夏目漱石(1) 「二百十日」についての感想及び考察1/2

 「二百十日」は明治三十九年十月「中央公論」に掲載された作品である。その執筆前、漱石は次のような書簡を書いている。

中央公論は何を書いたものやら時間がなさそうだ。是で子供の病気が悪ければ僕は何も出来ない。中央公論には飛んだ不義理が出来る(明治三十九年、高浜虚子宛書簡)

 ここで言う「子供の病気」とは、漱石の三女栄子の赤痢の事である。赤痢は「二百十日」作中においても「是で赤痢にでも罹れば」と登場している。そこからいっても、漱石が「二百十日」執筆中、「子供の病気」である赤痢を意識していた事は明らかであり、それが漱石の執筆状況に何らかの影響を与えた可能性は高い。そして、その環境の中、書いた「二百十日」を漱石は以下のように言う。

二百十日はかねての約束にて不得已執筆夫故可成骨の折れぬ様会話に致し候あれを例の流儀で長くかいたら依然として冗長なものになり可申か呵々(明治三十九年、大谷饒石宛書簡)

 漱石は「二百十日」を「かねての約束」故に「不得已」書き、「骨の折れぬ様会話」の多い形式にしたとある。また、仮に「二百十日」を普段通りの「流儀」で執筆したとすれば「冗長なもの」になったであろうと言う。そこから、先に挙げた「子供の病気」が、やはり漱石の執筆に影響を与え、その結果、出来上がりを漱石の本来の構想とは異なる形に変えている事がわかる。事実、漱石はこうも書いている。

拝啓先日来御約束の小説どうにかかうにかかき上げ候。まことに杜撰の作にてお恥ずかしき限りなれど謝って違約をしては大変な御迷惑になる事といい加減にかき了り申候四五十枚との御約束の処とうとう六十五枚程になり候是もお許し被下度候(明治三十九年、滝田橒陰宛書簡)

 ここで漱石は「二百十日」を、「杜撰の作」、「いい加減にかき了り」と表現している。これは先の「不得已執筆夫故可成骨の折れぬ様会話に致し候」と同義と言える。また「四五十枚との御約束の処とうとう六十五枚程になり候」の部分は、先の「あれを例の流儀で長く書いたら依然として冗長なもの」となったであろうとしていた構想が、「骨の折れぬ様会話」にしても尚、規程の枚数には留めておけなかったことを示している。それは漱石が「二百十日」に対し、完成した今ある「二百十日」の額面以上の思いを持っていたことを匂わせると同時に、どのようにかして、その今ある「二百十日」の中にも、元来の構想を込められないかと奮闘した事を感じさせる。そうでもないのなら漱石が「二百十日」に対し、以下のような希望を持つ筈がない。

東洋城のオバサンが二百十日をほめたさうだがら面白い。僕は人の攻撃をいくらでもきくが大概採用しない事にしました。其代わりほめた所は何でも採用すると言う憲法です。(中略)僕は十年計画で敵を倒す積りだったが近年是程短気な事はないと思って百年計画にあらためました。百年計画なら大丈夫誰が出て来ても負けません。(明治三十九年、高浜虚子宛書簡)

 漱石は「二百十日」を「ほめた」意見がある事を告げ、それを介して、自らの計画を「十年」から「百年」に改めるとしている。そこからは、「二百十日」の価値を世間が認める日を気長に待とうとする漱石の様子が見て取れないだろうか。漱石は「不得已執筆」し、「杜撰」となった「二百十日」に対しても、確かに価値を見出していたのである。それは「骨の折れぬ様会話」に改めた短い文章の中に、漱石が本来の構想を形を変えて表現した事実を推測される。漱石は今ある「二百十日」を、「冗長」な思いを集約した言葉を用いて執筆したのではないであろうか。

 そこでこれから、今ある「二百十日」から窺える、漱石が抱いていた構想の片鱗を探っていこうと思う。

<その一 鍛冶屋>

 では先ず、「鍛冶屋」の初登場場面を抜き出していく。

「夫から鍛冶屋の前で、馬の沓を替える所を見て来たが実に巧みなものだね」  「どうも寺丈にしては、ちと、時間が長過ぎると思った。馬の沓がそんなに珍しいかい」                                  「珍しくなくっても、見たのさ。君、あれに使う道具が幾通りあると思う」   「幾通りあるかな」                            「あてて見給へ」                             「あてなくっても好いから教えるさ」                    「何でも七つ許りある」                          「そんなにあるかい、何と何だい」                     (以下略)

 圭さんは「鍛冶屋」の作業を事細かに観察しており、「かう云う山の中の鍛冶屋は第一、音から違う」と評するに至る。その言葉からは、一見<山の中の鍛冶屋は良い>とする判断が読み取れる。事実、圭さんの発言には「実に巧み」「綺麗」というあからさまな賛美の言葉が含まれている。また、「君、あれに使う道具が幾通りあると思ふ」「あてて見給へ」という言葉からは、人に謎掛けをする行為を通して<「鍛冶屋」を知っている自分>を誇示する様子が窺える。この明らかなる賛美と誇示とが表している事柄は、先に示した通り、圭さんが「山の中の鍛冶屋」に強い関心を持ち、且つ、それが肯定的な感情であることの様に思われる。

 ではその「鍛冶屋」に対する圭さんの肯定的感情を踏まえた上で、次の地の文における「鍛冶屋」の描写を見ていきたい。

①初秋の日脚は、うす寒く、遠い国の方へ傾いて、淋しい山里の空気が、心細い夕暮れを促すなかに、かあんかあんと鉄を打つ音がする。/「聞こえるだらう」と圭さんが言う。
②かあんかあんと鉄を打つ音が静かな村へ響き渡る。癇走つた上に何だか心細い。

 この様に地の文による「鍛冶屋」の音の描写は、①では「うす寒く」「遠い国の方へ傾いて」「淋しい山里」「心細い夕暮れ」、②では「静かな村」「癇走つた」「心細い」とされている。これらの言葉には、圭さんの言葉からは得られなかった印象が含まれていないのであろうか。圭さんと地の文との間にある描写の差異とは何であるのか。それを探るために、先ず①の描写から見ていこう。

 さて、圭さんは碌さんに先で「かう云ふ山の中の鍛冶屋は第一、音から違ふ。そら、此処迄聞こえるぜ」と言って、「鍛冶屋」の音を聞く様に促していた。ところが聞こえてきた音は、①の引用である。これでは、先ほどまで圭さんが言っていた「珍しくなくつても」「変なものが、まだ色々ある」から、「呑気」に「見ていた」と言う、どこかのんびりとした「鍛冶屋」の風景とは、まるで異なる「鍛冶屋」である。しかし圭さんは、碌さんに対し「聞こえるだろう」と言う言葉を投げる。この言葉は、先の会話分の最終で圭さんが言っていた「そら、此処迄聞こえるぜ」と、そのまま同意を繰り返していると言える。そこから、先の「そら、此処迄聞こえるぜ」で碌さんに投げかけた「鍛冶屋」の音を、聞こえるだろう」の言葉で受け止めていることが読み取れ、すなわち、自らの言葉に対する確認の行為であると判断できる。よって、この二つの同意の言葉の間にある「鍛冶屋」の音には、圭さんの判断に於いて、先の風景で眺めていた時の音と何ら変化はなく、特筆すべき事柄のないことを示している。

 そうすると、圭さんはこの地の文の表す淋しげな「鍛冶屋」の音を受け入れているのであろうか。それを考えるため、もう一度「鍛冶屋」の音の描写を引用してみる。

①初秋の日脚は、うす寒く、遠い国の方へ傾いて、淋しい山里の空気が、心細い夕暮れを促すなかに、かあんかあんと鉄を打つ音がする。/「聞こえるだらう」と圭さんが言う。

 一部字を濃くした様に、改めて読んでみるとこの地の文は、「寒」いや「遠い」、「淋しい」、「心細い」などの描写は全て、「鍛冶屋」の音ではなく、その音が響いている環境へと付けられている。そもそも、この一文は、連続する会話文の中に唐突に出てきた地の文であり、それが「うす寒く」「遠い国の方へ傾いて」「淋しい山里」「心細い夕暮れ」と、続け様に淋しげな言葉を列挙することによって、読み手を半ば強制的に淋しさへ引き込ませる効果がある。それは、読み手に対し、この描写が一体何に対しての描写であるのかを瞬間的には捉えさせず、無意識のうちに、一種の混乱状態に陥らせる手法であると言えるのではないであろうか。そしてその実、読み返してみれば、「鍛冶屋」の音の描写は「かあんかあん」と言う擬声語のみである。

 よってそこから、地の文を知り得ない圭さんが、まさか地の文が「かあんかあん」の「鍛冶屋」の音を、その様な背景に響かせているとは気が付かず、自分の語った「鍛冶屋」と、この「鍛冶屋」の音との違いを感じず、そのまま「聞こえるだろう」と言う確認の言葉を発したのではないかと考えられる。以上から、圭さんが己の語った「鍛冶屋」と地の文の「鍛冶屋」のあからさまな差異に頓着する様子なく、「聞こえるだろう」と、碌さんに確認していた理由は一見成り立つかに思われれる。しかし、それは勿論、圭さんの言葉と地の文との表現の差異の理由を言うものではない。何故ならば、「鍛冶屋」の音の響く背景を陰鬱なものとした時点で、地の文が「鍛冶屋」を圭さんの表現する「鍛冶屋」と隔絶させて捉えていることは確かであるためである。であるから次に、何故地の文が「鍛冶屋」の音の響く背景を淋しいものとしたのかと言う問題を踏まえつつ②の描写に入りたいと思う。

 さて、②の描写は「静かな村」を除き、「癇走つた」も「心細い」も、「鍛冶屋」の音に対する描写である。そのため、①とほぼ同内容を意味する描写であるとは言え、その意図には明確な違いが出てくる様に思う。先に記した様に、①の描写はあくまで、「鍛冶屋」の音が響く背景にかかるものであった。しかし、この②の描写は「鍛冶屋」の音自体に、その対象が至っている。その違いがもたらす意味とは何か。それを考えるために、本文の続きを見ていきたい。

圭)「まだ馬の沓を打つてる。何だか寒いね、君」(中略)やがて圭さんが云ふ。  圭)「僕の子供の時住んでた町の真中に、一軒豆腐屋があつてね」                       碌)「豆腐屋があつて?」                                                                                        圭)「豆腐屋があつて、其豆腐屋の角から一丁計り爪先あがりに上がると寒聲寺と云ふ御寺があつてね」                                                                                               碌)「寒聲寺と云ふ御寺がある?」                     圭)「ある。今でもあるだらう。門前から見ると只大竹薮ばかり見えて、本堂も庫裏もない様だ。其御寺で毎朝四時頃になると、誰かが鉦を敲く」        碌)「誰だか鉦を敲くつて、坊主が敲くんだらう」              圭)「坊主だか何だか分からない。ただ竹の中でかんかんと幽かに敲くのさ。冬の朝なんぞ、霜が強く降つて、布団のなかで世の中の寒さを一二寸の厚さに遮つて聞いていると、竹薮のなかから、かんかん響いてくる。誰が敲くのだか分からない。僕は寺の前を通る度に、長い石甃(いしだたみ)と、倒れかかつた山門と、山門を埋め尽くす程な大竹薮を見るのだが、一度も山門の中を覗いた事がない。只竹薮のなかで敲く鉦の音丈を聞いては、夜具の裏で海老のようになるのさ」      碌)「海老の様になるつて?」                       圭)「うん。海老の様になって、口のうちで、かんかん、かんかんと云ふのさ」 碌)「妙だね」                              圭)「すると、門前の豆腐屋が屹度起きて、雨戸を開ける。ぎっぎっと豆を臼で挽く音がする。さあさあと豆腐の水を替える音がする」             碌)「君の家は全体どこにある訳だね」                   圭)「僕のうちは、つまり、そんな音が聞こえる所にあるのさ」        碌)「だから、どこにある訳だね」                     圭)「すぐ傍さ」                             碌)「豆腐屋の向か、隣りかい」                      圭)「なに二階さ」                            碌)「どこの」                              圭)「豆腐屋の二階さ」                          碌)「へええ。そいつは......」と碌さん驚いた。               圭)「僕は豆腐屋の子だよ」                        碌)「へええ。豆腐屋かい」と碌さんは再び驚いた。             圭)「夫から垣根の朝顔が、茶色に枯れて、引つ張るとがらがら鳴る時分、白い靄が一面に降りて、町の外れの瓦斯灯に灯がちらちらすると思うと又鉦が鳴る。かんかん竹の奥で冴えて鳴る。夫から門前の豆腐屋が此鉦を合図に、腰障子をはめる」碌)「門前の豆腐屋と云ふが、それが君のうちぢやないか」          圭)「僕のうち、即ち門前の豆腐屋が腰障子をはめる。かんかんと云ふ声を聞きながら僕は二階へ上がつて布団を敷いて寝る。(後略)」[一]

 此本文には、一読後、一個の疑問が残る様に思う。それは、「一軒豆腐屋があつてね」から話が始まるにも関わらず、その論点は「寒聲寺と云ふ御寺」の「鉦の音」にあると言う事である。そかし此疑問については後に取り組むことにして、此処ではまず論点である「寒聲寺」の「鉦の音」に注目していきたい。その「寒聲寺」の「鉦の音」は、一見「鍛冶屋」の音から、離れた話題かに見える。しかし、その「寒聲寺」の「鉦の音」は「かんかん響いてくる」のである。これは、本文に於いても此文章のすぐ前に挙げられている先の二つの引用①②の「かあんかあんと鉄を打つ音」を連想させるものと言えるのではないであろうか。しかも、「寒聲寺」はその名に使われている漢字にも意味がある。「聲」は、次の様な語義を持つ。

古代中国の打楽器。枠の中に『へ』の字形の石板を吊り下げ角製の槌で打ち鳴らすもの。(中略)日本では奈良時代以降、銅・鉄製の特聲を仏具に用いる。

 そこから、此「聲」の字自体に、「打楽器」であり「仏具」である「鉦」の意味があると言える。そして、その「聲」に「寒」を付け「寒聲寺」とする事で、その「鉦の音」は「寒くなるのである。それは、先の引用「まだ馬の沓を打つてる。何だか寒いね、君」と、そのまま重なると言える。此処から圭さんが「鍛冶屋」の「馬の沓を打つ」音を此時点で「寒聲寺」の「鐘の音」と同一化したと判断できよう。それは圭さんの「頻りにかんかんやるな。どうも、あの音は寒聲寺の鉦に似ている」と言う言葉から、その可能性を揺るぎないものとする。それでは、その「鍛冶屋」の音から連想した「寒聲寺」の「鉦の音」が意味する事柄とは何であるのか。

<その2 「寒聲寺」の「鉦の音」>

 さて圭さんは、「鉦の音」を敲く人物の事を、「坊主だか何だが分からない」としている。これは、何故であるのか。そもそも、圭さんは寺で鉦を鳴らす人物について、「誰だか鉦を敲く」と言っていた。これは、「一度も山門のなかを覗いた事がない」ことが影響しての発言であると考えられる。圭さんは「只竹薮のなかで敲く鉦の音丈を聞いて」いたため、その「鉦」を敲く人物は、一度も見たことがなかったのである。であるから、「誰だか鉦を敲く」と表現したのであろう。ところが、聞き手の碌さんからしてみると、「誰だか鉦を敲くって、坊主が敲くんだらう」と、単純に連想した。しかし、圭さんはそれに対し、「坊主だか何だか分からない」「誰が敲くのだか分からない」と、二度に渡って否定的な返答をする。これは、先ほども言った様に、山門に一度も入った事のない圭さんの正直な答えであるかにも思われる。だがそれと同時に、碌さんの至極妥当な連想を認めようとしない、圭さんの頑なな意思にも感じ取れないだろうか。圭さんは、鉦を敲く人物をあえて具体化しまいとしているのではないだろうか。

 ではその、具体化されない鉦の敲き手と言う存在が表している意味とは何か。それは、以下の文から読み取れると思う。

冬の朝なんぞ、霜が強く降つて、布団のなかで世の中の寒さを一二寸の厚さに遮って聞いていると、竹薮のなかから、かんかん響いてくる。

 此処に表されていることは、只単に冬の寒さであろうか。「世の中の寒さ」と、態々「世の中」と言う言葉を付与した「寒さ」からは、気候的な「寒さ」以外の何かがある様に思われる。その冬の「寒さ」以外の「寒さ」とは、すなわち「世の中」そのものの「寒さ」、世を取り巻く人間関係、社会理念における「寒さ」なのではないであろうか。それを匂わせるために、圭さんは鉦の敲き手を断定しなかったと言えるのではないだろうか。「世の中」と言う見えない巨大な「寒さ」を示すためには、誰が敲くとしれない不明瞭な寒い「鉦の音」が最も適した表現方法であったと考えられる。その可能性は、いかに示す論より、更に強固になっていく。

 さて、圭さんは「鍛冶屋」を見ていた際の行動より、好奇心が極めて強いとわかる。また、一般人の日常では見慣れない「鍛冶屋」の道具を把握していたことや、幼い日の「寒聲寺」のことを、「長い石甃と、倒れかかった山門と、山門を埋め尽くすほどな大竹薮」と、細かく覚えていたことから、観察眼が鋭く、記憶力も優れていると言える。だがそれらの能力に反し圭さんは、此「寒聲寺」に対して「一度も山門のなかを覗いた事がない」とある様に、中へ踏み込み、寺自体を見ようとはしなかった。生家の近所の寺に、一度も入った事がないと言う、その不自然とも言える行動、それが表すことは何か。そしてそれは、「寒聲寺」に限ったことではない。

圭)「一寸、町を歩行いて来た」                      碌)「何か観るものがあるかい」                      圭)「寺が一軒あつた」                          碌)「夫から」                              圭)「銀杏の樹が一本、門前にあつた」                   碌)「夫から」                              圭)「銀杏の樹から本堂迄、一丁半許り、石が敷き詰めてあつた。非常に細長い寺だつた」                                 碌)「這入つて見たかい」                         圭)「やめて来た」

 此様に、圭さんは他の寺にも入ろうとしていない。しかし、それは寺に興味がないためではない。何故ならば、生家の側にあり、望むと望まないとに関わらず見ざるを得なかったであろう「寒聲寺」とは違う、此一見しただけ寺でさえも、圭さんは「銀杏の樹が一本、門前にあつた」「銀杏の樹から本堂迄、一丁半許り、石が敷き詰めてあつた。非常に細長い寺だつた」と鮮明に記録している。これは、圭さんがむしろ寺に強い興味を抱いている証拠であると言えよう。それであるのに、圭さんは寺に入らない。また、此場面の様に圭さんの意思で寺に入らない場合のみではない。以下の場面も見てみたい。

圭)「何でも突き当りに寺の石段が見えるから、門を這入らずに左に廻れと教へたぜ」[四]
圭)「石段は見えるが、あれが寺かなあ、本堂もなにもないぜ」       碌)「阿蘇の火で焼けちまったんだらう。だから云はない事ぢやない。——おい天気が少々剣呑になつて来たぜ」[四]
きのふの澄み切つた空に引き易へて、今朝宿を立つ時からの霧模様には少し懸念もあつたが、晴さへすればと、好い加減な事を頼みにして、とうとう阿蘇の社迄は漕ぎ着けた。白木の宮に禰宜(ねぎ)の鳴らす拍手が、森閑と立つ杉の梢に響いた時、見上げる空から、ぽつりと何やら額に落ちた。[四]

 此処では圭さんとその連れの碌さんは、寺を見つけたら「門を這入」らずに行けと教えられ、また、実際に見つけてみれば、仮に入りたくとも「阿蘇の火で焼けちまった」のか「本堂は何もな」く、入れない状況であった。そのため、「阿蘇の社迄は漕ぎ着けた」にも拘らず、「白木の宮に禰宜の鳴らす拍手」を「森閑と立つ杉の梢」の中で聞く羽目になるのである。これは、幼い日の圭さんが「寒聲寺」を見て感じた「門前から見ると只大竹薮ばかり」であり「本堂も庫裏もない様」である様、そして「誰だか」が「鉦」を「ただ竹の中でかんかんと幽かに敲」いていた様とそのまま重なる。そこから、圭さんが自らの医師とは関係なしに入れなかった此状況に於いても、その深層意識では、幼い日に自らの意思で入らなかった「寒聲寺」と同様の意味合いが込められている事が判断できる。

 以上から、「何か観るものがあるかい」と問われれば寺と答え、旅の目的であった阿蘇登山に於いても寺の先ずの目印とするほど、寺に強い思い入れを持ちながらも、その寺の内部へは決して入ろうとしない圭さんの様子が見て取れた。では、その理由とは何であろうか。


後半へ続く。

参考資料:『夏目漱石「二百十日」論-漱石のメッセージを読み取るために』鵜川紀子(2006-07、清心語文)

『二百十日』夏目漱石(明治三十九年、中央公論)


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