近松門左衛門(2) 古浄瑠璃と近松との比較

1古浄瑠璃について


 浄瑠璃の起源については、古くから織田信長の侍女小野のお通が『浄瑠璃物語十二段』を書き、瀧野検校(又は勾当)が節付けしたに始まると思われて来たが、今日では信を置かない。信長の時代より遥に遡り、15世紀には語り始められたと思われる。浄瑠璃という名も、上の『浄瑠璃物語』から出たとするが通説である。ただし高野辰之・黒木勘蔵氏等は更に古く『やすだ物語』が存在して居たことを信じ、薬師如来の本縁を語る語り物を薬師に因む浄瑠璃の名で読んだとの説を唱えた。(薬師は浄瑠璃国土にあって、浄瑠璃光如来とも呼ばれる。)
浄瑠璃物語』が浄瑠璃の起りか否かは暫く起き、これが今日残る最も古い作品であることは間違いない。牛若が金買吉次に従い、奥州に下る途中、三河国矢矧の宿の長者の娘浄瑠璃姫と契り、別れて駿河国吹上の濱まで来て発病、吉次に捨てられる、姫は正八幡の霊夢により危急を知って駆けつけ看護した結果、牛若は回復、再び姫と別れて東下するという筋で、一種の悲恋物語である。牛若は教養豊かな貴公子だが、至って無力な存在で、神仏の縁語によって辛うじて救われる。人間の力を否定し、神仏を絶対視する思想が明瞭に現れている。姫は三河の国主源中納言の遺児であり、二百四十人の女房にかしずかれ、和歌・連歌・物語・管弦など、王朝時代の教養を残る所なく身につけている。此処には没落貴族の平安時代に対する追慕の念が窺われる。要するにこの物語は当然のことながら中世文学の性格が顕著であり、浄瑠璃がこの種の作品から出発したと事は、近世に入っても根強く残る結果を生む
 初期の浄瑠璃は主として座頭が琵琶や扇拍子に合わせて語った。盲人特有のものさびた声色で、単調な節をもって語ったに違いない。ところが十六世紀後半、琉球から蛇皮線が渡来し、改良されて三味線となり、やがて浄瑠璃の伴奏に用いられるようになった。三味線は近世を象徴するかの如き楽器であり、此処に浄瑠璃も面白を一新、近世の声曲として更生するに至ったと思われる。
 この頃浄瑠璃は人形とも提携し、此処に人形浄瑠璃が成立することになる。人形は平安時代には傀儡と称し、流浪の遊郭人の手で操られた。その子孫は定住するようになったが、西宮の夷(えびす)神社附近がその中心地で、夷舁(えびすかき)・夷まわしなどと呼ばれ近畿地方を巡業した。十六世紀後半には上覧に供するまでに進歩し、浄瑠璃とも結ばれるに至った。秀吉在世中、すでに京都には人形浄瑠璃の芝居小屋が設けらたという。単に語り、聞くものだった浄瑠璃に観覧物の要素が加わったのは、目覚ましい発展だった。
 
なお浄瑠璃と同種のものに説経があった。初めは簓(ささら)をすりなどしながら語り、仏道の布教に利用せられたが、後これも三味線・人形と提携した。その性質上仏菩薩の縁起などを説いた曲が多く、浄瑠璃と語り物の交流も行われ、相影響するところが少なかった。しかし仏教臭が強すぎて浄瑠璃に対抗を得ず、寛文(1660年代)を過ぎるとやがて衰退していったのである。
 浄瑠璃は説経のほか、戦記物語・御伽草紙・謡曲・舞の本などからも栄養を摂取し、徐々に成長していった。二三の作品を挙げれば、『阿弥陀胸割』は慶長十九年(1614)の刊記のある正本があり、最も古いものに属する。天姫が亡き父母の罪障消滅のため自分の生き肝を主人に献じ、その代償に金色堂を建立しようとするが、阿弥陀が身代わりに立つという筋で、説経が元かとも思われる作。この種のものを本地物と呼びえる。別に義経記・曾我物語・舞の本などに原拠を有するものは武勇物と言える。後に述べる公平浄瑠璃もこの中に含められる。頼光の死後、綱・金時などの四天王が頼光の子である頼親を討ち、弟頼信を跡目に立てることを仕組んだ『頼光跡目論』など、武勇物の中でも著名である。外に現代物と称し得るものがある。寛永十四年(1637)刊『安口(あぐち)』同『むらまつ』などがそれで、家国横領・復讐・恋愛などを扱い、比較的に興味も豊かに、発展性に富む作品が多い。この種の作も例えば謡曲の『鳥追舟』『藤永』・舞の本の『信田』・お伽草子の『まんじゆのまへ』などの系列に立っており、必ずしも全く新しい素材を用いたとは言えない。『安口』は、安口判官が上洛中、兵部大夫に調伏されて死に、家を横領されたが、遺児しげふさが復讐する筋。又『むらまつ』は、村松の娘が中納言と契ったが、中納言は任期が満ちても都へ帰らなかったため流罪となり、自らは曾我四郎の魔の手を逃れて流浪、結局中納言は罪を許され姫と再会、曾我を討つという筋である。
 これら初期の浄瑠璃は語り物としても人形劇としても至って素朴幼稚な段階に止まっており、上方よりは文化の程度の低い江戸の方で歓迎せられた。上方では能・狂言・歌舞伎などに対抗し得なかったのであろう。江戸で浄瑠璃を広めた最初の功労者として薩摩浮雲の名が現れたが、その門下の桜井丹波は公平(きんぴら)浄瑠璃で名を売った。「親丹波毎日岩を叩きわり」という句が残っているが、超人的な勇士坂田公平を主人公とし、縦横無尽の活躍を語り出したのである。荒唐無稽と評すべきものだったが、中性的な暗さを脱し、溌剌たる町人階級勃興の意気を反映した点に注意すべきである。
 公平浄瑠璃が江戸に流行したのは寛文頃(1660年代)であったが、もうその頃には浄瑠璃の中心は上方に移って居た。上方町人の鑑賞に堪えるまでに進歩したことを示すと思う。虎屋源太夫・井上範馬掾・山本角太夫・宇治加賀掾など、聞えた太夫が今日に輩出したのは、先に述べた通り京都が都市として特に繁栄して居た故だろう。それら多くの太夫の中にあって、漸く頭角を表したのは竹本義太夫であった。彼は貞享(じょうきょう)元年(1684)大阪道頓堀に櫓を挙げた。これが竹本座の発祥で、以後長く浄瑠璃界の王座を占めることになる。浄瑠璃史は此処に時期を定め、これ以前を古浄瑠璃、以後を新浄瑠璃と読んで区別する。近松は前から京の宇治加賀掾に浄瑠璃を書いて居たが、貞享三年に義太夫と提携した。
 なお浄瑠璃にはおびただしい数の流派があり、普通その節を語り出した太夫の名を取って、何何節と呼んでいる。宇治加賀掾の節を加賀節、大薩摩主膳太夫のを大薩摩節、十寸見河東(ますみかとう)のを河東節、常磐津文字太夫のを常磐津節、鶴賀新内のを新内節と呼ぶ類である。常磐津・新内と言うように「節」を省略する場合も多い。義太夫節は今日まですでに二世規半にわたり、浄瑠璃の諸派の中でも最も強大な勢力を張って来たために、浄瑠璃と言うとすぐ義太夫節を指す場合もあり得る。今日人形浄瑠璃という時の浄瑠璃も、普通は義太夫節を指している。

2近松の浄瑠璃

 以上に瞥見した古浄瑠璃と比較して、新浄瑠璃の先頭に立つ近松の浄瑠璃はどんな性格を持つか、幾つかの角度から考察してみよう。

①思想面

まず思想面から考える。『浄瑠璃物語』に現れて居たような人間否定・神仏絶対視・旧文化に対する憧憬などの精神、これらは近世を通じてあるいは濃くあるいは薄く投影しているのであって、近松の作品もかかる中世的思想から脱却し得てはいない。進駐して来世の幸福を希求する如き、当時にあっては案外強い共感が得られたかと思われる。しかし近松の作品では、それよりも近世的な武家思想が重みを加えていることに注意せられる。町人にしても文化の方面では十分成熟して居ない以上は、武家の倫理・道徳・思想が借り受ける外なかった。『生玉心中』の五兵衛は「二本差すを侍、一本差せば町人とばかり思ふか、うつけ者。大小はこの胸にある。武士に劣らぬ五兵衛と今日まで人に笑われぬ」云々と言っているが、町人でも武士に変わらぬ根性を持つことを誇りとしている。町人独自の精神なり思想なりは、まだ持ち合わせなかったのである。かくて武家倫理から割り出された義理が重んぜられる。それは必ずしも上から押し付けられたものでは無く、町人が生ていく上に何かの基準なり目標なりを求めた結果尋ね当てたものと見ても良いと思う。義理は町人にとって厭うべく反発するべきものでは無く、むしろ進んで遵奉し実践すべきものであった。彼等の人間的欲求により存するものだった。ただそれは生活の進展と歩調を揃え、日々に新たなものに進化すべきものだった。近松時代の実践倫理たる義理は、元々が借物であり、町人の身にピタリと合う様には仕立てられて居なかった。当然のこと、町人は好んで義理を纏いながら、身を締め付けられる苦しみに悩んだ。その苦悩を強調し訴えるところに近松の戯曲の重要な狙いがあったと言える。古くから「義理人情の葛藤」と評せられたものである。近松以後の浄瑠璃も、多くがこれをテーマとして成立することになる。
 義理は当時から既に人間に必ずしも幸福をもたらさない矛盾を含んでいた。今日ではいよいよ実践倫理としての価値を減じつつある。自然、義理をしんに置いた浄瑠璃は、現代人に訴える力を失おうとして居る。ただ近松の浄瑠璃は、その中にあっては、まだしも義理が形式的に扱われず、人間性と接点を保って居る点に注意すべきである。ここには詳細を省くが、『丹波与作侍夜の小室節』の渋谷井にしても『伽羅(めいぼく)先代萩』の政岡とは違う。『冥途の飛脚』の孫右衛門も後に書き換えられた孫右衛門とは異なる。

②戯曲としての構造

 第二に戯曲としての構造の方面を見る。古浄瑠璃は多く八段から成る。長編の戯曲は大体三幕もしくは五幕の形式を取るのが普通で、これは特殊な例に属する。しかしその特殊性は必ずしも戯曲構造の必然の要求に基づいてはいなかった。所も変わらず、時も事も続いて居るのに、構わず途中に段落を置く様な場合が折々見出される事によっても、六段組織が戯曲構造と深い関わりを持たなかった事が知れよう。まだ構造の方面への関心も薄く、至極無頓着に捌いて居たのである。ところが近松の時代物になると、長編戯曲の標準型の五段組織を取ることになる。特に三段目切と四段目切に重点を置いて、それに対照的な興味を求めるところにまで進んで来る。戯曲構造についてはっきりした意識が生じた結果である。段数の問題に限らず、古浄瑠璃の持つ平坦な物語文学性から脱却して、漸く起伏に富み、首尾の整った戯曲へと成長したのである。
 ただし近松の浄瑠璃は、まだ人形劇の脚本として頂点にまでは達して居ない。その方面の十分な発達は彼の没後に残された仕事で、竹田出雲・文耕堂・並木宗輔・近松半二等後継者の手で達成されたのである。
 これはある程度、人形の進歩とも考え合わせられる。人形の方は、新浄瑠璃の時代に入っても目立った変化は示さなかったと思われる。従来通り人形の裾から手を入れて、高く掲げて操る一人遣いで、——竹本座と並び立った豊竹座の方は、同じ一人遣いでも帯の辺りから手を入れて遣ったろうと、石割松太郎氏は推測された——人形の目や口が開閉したり、五指や指先が屈伸したり、眉が動いたりしたのは、全て近松の死後のことであった。三人遣いの始まったのは元禄かそれ以前にも遡るが、それが常識になったのは享保(きょうほう)末だったろう。今日の文楽座の舞台に見るように、床を上手に斜めに設けたのも享保十三年からと考えられ、それ以前は正面奥の御簾内で語るのを常としたところを見ると、舞台装置も至極簡単なものであったろう。すべての点で人形が軽く扱われて居たのである。太夫の座る位置だけから考えても、今日と比較して人形より浄瑠璃に重みが掛けられ、人形劇より語り物としての性格が強く出て居たと見られるのである。
 こう述べてみると、人形劇としての進歩は近松の没後の事で、近松時代は古浄瑠璃時代と何等変わらなかったの如くであるが、一概にそうとも限らない。辰松八郎兵衛の如き人形遣いの名手が現れ、出遣いと称して観客の面前に出て人形を遣って見せたりしたのは、既に操りの技術も進み、人形遣いにも人気が集まり始めた証拠である。近松の時代は、ちょうど人形劇として発展しようとする途上にあった。これは近松の作品を読む場合に忘れてならぬ事だと思う。

③近松の事実性

 第三には近松の事実性について考えておこう。古浄瑠璃が概して事の推移に興味を欠け、ややともすれば架空的に流れ、しばしば荒唐無稽に陥ったのに対し、近松が浄瑠璃に事実感を盛り込んだ点は甚だ重要である。彼が世話物を頻りに書き出したのも事実の方向へ進んだ結果に他ならないし、時代物に於いてさえ、例えば郭場(くるわば)など、近世の遊郭を書くことが多い。世話物の半数を占める心中物にしても、単なる悲恋物語に終わらず、金の問題を多くからませるなど、固より町人生活の現実に即した態度を示すのである。既に中世的現世否定の精神から脱し、人間なり現実なりを肯定する方向に転じて、事実を意義あるものとして扱う時代になって居た。所謂元禄リアリズムの波が高く打ち寄せて居たのである。西鶴に始まる浮世草子・芭蕉を中心とする芭蕉俳諧、いずれもこの風潮に乗って居た。近松の作品も固より同じコースを辿って居たのである。
 しかし近代的な現実主義は封建社会に於いては遂に徹底し得ない。元禄リアリズムは厳密な意味での現実主義まで到達せずに終わった。近松の作品にしても、古浄瑠璃などとの比較において明瞭になるので、無条件に現実主義のレッテルを貼る事はできない。元々人形浄瑠璃は、例えば小説のように現実的では有り得ず、その点歌舞伎と比較してさえ非現実的である。近松の浄瑠璃も現実の人間をしっかりと見据え、人間的なものを生き生きと表現する姿勢を示しては居るものの、その事実には越え難い限界のあった事を知らねばならない。

④抒情性

 第四に抒情性を問題とする。『難波土産』に「文句は情をもととすべし。」と見えるように、情に訴えるのが近松の最高の目標だった。古浄瑠璃とて一概に人情を無視しては居ない。しかしそれは平安時代の『もののあはれ』の形骸化した中世的悲哀・感傷の外に出なかった。いわば生活から遊離した悲哀の世界を形成したものだった。そう言う哀感をよそにすれば、あとは殆ど無味乾燥な味気なさを覚えさせるのみである。近松とても鑑賞に堕する場合も決してないわけではない。が概して現実と密着した、生き生きとした感情の世界に導いてくれる。その豊かな抒情性は近松文学の一大特質で、彼が劇詩人の名で呼ばれるのも故なしとしない。
 近松の偉大さは、豊かな情味を漂わせながらそれに溺れなかった。現実をしっかりと踏まえ、その上に立っての抒情性で、情に押し流されない確たる根底があったのである。同じく現実を凝視しても、西鶴は小説作家らしく最後まで冷たい理知の眼を光らせて、知的に処理しようとする。近松の眼はより温かい。知性よりは感性が働く。批判よりは共感に傾く。かくて近松の豊かな愛情も随所に流露する。西鶴と比べて近松は情の人だった、詩人だったと言って良い。
 同じく詩人で、芭蕉は卑近な日常生活の中に美を見出したが、それは主として自然もしくは田園生活の中から求めたものだった。それに対して近松は人事もしくは都会生活の中に詩趣を発見し、珠玉の文字を以て美しい情緒を醸し出して居る場合にしばしば出会う。『冥途の飛脚』中之巻や『心中天の綱島』上之巻の冒頭の一節の如き、その適例である。その場その場の情緒を漂わせ、その中に身を置く思いを抱かせて、浄瑠璃の進むと共に自ずからなる共感を誘うのである。
 今日の時代では、どちらかと言えば感性よりは知性が重んぜられて居る。その点で近松は必ずしも西鶴程迎えられないのかも知れぬ。しかし文学が芸術である以上、終局においては如何に感性に訴えるかが問題でなければならない。読後冥想を強いるよりは、感動をもたらすのが文学の本道だと思う。近松を読む場合にも、単に批判的な冷厳な目をのみ光らせ、あるいは何か深遠な思想を得ようとしてかかると失望するであろう。豊かな情の世界に遊ぶ心も必要だと思う。

⑤修辞

 第五に修辞の問題を取り上げる。『難波土産』の近松の言説も修辞に関するものが多い。「昔の浄瑠璃は今の祭文同然にて花にも現実なきものなりしを、某出て……作文せしより、文句に心を用いる事、昔に変わりて一等高く、」云々とも述べて居る。古浄瑠璃が「さてもそののち」に始まり、「めでたしともなかなか申すばかりはなかりけり。」「流涕こがれ泣き給ふ。」の紋切型で固めたのとは雲泥の差である。既に述べた通り、生き生きとした感情を盛り込む近松が、こう言う固定した古めかしい表現に満足する筈もない。近松の妙文はその在世当時から認められて居たが、それが単に持って生まれた才能の一つと言うだけの意味に止まるならば、特に論ずるに足りない。その事実性や抒情性と結んで考えられる故に重要さがあると思う。
 なおその妙文は道行などの場合に特に賞嘆を博し、事実近松にしても全力を傾注したに相違ないのだが、今日見れば修辞上の技巧に走り過ぎた弊も覆い難い。その妙味は何気なく書き下ろしたように見える部分に却って津々たるものがあると思う。

3最後に

 以上に5方面から古浄瑠璃に対比した近松の浄瑠璃の特質を考えてみたが、かかる画期的な前進が民衆の協調を伴って初めて可能になった事は否めない。人形浄瑠璃は最も民衆的な、社会の低い層を対象とする観覧物と言われており、そう言う人々の向上が浄瑠璃の発展を促したとも見られる。が又一方では、いくら民衆の教養の程度が高まったにしても、相当に難解な近松の名文句が、そう易々と受け入れられたかどうか、疑問なきを得ない。先に浄瑠璃流行の中心が江戸から上方へ移ったのは、浄瑠璃が進歩した結果、文化の方面で優先した上方人にも歓迎される線にまで到達した故であろうとの意味を述べたが、ここでも同様な解釈を下したいと思う。即ち近松時代の浄瑠璃は必ずしも低い層の民衆だけを目標としておらず、既に相当の教養を持った町人層までが愛好する線にまで進出して居た、むしろこの方が重要なのではなかったかと考える。無論今日の人形浄瑠璃の如く、民衆とは殆ど無縁に、一部の知識階級や好事家の支持を受けるのみの存在ではなかっただろうか。
 さて近松の浄瑠璃の特質を主として古浄瑠璃と対比して考察したのは、これにより近松の果たした史的役割を知るためでもあった。かかる特質の外に、近松が人形浄瑠璃の伝統を多分に受け継いでおり、これも根本的な性格を為して居る事は改めて断るまでもない。むしろそうした伝統の基盤に立って先に述べたような新しい芽を伸ばして行ったと言う方が良いかも知れぬ。ところでその受け継いだ伝統とはいかなるものであったか。これは人形浄瑠璃の本質とも繋がるので、簡単に言うのは難しいが、近松を考える場合、やはり等閑視できない問題である。この点を無視した近松浄瑠璃論は無意味だとさえ言える。
 例えば象徴性の問題がある。人間を表現するに人間を用いず、事さらに魂のない人形を使って間接もしくは暗示的手法を取る。これは迂遠な道のようだが、人間が一度濾過されて、より純粋な形で——現在の人間以上に純粋な人間の姿で現れることにもなる。それは名手によって描かれた薔薇なら薔薇が、本物以上に薔薇の美しさを誇示する場合と等しい。『難波土産』の中に、近松は実際には女の口から言えないことも浄瑠璃では言わせると言って居るが、これは人形浄瑠璃では当然の方法だとも見られる。或る面は「おほまか」に扱うことにより、他の反面を誇張し、強調する方法も取る。それが事実以上の事実を表現する結果を齎すのである。
 こう言う人形劇の性格から、現在の生活よりは観衆の夢の中にある過去の世界を取ることが好適になる。自由に想像の翼を広げ得る架空の世界、それが人形劇の本領である。今日の人形浄瑠璃では、世話物と言っても遠い昔の夢の世界のものであるが、それが書き下された時代においては、我々の受け取り方とは違って、かなり生々しさを覚えさせたであろう。これはやはり人形劇の本道を行くものではなかった。今日では事実性に富み、しかも夢の世界のものになった世話物の方を高く評価するが、江戸時代の人形浄瑠璃では超現実性の豊かな時代物を主に立てたのに不思議はない。
 人形の頭が幾種類かに限られ、従って登場人物はごく大雑把な類型を示すに止まると言う人形劇の一つの問題も、上の象徴性と絡んで考えねばなるまい。能面においても同様のことが言えると思うが、それは象徴の道を通して人間を表現するのである。近松の浄瑠璃を読んでも、人間の個性は十分に現れて居ない。これは封建時代の作品としては当然のことで有り、又人形劇の脚本としてもそうある筈なのである。しかし人形を通して表現された「人間」は、意外に生き生きと精彩を浴び得る事を知らねばならないと思う。
 人形浄瑠璃の一つの性格としての娯楽性もやはり問題になるであろう。『難波主義』の言葉の中でも、近松は「慰みに」なる、ならぬを問題にして居るが、「慰み」が人形浄瑠璃の大きな目標になって居た。常に生活苦に喘いでいる民衆を相手の興行物では、これも当然のことだったと思う。それにしても近松が人間的な感動によって慰みを与えようとした態度は高く評価されて良いと思う。今日の映画にしても娯楽性は必要だが、一般的に見てその狙いは近松の作と比較していかがであろう。あまりにも低きにすぎる事はないのであろうか。それを思うと、近松の前に頭が下がるのではないか。

参考文献: 『近松集/大久保忠国』(昭33)

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