夏目漱石 文学論(上)について 3/3

『文学論/夏目漱石』の要約をここに残します。また、氏の著書における著作権は消滅しています。

<第三編 文学的内容の特質>

 冒頭に於いて意識の意義を説き、一個人一瞬間の意識を検してその波動的性質を発見し、また一刻の意識には最も機敏なる頂点あるを示し、その鋭敏なる頂点を降りればその明暗強弱の度を減じて所謂識末なるものとなり、遂に微細なる識域以下の意識に移るものとなるを論じたり。そして吾人の一世はこの一刻一刻の連続に異ならなければ、その内容もまた不限刻の連続中に含まれる意識頂点の集合なるべきを信ず。

 以上はこれまでの総括であり自家一人の意識について書いたものだが、この世に人間は幾億人も存在することを考えれば、吾人の意識(焦点的意識の集合)は、一世の集合意識の一部分ともいえる。そしてこのこの一部分である個人意識のうち、大半は漠然たる近くであったり、新陳代謝の際に忘れられる分を除けば、実際に筆紙の上に現れるのは極少ない。

 この故に言語の能力(文章として表出する力)は、この無限の意識連鎖の内を此処彼処と意識的に、或いは無意識的に縫い拾っていると言っていい。

 さて又、吾人の意識に於いて優先されるFは他人にとっては大した事ではない可能性を知っておく必要がある(例えば音楽家と作家ではギターの見方が違うように)。個人の遺伝的傾向すなわち組織状態、あるいは個人の性質、教育、習慣、職業などが原因となって言語や文章に表れるFは異なるのである。これを名付けて『解釈の差異』と言う。


<第一章 文学的Fと科学的Fとの比較一凡>

⑴凡そ科学の目的とするところは叙述であり、説明でないことは明白である。還元すれば科学は"How"の疑問を解いても、"Why"を考えることはないのである。即ち科学とは一つの与えられた現象は如何にして生ずるのかを考える学問である。

 対して文学に於いては、この"How"の分子が無いわけではなく、科学のようにあらゆる方面に"How"を提起する必要が無い。文学は科学のように"How"を絶えず念頭に置く必要が無いのである。

 科学者のように全方面に"How"を考えれば文学者の文章は果てしなく伸びて、尽きることが無くなる。故に文芸家の文章は、その連鎖を随意に切り取る必要があり、とにかく断面的である。

⑵次に来るべき差異はその態度にある。科学者が事物に対する態度は全く解剖的である。すなわち破壊的にして、自然界に於いて完全形に存在するものを、細かに切り離して、その極地まで探求する。

 文学者の用いる解剖はというと、こちらは性格を解剖し、物象を描くものはその特徴を列挙する。その態度をとるに当たって、物の選択取捨を要することは勿論、文学的に必要な部分を引き立たせ、必要ならざる部分を後景に引き込める

 また科学者の態度は常に肉眼的で顕微鏡的なのに対して、文学者の態度は常に全体を見据えている。全体の内部に各部が存在し、その各部の全ては全局を構成し且つ助長する役割を持っている。

 では試しに幾つか例を見ていこう。

①p303より

 この例文は小説中の女性の容貌の如き鼻は何々、眼は何々と一々精細に叙述しているが、その結果を見れば、ただ朦朧な影が浮かぶのみで却って混乱をもたらす。これすなわち、各部の成功を計って全局の印象を後にしたる弊であり、失敗例である。

②p306より

 この沙翁の例文は極めて単簡に仕上がっているが、こちらは①とは逆で単簡過ぎてしまっている。それ故に遂に主人公の面影が浮かんでこないという失敗である。又抽象的言葉を使えば、この失敗を犯す可能性が高い。例:凄い顔、神々しい姿

③p315より

 このように総合的に一種纏まっている文章に於いては、そこから生まれる観念も同時に纏まり、一団の全精神となって印象に残る。又、全局にも色を加える事は無論である。

⑶次の差異は全局の捉え方にある。科学者は概念を伝えようとしているのに対し、文学者は観念を伝えようと尽力する。換言すれば前者は物の形と機械的組立を捉え、後者は物の生命と心持ちを捉える。されば物の本性が遺憾無く発揮せられて、一種の情緒を含むに至たる時はこれ即ち文学者の成功する時である。従って文学者が表そうと努める所は物の幻惑にして、躍如として生きているかのように写し出す事である。科学者は特製の目録に対して、文学者は物体の活動の実況である。

⑷次に注目すべきは科学者殊に物理学者が物質界の現象を時間、空間の関係に引き直さんとすることにして、その方便として彼らは自家特有の言語を使用する。その言語の主なるは所謂数字という記号である。

 なるほど科学は吾人が眼に映る色彩や温度をこの記号に置き換えるのが一種の原則であり常識であるが、それに対して文学者は記号(数字など)を使う時、無を有とし、暗きを明るきにする一方法として扱う。例えば、人々が歩いていると言うよりか、何万人の人々の往来、と書いた方が壮大の感を得られる。


<第二章 象徴法について>

 文学は抽象的概念を書き出すときにも記号を使う。しかしこれは数字ではなく、記号的形状としてである。かの画家wattsの傑作「希望」を観るに、形なく茫漠なる「希望」を記号的形状を使って具体化させたのは有名である。更に文学にあっても、捉え難き「恋」を表出するのに薔薇を使ったりする。

 しかし注意してもらいたいのは、凡そ文学に於ける象徴法はその記号が代表する意義を深く案じて導き出すのでは意味がなく、読者の感情を苦労なく自然と誘い出すことに意味がある。すなわち理屈詰めに薔薇を推論するのではなくて、感情的に連想させるのが大事なのである。又これは詩や俳句に於いても充分言い得る。

 科学者は感覚又は情緒と全く無縁なる独特の記号により事物を記述する、それに対して文学者は感情あるいは情緒を表す為に象徴法を用いるという差異である。


<第三章 文芸上の真と科学上の真>

 凡そ文学者の重んずべきは文芸上の真にして科学上の真にあらず。以下に科学に背く文芸上の真を幾つか列挙する。

誇大法(p340例文)

 この例文を見るに九千人の大音声も、一万人の怒号も決して科学的には考えられない現象であるが、これを文学上に見ると確かに想像が可能で感覚的に圧倒される。

選択法

 上来述べた通り、途切れる事の無い時間や行動を選択し、切り取るのは、科学の真に背くことである。

組み合わせ

 詩人・画家などの想像的創作物を指す。すなわち彼らが現実の世より集め得たる材料を統合して、この世に存在しないものを描写する手際。例とすれば怪物、ホラーなどが挙げられる。これらは科学的立脚地より見て不合理なるが、吾人がこれらより受ける感情、感覚は生命を有し偽りなきを以て、これらは完全なる文学上の真を具有するものとなる。

 されどこれらの所謂文芸上の真は時と共に推移するものなるを忘れるべからず。文学の作品にして今日は真なりと断定されていても、明日は急に真ならずと非難を受けるものは多い。これ凡て「真」なる物の標準刻々と変じつつあるに依拠する。


以上を以て『文学論(上)/夏目漱石』の解説を終わります。

参考文献

夏目漱石『文学論(上)』岩波文庫 2007年

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