岩波講座(1) 古代歌謡の重要性

 我々が古代歌謡を読む。かつては口承されたもの、そして永い年月の後に、言葉を書き記す力を勝ち得た人間によってもじに定着されたもの、それを十数世紀すら隔てて今日の現在に生きて動いている個人の、我々一人一人が読む。我々は自分の意識と肉体に、音楽に似たものが動き始めるのを自覚する。言葉そのものが音楽であり、音楽そのものが言葉であるような境界での、ある音楽に似たもの。それは自分の肉体の内部で動いている生命の感覚、しかも血の運動のようにリズムのある動きをしている生命の感覚とも似たものである。その古代歌謡のうちに我々の生命が投影して、そこに動きの場を見出すようであり、逆に古代歌謡が、我々の意識と肉体のうちに、新しくもう一つの生命の感覚を喚起しているようである。そしてそれら二つの方向性を持った内部の感覚は、ついに同一のものであるようにも感じられる。
 古代歌謡を読む事、ただその事のみによって、このように意識と肉体の動いている経験が、現在に生きているこの我々自身に獲得されるのである。古代歌謡は、死んだ契機として矢尻のようにあるのではない。それとは逆に、もっと新しい詩歌も、ただそれが紙に印刷されたまま机辺にあって、人間が彼の意識と肉体をそこに参加せしめぬ時、すなわち我々がそれを真に読まぬ時、それは発掘されず埋もれている矢尻よりも、もっと徹底的に死んだ遺物である。
 言うまでもなくそれぞれの共同体の古代歌謡を彼等自身で作り出した古代の人間たちの、その共同体の中で一人一人の意識と肉体に生きて動いていた音楽・宇宙・世界・社会の感覚、生命感と自然な死への予感とが、現代に生きている人間の意識と肉体に古代歌謡が改めて生動せしめるそれらと同一のものであるとする根拠はありはしない。
 一々の古代歌謡が、それを作り出した古代人によってどのようなリズム・抑揚・スピードで肉声化されたか? 我々はそれを厳密に想像することができない。テレビ放映される御歌会始の短歌の肉声化すらが、一般に自分の意識と肉体に生きて動くものとして我々が確かめている短歌のリズム、抑揚、スピードとは全く異質のものだ。
 ある古代歌謡の言葉の一々の意味そのものを、我々は自分が古代人のそれと同一の意味を、自分の意識と肉体に、今現実化させうると自信を持って言うことはできない。柳田邦夫は日本人の色彩感覚の、相対的に短い期間に於ける徹底的な変化について述べている。我々の古代人が『白』と言う言葉の意味として現実化させたものの総体と、現在の我々が『白』と言う言葉によって呼び起こされるものの全体とを、どうして同一のものとして重ね合わすことが出来ようか。ましてや、その『白』と言う言葉が、古代人の想像力に対してどのような喚起力を持ったかと言うことを、同じ言葉が我々の想像力に喚起するものを通じて直接に把握することなど、一体どの範囲まで可能だと我々に言えるだろうか。

海が行けば 腰泥む(こしなづむ)
大河原の 植草
海がは いさよふ

死んだ倭建の命が八尋白智鳥になって天に昇り、浜に向かう。后また御子たちが泣くなく追って行く。その泣く声がそのまま歌となったようなこの歌謡を以て、もし『記紀歌謡』を代表させるとすれば、言うまでもなくそれは乱暴な話であろう。ただ僕は専門家でない一人の現代の読み手としてこの古代歌謡を読む。そして自分の意識と肉体の動いている経験として、真に償いがたい死への、哀れに小さい人間の、しかも大きい悲しみに浸される経験をする。具体的な肉体の運動と魂の渇望の実感において、腰泥むと言う言葉は人々の内部に生きてくる。大河原の植草、それは比喩を超えて実際的に眼の前に苦しげに揺らいで見え、かつその草は他ならぬ自分の意識と肉体のようである。そして海、一般の人間には乗り越えがたい極大の障壁としての海。そして自分の意識と肉体の動いている経験の通路によって、想像力の領域に生きて動き始めるのを見出す。この古代人の意識と肉体の経験としての海は、暗く凶々しく巨大であって、凡そ人間的なものを全て拒む海である。しかもその海の前に小さく存在して悲しむ人々の悲しみ、また彼等によって悲しまれる死自体が、この海のあり方によって、より人間的に深いものと刻みあげられてくる。そのような古代人の意識と肉体の経験そのものとしての海。
 このように海を見て、このように海を捉えた古代人は、たとえ或日彼が海に漁る人間の歓喜に燃えたって歌う声を上げたとしても、もう一つ別の共同体の古代歌謡を歌う、あの古代人と同じ響きにおいて海を歌いうる事は無かったに違いないと考えられ、感じられる。むしろ確実な経験に立ってのように、それらの二つの異なった共同体の古代歌謡は、別々の受け取り方ができる。そのもう一つを引用しよう。

一節
神加那志(かみがなし) 神清ら
煽る 漕がせや もどる
雲は 来遣り
金島(こがねしま) 走ちへおわちへ
又 のろ加那志 のろ清ら
又 朝凪れが し居れば
又 夕凪れが し居れば
又 板清らは 押し浮けて
又 棚清らは 押し浮けて
又 船子 選で 乗せて
又 手舵 選で 乗せて

 日本思想体系本『おもろさうし』の註釈に導かれて、神加那志・のろ加那志が神女様と言う事であり、神清ら・のろ清らが、美しい神女と言う事であるのをまず理解しよう。もどる・板清ら・棚清らは、共に船の美称であることも学ぼう。第一節に、又と冠せられた繰り返しの一節が置き換えられて改めて、『二節』、『三節』、『四節』へと続くのが、このおもろの歌い方である。
*おもろ…沖縄の古い歌謡
 そしてこのおもろは『あけしのが節』と言う歌の節に於いて歌われたのであるが、固より現代人はその歌の節を知ることが出来ない。しかし、繰り返しこの古代歌謡を読む事によって、自らの意識と肉体に動いている経験として広がってくる世界は、生き生きと清朗であり、ダイナミックであり、新鮮な歓喜に満ちている。雲が動く、美しい島へ迫る船の速さ、その実際に動く船の速さに身を託しながら、美しい神女に向けて、海辺に生きる数多き人々と共に声を張り唱和している感覚。それはそのまま、そのように唱和する古代人たちの意識と肉体を蘇らせ、彼等のうちに生きて動いている音楽・宇宙・世界・社会への感覚、生命感と自然な死への予感を、自分もまたあわせて経験していると言う、想像力的な確信に導いて行くものである。


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