志賀直哉(1)「真鶴」についての感想及び簡単な考察

 志賀直哉が映画好きであったことは、一度志賀文学の沼に嵌った者であれば一度は耳にしたことがあるだろう。実際彼は多くの映画を観てきて、その要素を文学にも取り入れていたと思われる。「愚なる妻/シュトロハイム」や「長屋紳士録/小津安二郎」は彼の世界観に少なからず取り入れられたと思われるし、「真夏の夜の夢/シュテラン・ライ」は実際に文章中に登場して、作品の一部と化している。また、観るだけでは飽き足らず、制作にも手を伸ばしていたようで、「好人物の夫婦」や「暗路行路」は自作であるし、また映画に出演したりもしている。

 それはこの「真鶴(まなずる)」に於いても例に漏れない。映画評論家の今村太平氏曰く、「志賀直哉の小説は特に視覚的で、日本文学中、氏の作品ほど視覚型のものは稀である。氏が絵を見ることを好み、映画を愛好していたのもこの才能に関連していると思われる」とある通り、映画の影響は「視覚的」という法で彼の小説を形作ったと思われる。

 「真鶴」(大正9・8「中央公論」)は、四百字詰めの原稿用紙にして僅か10枚ほどの短編であるが、それでいて不思議に美しい創作空間を持った作品であると思う。私自身、短編を小さい頃はずっと読んでいた影響からか、或いは最近長編ばかり読んでいるからか判然としないが、とても集中して読むことができ、一度も区切ることなく最後まで読めたのである。これも志賀文学の映画風に喚起された一貫性であろうか知れない。


<カット1>

 作品は伊豆半島の「深い海を見下す海岸の高い道」を「十二三になる男の児が小さい弟の手を引き」歩いているところから始まる。兄は物思いに沈んでいる。それは「恋と云ふ言葉」は知らないが「其恋に思い悩んで居るので」あるという。弟は疲れ切っていて、いやいや兄について歩いている。ここの描写は初めは大きな構図で、さしずめロングショットで捉えられ、それからズームで引き寄せられる感じがする。ではここを「カット1」として次に進もう。

<カット2>

 カット2は一転し、時間的に遡って次のような挿話になる。彼の通っている小学校の教員が、新しく来た女教員と連れ立って歩いていて、「我恋は千尋の海の捨小舟、寄る辺なしとて波の間に間に。お前に此歌の意味が解るかね」と後を歩いていた彼に向かっていい、次に笑いながら女教員の顔を横から覗き込む。女教員は俯いて耳の根を赤くしたが、彼も「自分がそれを言われたような、又それを自分が言ったよう」に恥ずかしい気がしたという。

 この場面はカット1の「其恋」と通い合う。この時はモヤモヤとしてはっきりしなかった感情が、今少年の胸の中で次第にあるを表しかけていると取っていい。この技法は映画などで用いられる「回想」というやつで、主人公の内面的感情を表しやすい。しかしその感情を(幼いからだろうか)、曖昧な言葉で表現しているのが又、他の推察に繋がりやすい。

 文中で出てきた詩についてみてよう。

「我恋は千尋の海の捨小舟、寄る辺なしとて波の間に間に」

 直訳すれば、「私の恋は広い海に捨てられた小舟のようだ。寄り付く場所もなく波に揺られるがままに」となるわけだが、これはどういう意図が含まれているのだろう。実際この男教員と女教員はこのカット2のみの出演で他のカットでは出てこないと考えると、真鶴の構成に関与してくるもので無く、少年の心情・感情に関わるメタファー的意味を持っているのかも知れない。

 「(男)教員は笑いながら女教員の顔を横から覗き込んだ。女教員は俯くと、黙って耳の根を赤くし」たと言う描写から読み取れば、男と女は既にカップルか恋仲になっていると考えられる。そして、男教員は少年に「お前にこの歌の意味が解るかね」と言うのである。恐らくこの時の男教員の心情には、恋の味を知らない未熟な子供を嘲笑するような心理が働いていたに違いない。持ち得る者が持たざる者を下に見る、と言う一種の縮図である。それが教師と生徒という関係も理に適う感がある。さて、では少年はというと、「沖の広々した所に小舟のゆらりゆらりと揺られている様を、何と言う事なし絵のように思い浮かべ」て、「恋と云う言葉を知らぬ彼には素より歌の意味は解からなかった」のだ。これは全く小学生らしい感想である。つまり、このシーン2では少年の幼さの程度を説明し、恋という大人の領域を意識させる必要があったのではないかと思われる。

<カット3>

 カット3はカット1の現在の時間軸に戻る。そして少年の外見がクローズアップされて説明される。「今、其大きい頭に凡そ不釣合な小さい水兵帽を頭襟のやうに戴けて居るのだ。咽はゴム紐で締め上げられて居た。此様子は恋に思い悩んで居る者としては如何にも不調和で可笑しかった」

 この不釣り合いで滑稽な姿はそのまま少年の恋の象徴であろう。また、シーン2では恋という言葉を知らなかった彼が、現在に於いて恋を意識し思い悩むまで至っているのは、時間の経過や少年の成長を感じさせるし、この物語の一本の軸が『恋』であることが明確に読み取れる。

<カット4>

 カット4では、少年がこういう事の顛末に立ち至った経緯が回想という手段を経て述べられる。少年は父から貰った歳暮の金で、弟と二人の下駄を買いに小田原まで出掛けるのだが、その途中の唐物屋のショーウィンドウに見つけた水兵帽が欲しくなり、後先を考えずに買ってしまう。

<カット5>

 彼には海軍兵曹長の叔父がいて、それからよく海軍の話を聞いていた。ある時、叔父は熱海行きの軌道列車のボイラーを指して、まるでへっついだな、と嘲笑うが「これ以外に汽車を知らぬ彼には此言葉だけでも叔父を尊敬するに充分」で、「彼の水兵熱を益々高めていった」という挿話。つまりこのカットで主人公が水兵帽を欲しがった理由が明らかになる訳である。これまで現在→過去→現在→過去と来ていたのが、ここにきて過去(カット4)→過去の過去(カット5)というルールの破綻が見られる。またこの技法は「回想の二重構造」という。

<カット6>

 カット6はカット4に続く。少年は二人用の金で自分だけの物を買ったことを気に咎めながら、松飾りの出来た賑やかな街を歩いていくと、ある街角で騒々しく流してきた法界節の一行に出会う。文章はこの三人の風体を細かに描写した後、少年がこの中の月琴を弾いている女に魅せられてしまう、と続く。「彼は嘗てこれ程美しい、これ程に色の白い女を知らなかった。」彼はすっかりのぼせてしまい、一行の背後に着くようにしてどこまでも付いていく。「一行が或裏町の飯屋に入った時には彼は忠実な尨犬(むくいぬ)のやうに弟の手を引いて其店先に立っていた。」

 彼が自分と同年位の女の子には目もくれず、恐らく母親ほどに年が離れているであろう、年上の女に引かれていくところに着目したい。ここに二つの仮定をあげる。一つは、これは丁度小学生が学校の先生や母親に好意を寄せる事があるように、精神の未熟さよりくる母性的な恋ではないか、という説。もう一つは、少年は真鶴の漁師町にて日焼けした女しか見たことがなく、白粉を塗った女がまるで別世界の住人のように美しく見えたという、性の目覚め説。とここまで書いたが、本文をよく読むに、恐らく後者だろう。少年の男性の目覚めという重大なシーンであることは間違いない。

<カット7>

 カット7はカット3に続く現在である。家路についている彼の足元から、岸を洗う静かな波音が聞こえてくる。それがともすると法界節の琴や月琴の音に聞こえてくる。その上、その奥から女の肉声まで聞こえてくるような気がする。「——沖へ沖へ低く延びている三浦半島が遠く暮簿の中に光った水平線から宙へ浮かんで見られた。そして影になっている近くは却って暗く、岸から五六間綱を伸ばした一隻の漁船が穏やかなうねりに揺られながら舳に赤赤と火を焚いていた。」

 こういう風景描写は志賀の得意とする分野で、気韻生動という言葉が似合う。『文学論/夏目漱石』(第三編第二章)にあるように、「躍如として生きているかのように写し出す」写生文としての技術が見て取れる。又、上文と同じような表現がこの小説にはもう一箇所ある。カット2にて、彼が教員から恋歌を聞かされた後で、「沖の広々とした所に小舟のゆらりゆらり揺られている様を、何と言うことなし絵のように思い浮かべ」ている所である。これは勿論、心象風景であって現実的では無い。しかし、このカット7での海岸も、カット2での岸と小舟も両者はどちろも、少年の恋心の暗喩であることには間違いがなさそうである。前者(カット7)は時間的に考えて夜の海である。そして、一隻の漁船が微かに揺れながら火を焚いている。穏やかな夜の海は、暗くて静かである。これは何か大人しいような冷静な感じがする。この暗さを疑心暗鬼や不安ととってはいけない気がするのだ。というのも、彼には海軍の叔父がいて、そして弟の事も考えず水平帽を買ってしまうほど、海に好意的なのだから、少年時代の不安感や未知数への恐怖という負の感情は受けてはいけないと思う。そしてその中に一つ赤い光が揺れている。これこそが彼の恋の本体であると考える方がしっくりくる気がする。

<カット8>

 法界節の女の仕草、格好がありありと思い浮かべられる。

<カット9>

 小田原の岸が夕靄の中に遠く見返られる。彼は女と自分との隔たりを今更のように感じる。これはカット7の時系列である。

<カット10>

 カット10はカット6の時系列である。如何にも子供らしく、感情が素直で良い。

<カット11(最終カット)>

 カット11はカット9に続き、現在の時系列に戻る。つまり幾度も重ねられてきた回想はお役御免蒙ってこの小説の本流に戻る。夜が迫ってきて、沖には漁火が点々と輝きだす。空には半欠けの月がいつか光を増してきた。真鶴まではまだ一里ある。そのとき「丁度熱海行きの小さい軌道列車が大粒な火の粉を散らしながら、息せき彼等を追い抜いていった。二台連結した客席の窓からさす鈍いランプの光がチラチラと二人の横顔を照らして行った」とある。昔、叔父から軌道列車を教えてもらった少年だが、今度の汽車はそれよりも一サイズ小さい。「息せき」という単語が伝えるように、懸命に走るようなボロイ汽車なのかもしれない。しかし、少年の水兵趣味が叔父と汽車で始まり、また、汽車でこの物語が終わるのは何とも首尾照応が見られて良い。

 又、このカットはリズムがいい。詳しくは本文をご参照願いたい。しかし、何故志賀は、主語につく副詞を「は」ではなく「が」とするのだろう。これは後の記事で研究してみることにする。

 本文に戻ろう。汽車が二人の側を通った後、弟は今の汽車に今日の法界節が乗っていたという。彼は途端に胸の動悸を聞く。それもそうだろう、正に今自分が苦悩している恋の相手が身近に居たと知ったのだから。そして少年は想像を飛躍させて、女性と自分との逢瀬をシチュエーションする。こうすることで彼の性欲は満たされるのだろう。ここで問題なのは、単に会うだけではなくて、汽車が転覆し、女は崖から転げ落ちて岩角に頭を打った状態で、という条件が付与される事である。ここでも少年の欲望が垣間見れる。彼女と会うだけではなく、彼女を手に入れる為に自分が彼女を助ける救世主であろうとする。この場面の最前で、弟をおんぶしたのも、良い兄というレッテルを貼れば何か良いことがあるかもしれないと胸算用したのかもしれない。

 出鼻を曲がったところで突然、間近に提灯を付けて来るある女の姿を見る。しかしそれは彼らの帰りの余りに遅いのを心配して迎えにきた母親であった。この場面も面白い、漫才で言うとオチの部分に当たるこのシーンは、まさに映画的だと言える。ホラーで良くある演出で、障子に映る影が実は木葉だったりするだろう、こういう感じである。読者(映画に於いては視聴者)を騙すようなトリックを彼は折々使う。

 そして最後の場面。「すっかり寝込んでしまった弟を、彼の背から母親の背へ移そうとすると、弟は眼を覚ました。そして、それが母親だと知ると、今まで圧えて来た我慢を一時に爆発させて、何か訳の解らぬ事を言って暴れ出した。母親が叱ると尚暴れた。二人は持て余した。彼は不図思い出して、自分の被っていた水兵帽を取って弟に被せてやった。『ええ、温順しくしろな。これをお前にくれてやるから』かう言った。今は其水兵帽を彼はそれ程に惜しく思わなかった」

 最後は水兵帽に憧れる少年から、恋の強大さを知る青年のような態度を取って幕を閉じる。そして其恋は、観念的なものが全く加わっていないために、真っ白である。まるで鶴の背のように。


<志賀直哉と空間的モンタージュ>

  前回の記事では、志賀と映画が深い関係性を持ち、小説にもその影響は及んでいる事を確認したと思う。では今回、それに関しての例や映画的小説が及ぼす読者への影響を見ていこうと思う。

 映画的小説と仮に言ったが、これは「映画に於いて確認されるような視覚的な描写やモンタージュ手法を用いて書かれた小説」と定義する。視覚的な描写については後で言及することにして、先に後者を説明すると、ここで言うモンタージュとは、視点の異なる複数のカットを組み合わせて用いる技法を言うのだが、「真鶴」はそのモンタージュ技法を駆使して組み立てられている。小説の全文は全11カットに分ける事ができ、『現在』『過去』『過去の過去』と三種類の時系列が入り組んで配置されているのが大きな特徴である。ここでこう言った空間(時間)を飛び越えるようなモンタージュを『空間的モンタージュ』と仮に名付けよう。更に、進行役となる語り手が次々と変わっていく——例えば伊坂幸太郎の『ゴールデンスランバー』などと言う手法は『視覚的モンタージュ』とする。そうすると『真鶴』は空間的モンタージュを取り入れた作品だと言う事が出来るだろう。主人公である少年を置いて、過去の問題提起から、現在の苦悩する姿を描くと言う形は、小説の一種の構成でありながら、全く映画的である。また、こう言ったモンタージュ技法を用いた作品が殆どである。尤も、時間の経過は勿論、物事の進展を描くと言うのは小説において必ず必要となってく故に、純文学では主人公の心情の変化を、ミステリー小説などではトリックを解説する場面にて多くの場合に回想パートに飛んだり、犯人の視線で殺害の現場を復讐したりする。ミステリーに限らず、純文学でもS Fでも同様である。

 ここでこの空間的モンタージュを三種類に分別しようと思う。

現在を軸として、過去へ空想を飛ばす法

 真鶴に於いて採用されているのはこの方法である。カット1〜11を時系列的に並べてみると、

現在→過去→現在→過去→過去の過去→過去→現在→過去→現在→過去→現在

 こう並べてみると、現在と過去が四回行き来しているのがわかる。文章を読んでみるに、現在パートに少年の感情が描写されていて、過去パートにその感情の原因が書かれているようだ。少年の感情は過去にも少々見る事が出来る——「彼はホットした」と言う台詞や「魅せられて了った」などと言った感情は過去の方が多く書かれている。その感情から派生する感情、つまり少年の心では捉え切る事が出来ない複雑感情が現在軸では多く書かれている。また、それに伴い、頭で理解できないこの世の定理を、暗喩という方式で少年は海やら女の幻影に見る。未熟な少年が高度すぎる感情へ立ち向かうと言う図式を形成したい時に、志賀が選んだのは、そう言った遠回りの表現方法なのだった。

 構成の中央に一箇所、『過去の過去』パートが置かれている。これはパート4・6の過去に挟まれるように設置されていて、物語を通じて使用される小道具の水兵帽への情緒の起源が描かれている。言って仕舞えば、過去が小伏線だとするならば、過去の過去は大きな伏線として存在する。現在において「水兵帽を持っている少年」が登場しているのに対して、過去では「水兵帽を買った少年」が描かれる。では、この水兵帽を好きな理由を述べたい場合には、必然的に過去の過去へ向かわなくてはならないのは理解できよう。また、この「過去の過去パート」を挟む場所も重要だと思われる。今回は一つの過去と、もう一つの過去の間に挟まっていたが故に、成功を収めた。しかしこれが、現在から過去の過去へ向かったとすると、それは少し、読者の混乱をもたらすような気がする。

現在を軸として、未来へ空想を飛ばす法

 ⑴よりも多くの小説に取り入れられている構成である。無論これは、通常我々の人生においてもこの⑵は成立しているわけで、時間は現在から未来へと進むのであるから、この⑵は普遍的な小説と言える。

現在を軸として、過去且つ未来へ空想を飛ばす法

 同上。殆どの作品がこれに該当する。


参考文献:唐井清六 「真鶴」試論 ——志賀直哉と映画—— 

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