への影響を考え、山田の家を一人黙って逃げ出した。以上が佐々木の口から「自分」に語られた彼の過去のあらましである。

 佐々木は自身が関係を持った富の性質を、一貫して弱いものとして次の様に語る。

僕も初めての経験だし、割りに上ぼせて居たが、何しろ対手が気の小さい奴で他人に対し余りビクビクするので僕はよく腹を立てた。(...)これと云ふ長所もない奴だが、無暗と従順なんだ。これが長所と云へば長所だが同時に如何にも勇気のないと言う欠点になって、それでは随分ガミガミ怒ってやった。

「気の小さい」「無暗と従順」「如何にも勇気のない」富。それは、富の気の弱さを咎めて「ガミガミ怒」る佐々木と正しく好対照である。また、富は佐々木との関係を「全然害悪と思ひ込んで居」り、「悪い事をして居るという気はどうしても抜けな」い。一方、佐々木はそうした富の考えに「閉口し」ており、「僕が少尉か中尉になれば必ず公式に結婚するのだから何遍いって聴かしたか知れない」と言う。二人は性質とともに道徳意識においても対局にある。

 そして、この富と佐々木の対象性は、お嬢さんの大火傷と言う事件に際してより如実にあらわれる。人事不詳のお嬢さんの様子に、「気の小さい奴の事で自殺でもしはしまいか」と佐々木が恐るほどに富は「苦みぬ」く。一方、佐々木は「何も彼も主人の前に懺悔した」く思いつつも「二重に富を苦しめる事」を考えると、それも出来ない。また、お嬢さんへの肉の提供も「僕の身体から取って呉れと申し出ようと思」いながらも、実は「進んで出たい気を起こして居るのではな」い。結局、「どうか許可して呉れ」と自分の肉の提供を富が主人に願い出た時、「自分をづるいと思」いながも「ホツと息をついた」と佐々木は自ら打ち明けている。

 この様に「佐々木の率直にして他の迷惑を顧ざるエゴイズムと一面にその犠牲に対する責務観念が、気の弱い女と対照して面白く描かれている」(松原十束「六月の雑誌から(一)『東京日日新聞』大正六年)様な様相はここに止まらず、佐々木が続けて語る二人の現在(事件から十六年後)にまで及んでいる。

 (作中現在から)「一週間前」、今は「大使館付き」の大尉となった佐々木は、十六年ぶりに「偶然銀座通りでお嬢さんを連れた富を見掛け」る。それまで「責任を果さうと云ふ気が寧ろ先に立って」彼女を忘れずにいた佐々木だが、実際に目にした富には「何処か若々しい所」、「安心の状態に居る人らしい落ち着き」があったと言う。それ故、「今更に新しい感情」を彼女に抱いた佐々木は富に手紙で求婚する。然し、佐々木の申し入れは富に受け入れられることはなかった。

 自分の希望通り立身出世を果たした佐々木は、自らを「今幸福な身の上だ」と認識するとともに、富を「女として不幸な境遇に居る者」と考えている。それに対し、長い奉公の末、今や「お嬢さんのお付き」として山田の家から「生涯困らないやうに」との配慮を受ける富は、「私は今少しも不幸ではない」、「只お嬢様にいい御縁のないだけが自分の不幸」だと言う。また、「今は尼のやうな気持で居る」富は、「自分はもう如何なことがあっても再び男との関係は作るまいと決心している」とも言う。佐々木の言葉を借りれば「総てが余りに紋切型に尤もな」こうした富の返答の前に、佐々木は彼女の意思を覆すだけの言葉を持ち合わせていない。

 進んで自らの身体を犠牲とし、償いの一生を始めた富と、自分の将来、保身を第一に逃げ去った佐々木。事件直後の対応によって既に明白であった二人の動議をめぐる対照は、十六年後の彼等の生き様と直結しており、二人の価値観、倫理観の相違はもはや埋めようのない深い溝として作中に提示されているのである。

<その2 実際の事件と佐々木への弁護>

 「佐々木の場合」の執筆動機に実際の事件が関わっていることを、志賀はこの様に説明している。

新聞の三面記事から思ひついた。新聞には書生は逃げて了ひ、女性は自分の肉を提供した、これだけが書いてあった。私は逃げた書生にも言い訳の根拠はあるかも知れないと思った。それが、書く動機となった。(「創作余談」『改造』昭和三年)

 吉川裕佳の調査(「女中は軍人と結婚すべきか——志賀直哉「佐々木の場合」)『日本近代文学』第六十七集 平成十四年)に拠れば、少女が焚火で大火事を負うという出来事は、明治三十三年十二月二十六日付の新聞四紙に掲載されており、それは志賀の住居の近くで起こった事故であったという。「逃げた書生」に対する志賀の同情は、女中と結婚を約束しながら、結局はそれを果たし得なかった彼自身の経験を想起させる。然し、ここで問題としたいのは、右に明らかにされた志賀の「書く動機」が、果たして小説の実際に真に反映しているか、ということである。

 確かに「佐々木の場合」は、「逃げた書生」=佐々木を小説内の主たる語り手として設定し、かつ士官学校の受験前という身分に置くことで、彼に「言い訳」する機会を十分に与えている。

 また、佐々木を弁護するという観点から為れば、火傷を負うお嬢さんの造型は周到である。「一体子供好きでない」佐々木は、お嬢さんのことを「ひどいすが眼で顔立ちも痩せて妙に鋭く、性質も嫌にひねくれて居」て「かなり感じの悪い児だった」と説明する。そして、お嬢さんの方も「全く御愛想らしい事も云はな」い佐々木を「嫌い以上に恐れて」いる。その上、佐々木もお嬢さんも共に富に執着しており、ここには富を巡って相手に「或嫉妬」さえ抱く三角関係が形成されている。

 それ故、佐々木は大火傷を負ったお嬢さんに対して「非常に気の毒な事をした」と思いながらも「心に愛情は湧き上がって来な」い。この様に、佐々木が単に「身勝手」であるからというだけでなく、彼が罪の意識を持ちにくい人物設定がお嬢さんには徹底して施されていると言えよう。

 然し、既に前節で見た様に、事件から十六年後に行われた佐々木の富への求婚は、佐々木なりの誠意を立証するものでありながら、富に受け入れられることはない。自ら道義に殉じ、それを全うする富の生き方は、佐々木の考える世俗的な「幸福」を相対化する。佐々木は過去の自身の「イゴイスティックな」行為の報いを今になって、富の拒絶という形で受けるのである。すなわち、小説の語るこの十六年後の顛末は「逃げた書生」を弁護しているとは言えない。むしろ逆である。さらに小説は、聞き手「自分」の感想として、次の様な佐々木批判を付け加える事も忘れない。

佐々木は今其女の心をさへぎつて居るものは紋切型な道義心と犠牲心とで、それを取り除く事ができれば問題は解決すると思っているらしい。そして其道義心と犠牲心に余りに価値を認めていない点が、佐々木も可哀想だが、自分には少し同情出来なかった。自分もそれらを左う高く価づけはしない。然し佐々木はそれを余りに低く見ていると思った。そして仮令消極的な動機からにしろ其女が信じた事を堅く握り締めて居る其強さに自分はいい感じを持った。

「自分」は佐々木と富の価値観の相違を踏まえた上で、「道義心と犠牲心に余りに価値を認めない」佐々木に「少し同情出来な」いと判じるのである。

 志賀が小説の材料を得たとされる新聞記事には、当然ながら事件から十六年後のエピソードや、聞き手「自分」の右の様な感想など存在するはずもない。新聞記事にない筋書きを付け加える事で、「逃げた書生」佐々木の「言い訳の根拠」に収まり切らぬもの、むしろ佐々木に罰するとも言える内容を、明らかにこの小説は備えている。果たしてこの様な結構はなぜ必要とされたのか。

<その3 「自分」とは誰か>

 小説の展開は佐々木を罰していると述べたが、この「イゴイスト(エゴイスト)」佐々木と作者志賀との類似は従来から指摘されている。本多秋五は、佐々木を「よほど志賀直哉によく似た人物」と述べ、草稿(未定稿「坂井と女」大正二年執筆)には見られなかった「自分」の登場を持って、次の様に「作者の成熟」を導く。

『佐々木の場合』では、佐々木は三年間の沈黙以前の可能的な志賀直哉である。最後に一ページほどの感想を述べている「自分」は、執筆現在の志賀直哉である。この「自分」は、佐々木の考えの無理からぬ事を認めながらも、彼の意に従わぬ女の行動を、それはそれなりに好感が持てる、と肯定している。 この「自分」の眼には、単にこの女の行動だけでなく、佐々木の意のごとくならぬ多くの他人の動きが見えていた筈である。それが作者の成熟である。

 須藤松雄『近代の文学・7 志賀直哉の文学』改訂新版 昭和四十七年)も、佐々木が「ある程度作者の自画像の要素を含んでいる」事を認めている。その上で、「大津純吉」(『中央公論』大正九年)に比べれば「自我貫徹の姿を客観的に批判しようとする傾向を含」む「佐々木の場合」に、作者の「調和的傾向への歩み寄り」が見られると指摘する。

 根拠に若干の違いはあるものの、これらの論は共に佐々木に作者との類似を見るだけでなく、「成熟」、「調和的傾向」といった作者の変貌をも作品から抽出する点で一致している。数年に及ぶ沈黙を破って執筆活動を開始し、さらに数ヶ月後には父との和解を成し遂げて「和解」(『黒潮』大正六年)を発表するこの作者の、この時期の作品に相応しい意味付けが「佐々木の場合」には与えられているのである。

 然し、本多が言うように、佐々木=「三年間の沈黙以前の可能的な志賀直哉」、「自分」=「執筆現在の志賀直哉」と二分化し得るほどに、事態は決して明快ではない。

 実は、明治四十一、二年に執筆された「impressionsXV」[手帳12]には「陸軍大将になって、独乙あたりの大軍を破ってやらうと云ふ望みは大きな望みである。然し、下等な望みである。/むさくろしい一室を唯一の世界として不具なる夫なり子供なりの看病に一生を終ろうと思ふ女の望み、これは誠に小さな望みかも知れない、然し、高い望みである」との記述がある。すなわち、「佐々木の場合」の「自分」の判断に通じる様な価値観を、志賀は執筆作品から八、九年遡る時期に既に持ち合わせていたことになる。この事実からすれば、「自分」の登場を根拠に「作者の成熟」を導くことはやや無理がある。

 また、「佐々木の場合」は佐々木と富との再会を事件から十六年後に設定することで、佐々木と「執筆現在の志賀直哉」を同年齢にしている。つまり、志賀は佐々木を罰する様な展開を、作中に確かに設けながら、佐々木を批判する「自分」ではなく、批判される側の佐々木の方に態々現在の自身の実年齢を重ねているのである。これは一体なぜなのか、その所以を、論の冒頭で触れた漱石との関係の中で次に考えたい。

<その4 モラルの作家漱石>

 志賀は漱石の作品について語る時、必ずと言って良いほどに「道念」や「倫理」という言葉を用いる。「夏目先生のものには先生の「我」或いは「道念」と云ふやうなものが気持ちよく滲み出している」(『漱石全集』推薦 復旧版 昭和3・3)「作者としての道念と云ふやうなものの影響は一番夏目さんから受けた」「夏目さんの影響は」「夏目さんの作に現はれている一種のモラールから来るもの」「作中の人物や、漱石自身の人間、倫理観と云ふやうなものに、好意を感じた」など。漱石をモラルの作家と捉える志賀が「道義心と犠牲心」をめぐって対立する男女を描いた「佐々木の場合」を漱石に献じたのは、如何にも相応しい手立てであったと考えられる。

 また、志賀は「大学は、三四年の徴兵ヨケより、大したものではない」と思いながらも「但し夏目さんの講義だけは聞きたい」(「impressionsⅤ」[手帳5]明治三十九年)と考え、東京大学に通っていた。

 武者小路実篤も、志賀が「一時漱石に夢中にな」り、漱石の講義を聞いて「喜んでいた」事を証言している。(「夏目漱石の思ひ出」『文芸従来』昭24・3)。志賀にとって漱石とは疑いようもなく「一番好きな作家」(「書き始めた頃」『文学の世界』昭和23・5)であり、「最も愛読した作家」(「愛読書回顧」『向日葵』昭22・1)であった。

 一方、漱石も志賀の処女創作集『留女』(洛陽堂 大正2・1)に対し、「作物が旨いと思ふ念より作者がえらいと云ふ気が多分に起り候」(「書籍と風景と色と?」『時事新報』大正2・7)と高い評価を与えていた。

 その漱石に依頼された小説が、志賀にはどうしても書けなかったのである。志賀は書けない理由を漱石に「人生観と云ふやうなものが変化したため」(大正3・7付山本笑月宛夏目漱石書簡)と語ったらしい。別のところで志賀は、「心持の上の都合でどうしても書けなくなった」とも説明する。既に漱石の「心」の連載が終わりに近づいていた時期におけるこの事態を、漱石は山本笑月(『朝日新聞』文芸欄担当)に「志賀の断り方は道徳上不都合で小生も全く面喰ひました」と述べつつ、「芸術上の立場からいふと至極尤も」(大正3・7・15付書簡)と寛大に受け止めている。公の場においてもほぼ同様の見解を、漱石は次の様に述べた。

志賀直哉氏の『范の犯罪』は他の人には書けぬものである。先頃東京朝日に小説を頼んだ時、五十回ばかり書いてよこしてくれたが、自分はどうしても主観と客観の間に立って迷って居るどちらかに突き抜けなければ書けなくなったと言って、止めてしまった。 徳義上は別として、芸術上には忠実である。自身のある作物でなければ公にしないと云ふ信念がある為だろう。(「文壇のこのごろ」『大阪朝日新聞』大正4・10)

 漱石の言は不思議なほどに終始志賀に好意的であるが、志賀はこの「徳義上」の問題、漱石に対する「不義理」(「続創作余談」)を結局、漱石が生きている間に返上することは出来なかった。

 この様な漱石と志賀の関係を補助線にし、改めて「佐々木の場合」を眺めれば、次の様な読みが可能となる。それは、道義に従うよりもあくまで自分自身の都合を優先し、結婚を約束していた富の元から「逃げた書生」佐々木とは、自身の「芸術上の立場」を理由に、先からの小説執筆の約束を破った志賀自身だ、ということである。また、佐々木の過去の行為のみが志賀のそれと重なり合うばかりではない。作中現在、今更ながらに行われる佐々木の求婚は、いわば富への遅すぎた贖罪とも言えようが、漱石の死後になってようやく小説を発表し始める志賀の行為も、義理(約束)を果たすべき時期を決定的に逸しているという点で全く同一である。しかも佐々木の求婚も志賀の創作事情も、義理や責任感を第一義にしているのではなく、あくまで自分の感情や欲求に従った結果である点で正しく同様なのである。そうした点で佐々木は志賀の過去の分身であるのみならず、現在の彼の姿の投影である。だからこそ、佐々木に作者の年齢が重ね合わされ、その上で彼は罰せられているのではないか。

 漱石との関係性の中に、「佐々木の場合」を置いてみた時、それは正しく漱石に献じ、謝するに相応しい内容を備えた作品として読むことが出来るのである。


参考資料:志賀直哉「佐々木の場合」——漱石への献辞の意味——下岡友加(近代文学試論(44)27-35 2006年12月)

    志賀直哉/佐々木の場合(『黒潮』大6・6)

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?