二葉亭四迷(6) 長谷川辰之助の人生総覧2/4

  この記事は長谷川辰之助(二葉亭四迷)の人生のポイントを抑えてまとめた記事である。また、参考資料は『二葉亭四迷:くたばってしまえ(ミネルヴァ日本評伝選)』としている。また、第二章は二葉亭四迷として生きた<文学>の章であり、各々の作品紹介にて紹介するとする。

<第三章 実業の世界へ>

・文学の道を外れる

 二葉亭は東京外国語学校を持ち前の潔癖さから飛び出した。そうして今度は読書界からは概ね好意的に受け入れられたにもかかわらず、その出来に絶望してしまう。その結果、捜索を続ける事が出来ないと感じ、文学の道を捨てようと決意する。

「余のかう悶へ苦しむは小説を作らむとはおもへとも材足らすして意に任せぬより起りしなるべし」(「落葉のはきよせ 二籠め」第五巻九八頁)

 退学はしたものの、文筆稼業もままならず、ただちに家計の困難が生じてくるのである。

「学校を出しよりこのかた一日として心の霽るる事なければたのしとおもひたる事もなし」(同九七頁)

 彼の経済的困難の主因は、両親の面倒を見なければならない点にあった。丁度申し合わせたかの様に、辰之助の前年、福島県庁で租税課に勤務していた父吉数が非職になって帰京していた。「落葉のはきよせ」では続けて彼の其頃の針の筵に座る様な生活の様を書き出しているが今回は省略する。

・内閣官報局へ

 生活に困窮した二葉亭は外国語学校の恩師である吉川常一郎に就職の斡旋を依頼した結果、明治二十二年八月十九日、吉川自身が勤務していた内閣官報局の雇員として迎えられた。

 内閣官報局は官庁であったにもかかわらず局長の高橋健三を中心として一種の梁山泊の観を呈していた。彼の周りに吉川常一郎、嵯峨寿安など、様々な専門のユニークな人材が蝟集し、常に談論風発の雰囲気であったという。

*嵯峨寿安...大村益次郎に砲術を学んだ後、郷里の金沢に戻り藩校壮猶館で傭兵教授をしていたところ、ロシアが日本にとっての脅威であると考え、ロシア渡航を企てる。これには失敗するが、箱館にニコライを訪れ、ロシア語の研鑽をつむ。ついに明治二年、藩から選抜されロシア留学が可能になるが、敢えてシベリア経由で入露を試み、明治四年、日本人として初めて単独でシベリアを横断したことで知られる。

 こうした一癖も二癖もあるロシア通たちが集ってた、二葉亭にとってはのびのび振る舞えたであろう環境の中で、自分が一番したい仕事であったロシア研究に打ち込んだのである。というのも、彼の仕事の内容は英字及び露字新聞から重要と思われる記事を選び出し、翻訳することにあったからである。

・副業

 この仕事は比較的に負担の軽い物であった様で、二葉亭はいろいろな「副業」にも手を出した。

 一つは「人生研究」である。下層社会に対する興味は、ドブロリューボフら革命派の文芸思潮を早くから熟読していたことからも来ているのだろうし、そもそも十九世紀のロシア文学の古典を読むに際しても、社会主義や階級差別の問題はそれ等に対してどの様な立場を取ろうと避けることの出来ないものだった。また、平民研究についても、松原岩五郎、木下尚江、横山源之助等に大きな影響を与えたと言われている。 

 内田魯庵等が二葉亭の奇妙なフィールド・ワークについて証言を残している。

学者の畑水練は何の役にも立たぬからと、実際に人事の紛糾に触れて人生を味はうとし、此好奇心に煽られて屢々社会の暗黒面に出入した。(......)奇妙な風体をして——例へば洋服の上に羽織を引掛けて肩から瓢箪を提げるといふやうな変梃な扮装をして田舎の達磨茶屋を遊び廻ったり、印半纏に弥蔵をきめ込んで職人の仲間へ入ってみたりした。(......)殊に其頃は好んで下層社会に出入し、旅行をする時も立派な旅館よりは商人宿や達磨茶屋に泊まったり、東京にいても居酒屋や屋台店に飛び込んで八さん熊さんと列んで醤油樽に腰を掛けて酒盃の献酬をしたりして、人間の美しい天真はお化粧をして綾羅に包まれている高等社会には決して現れないで、垢面襤褸の下層者に却って真のヒューマニティを見る事が出来ると言っていた。(『思い出す人々』三二三-三二四頁)

  そして一種の放蕩生活が始まる。

「二葉亭の生活は、後の或る時代の社会主義思想に憑かれた純潔な青年達と違って、あまり禁欲的なものでなく、他所目には、身勝手な放蕩児と言われても仕方ないものでした」(中村光夫『二葉亭四迷伝』一七八頁)

  明治二十三年秋頃からは両親の家も出て、あちこちに下宿する様になるが、中村は「両親の承諾を得ずに同棲するやうな女性関係ができたためと思われます」(同一七八頁)と書いている。翌年の十二月には神田東紺屋町の福井と言う男に転がり込むが、これが最初の妻の福井つねの実家である。

 つねについて分かるところは少ないが、中村は、「所謂素人ではなかった」(一八一頁)、しかも、かなり低級の玄人ではなかったかと推察している。つねとの間にはやがて長男玄太郎、そして長女せつが生まれる。しかし、二葉亭とつねの夫婦仲は円満なものではなかった様である。蘆庵によればその原因は「夫妻の身分教養が著しく懸隔して、互いに相理解し相融通するには余りに距離がありすぎた」からだと言う。また、夫婦揃って経済的観念がなく、生活が破綻していったことも背景にある様である。蘆庵が日記に、二葉亭の最初の結婚生活について書いていて、柳田泉が引用しているが、それによると、つねは二葉亭が役所に出勤する為の着物から、子供の着物に至るまで、毎月毎月、質に入れてしまい、二葉亭を困らせたと言う。そして結局、冷たい、経済的にも立ち行かれない夫婦関係の帰結は、つねが他人の子を身籠ると言う事態にまで発展し、夫婦別れをするしかないと言うことになった。「つねの不始末の一件両親にすっかり分りをり候、これにて小生も迷の雲始て晴れ断然せつを引離しつねを杉野の方へ預けることに決心」したのである(明治三十一年、坪内逍遥宛書簡)


お断り 『二葉亭四迷の人生総覧』であるが、執筆するのを止める事にした。理由としては、新しい大学生活が始まり多忙になると予想されるのと同時に、長谷川辰之助の人生をまとめたところで、実際得られるものが少ないからである。こんな事をするならば、本の一冊でも読んだ方が自分の身のためになると悟ったからである。故に、この記事は残りの大半の残して、ここで辞させて貰う。


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