二葉亭四迷(1) 長谷川辰之助の人生総覧1/4

 この記事は長谷川辰之助(二葉亭四迷)の人生のポイントを抑えてまとめた記事である。また、参考資料は『二葉亭四迷:くたばってしまえ(ミネルヴァ日本評伝選)』としている。

<第一章 長谷川辰之助の誕生>

・出生

 二葉亭四迷こと長谷川辰之助は元治元年(1864)二月二十八日、江戸市ヶ谷合羽坂尾張藩上屋敷で生まれた。この1864年は歴史の丁度転換点辺りであり、池田屋事件、禁門の変、第一次長州征伐などが起こっている。

 二葉亭はその時の記憶を、朧げながら覚えていて『酒餘茶間』にてこう回想している。

「維新の当時因州[因幡の国]兵が藩邸に入り込んできた事があった。つまり宿営させてやったのさ。(...)邸内で遊んでいると、よく兵隊どもが出入に揶揄った物だ。」

 二葉亭の父吉数は尾張藩上屋敷に御鷹場吟味役として勤務していることもあり、二葉亭は比較的裕福に育った。吉数は辰之助の生まれる二年前の文久二年より将軍様のお膝元に暮らしていたが、すっかり江戸の風に染まっていた。近所に住んでいた山田未妙の回想では、「円転滑脱他人に向かって城府を設けず、さらに他人と応接する言葉に言ふに言われぬ愛嬌があって、動もするとその興に乗じた場合などはその愛嬌が趣味有る滑稽と変わりもした」と言うような活発な人で、長唄なども好きだったらしい。二葉亭の江戸音曲愛好は父親の影響だろう

・郷里名古屋へ

 維新の波は一家のこうした生活を変えてしまう。明治元年(1868)、上野戦争の余波で諸藩引き払い命令が出され、辰之助(当時四歳)の家族は名古屋に移るのことになる。暫くして辰之助は名古屋藩学校『明倫堂』と言う藩校に通い、「藩に学有り、英仏両語を教授す。予又之に入りて仏語を修めり」と書いている。またこの明倫堂には同窓に坪内逍遥も学んでいた。彼はここで主に日常的なフランス語に重点を置いて学んでいた。

・松江と漢語学習

 辰之助は明治五年(1872)には名古屋を離れ、一時帰京する。東京にはその後二年半暮らし、その後明治八年(1875)、今度は父について松江に移る。松江で松江変則中学校の和漢学科で学んだ。中村光夫は『二葉亭四迷伝』より、

「二葉亭は松江で内村大輔の経営する相長舎に入学して漢学を学び、松江変則中学校で英語を中心とする普通学を修めました」

 と書いているが、これは間違いであり、当時の松江変則中学校は英語の課程を持たなかったし、教師は私塾での和漢学の講義を変則中学校でも繰り返していたと想像される。

・二葉亭のナショナリズム起源

 この時は未だ中学生の二葉亭だが、後に多くの言語を操り、幾つもの小説を日本語に翻訳して出版するまでに大成する。二葉亭のそのナショナリズムの起源を探せば、松江変則中学校の教師である内村鱸香に行き当たる。

*内村鱸香(うちむら ろこう)...庶民教育の先覚者と知られる。江戸から明治にかけての激動の時代に公教育と私塾に熱心に乗り組んだ。近代スポーツの父と呼ばれる岸晴一や、首相を二度務めた若槻礼次郎を教育した。

 鱸香は「机上の学問のみに甘んずる儒者ではなかった。胸中に勤皇精神があり、当時の志士と意気相投ずるものがあった。彼が江戸にあった嘉永六年(1853)には米使ペリーの来航あり、翌安政元年再びペリー来航のこともあり、また嘉永六年にはロシア艦隊の来航、安政元年には英国艦隊の来航と矢継ぎ早に国事多端の度を増」していたようで有るので、志士的性向、外国脅威への認識を持っていた。幼い二葉亭はこの儒学者の考え方に随分感化されたようで思想が似ている。内村が恐らく熱っぽく語ったであろう水戸学の思想、志士のつとめ、そして「国体」の理念を二葉亭が想起したのは間違いない。

*水戸学の思想:18世紀末から幕末の時期にかけて水戸藩の学問は内憂外患(国内の心配事と国外の患い)から来る国家的危機をいかに克服するか、と言う思想。その主張をまとまった形で表現した最初の人物は藤田幽谷で、寛政3年に「正名論」を表して、君臣上下の明文を厳格に維持する事が社会の秩序を安定させるとする考え方を示し、尊王論に理論的根拠を与えた。また、門人の会沢正志斎(あいざわ せいしさい)は藤田の後を継ぎ、「新論」を発表した。

*新論・国体:「新論」は同年二月、江戸幕府が外国船打払令を発布したのを好機とみて、国家の統一性の強化をめざし、日本を守るための政治改革と軍備充実の具体策を述べたものである。その際、民心の糾合の必要性を論じ、その方策として尊王と攘夷の重要性を説いた。 ここに、従来からの尊王論と攘夷論とが結び合わされ、尊王攘夷思想が形成された。また、日本国家の建国の原理とそれに基づく国家の体制という意味での「国体」という概念を提示したのも『新論』が最初である。

*尊皇攘夷:天皇を尊び政治の中心とする『尊皇』と、外国を追い払う『攘夷』とが結びついた思想。

 尤もここで注意しておかなければいけないのは、志士としての、国士としての二葉亭と言うことは時々語られているが、彼は生涯、尊皇にも攘夷にもならなかったことだ。「天皇」に対する言及は見当たらないし、「日本人」は如何あるべきかと言う考えも見えない、況して排外主義とも無縁である。二葉亭のナショナリズムは、そのように中核となる実態を欠いた曖昧な考えであったと考えられる。

・ロシアとの出会い

 長谷川辰之助が松江に移り住んだのは明治八年(1875)の五月六日のことであったが、翌五月七日にはペテルブルグにて樺太千鳥交換条約が調印されている。二葉亭が後にロシア語を志すことになった理由については彼が自ら「予が半生の懺悔」で語っている。

なぜ私が文学好きなぞになったかと言う問題だが、それには先ずロシア語を学んだいはれから話さねばならぬ。それはこうだ——何でもロシアとの間に、かの樺太千島交換事件という奴が起こって、だいぶ世間が喧しくなってから後、『内外交際新誌』なんてのでは、盛んに敵気心を鼓舞する。したがって世間の世論は沸騰するという時代があった。すると、私がずっと子供の時分から持っていた思想の傾向——維新の志士肌ともいうべき傾向が、頭を擡げ出してきて、即ち、慷慨憂国と言うような世論と、私のそんな思想がぶつかり合って、その結果、将来の日本の大患となるのはロシアに決まっている。こいつ今の内にどうにかしないといけない......それにはロシア語が一番に必須だ。と、まあ、こんな考からして外国語学校の露学科に入学することになった。

・陸軍士官学校受験

 ロシアの危険性を自覚していた二葉亭は、自らその危機を排除しようと軍人となろうと奮闘するが、三年間受け続けたにもかかわらず、全て不合格になってしまう。これは勉学の所為ではなく、視力の悪さが原因だったという。流石に三度受験し不合格だった二葉亭は軍人のキャリアには見切りをつけたのに違いない。翌明治十四年(1881)には、今度は日本の脅威ロシアに備えるために、ロシア語を勉強するべく、東京外国語学校を目指したのである。

<第二章 文学開眼>

・東京外国語学校と文学の成立

 「外国語学校」と言う名前の伴う学校は日本に少なからず存在するが、世界的に見れば決して普通ではない。まさにこれは外国文化及び外国語の学習を通じて近代化する事が国家的課題であった日本の特殊事情だと言えよう。二葉亭は外国語学校に入学する事によって、欧米からの知識の摂取とまさにそれによって欧米に拮抗すると言う、屈折した構えを持つナショナリズムの構造の中に身を委ねることになったのである。

・ロシア人教師の感化

 二葉亭は脅威ロシアに対抗する為に外国語学校に入学して露語を学ぼうと志していたが、そこから今度は文学に導かれていく。

「当時の語学校はロシアの中学校同様の科目で、物理、化学、数学などの普通学を露語で教える傍ら、修辞学や露文学史などもやる。ところが、この文学史の教授が代表的作家の代表的作品を読まねばならぬような組織であった」『予が半生の懺悔』

 この文学史の教授というのはアンドレイ・コレンコとニコライ・グレーである。ロシア人教師グレーは「理化学及び医学の心得のある人であったが、同時にまた文学趣味に富んでいて、盛んに露西亜文学に就いて教授していた」という(藤村「旧外国語学校時代」『二葉亭四迷』上二六頁)そして朗読の名手であったらしく、別の同窓生大田黒五郎の回想によれば、「其頃の露語科の教科書として用いたのは有名な文学書だ。ところが名高い文学書は一冊しかないので、グレーとか言う教師がそれを読んで聞かせて、学生は手ぶらで聞いているのだ。このグレーという人は朗読が頗る名人で、調子も面白い、節も面白い。真に妙を極めたものだ。誰でも聞き惚れないものは無い。」(「三十年来の交友」『二葉亭四迷』上十二頁)

 大田黒の回想は中村光夫が『二葉亭四迷伝』に引くところで、この朗読の名手に導かれて、しかも、露西亜語を耳で巧みな音調と共に摂取するという、文学受容には願ってもない環境のもとで二葉亭の文学趣味が刺激され、開発されて行ったのだという。

 また、現代日本に於いて常識化されている黙読の文化であるが、露西亜文学に於いて音読・朗読という行為は一般的であったという。前田愛は「音読から黙読へ」に於いて、明治以降、日本文化に於いて音読から黙読へと読書の形態が移行し、其事が近代的自我や文学的行為というものの成立といかに関わっていたかについて論じている。同じようなことは西洋文化に於いても言えたのであって、多くの社会では近代の成立に伴って、音読から黙読へという現象が見られたのである。しかしロシアにおいては、音読の習慣は比較的遅くまで残り、朗読に対する文化的な愛着は強かったという。二葉亭はこの時代の自らの人生を次のように総括する。

「維新の志士肌」からロシアに対する脅威の念を起こし、それでロシア語学習を思い立ち、外国語学校に入った。ところがそこでは文学を学習する必要があり、また朗読の名手グレーがおり、その感化を受けた。「する内に、知らず計らず文学の影響を受けてきた。尤もそれには無論下地があったので、言わば、子供の時から有る一種の芸術上の趣味が、露文学に依って油をさされて自然に発展してきた。(『予が半生の懺悔』第四巻二八九頁)

・東京外国語学校退学

 明治十七年(1884)、東京外国語学校内に付属の高等商業学校が設立された。文部省の「稟告」によれば、それは「内外ノ貿易ノ日ニ進ミ月ニ熾ナルニ際シ商業ヲ処理改良スルニ適スヘキ者ヲ養成スルコト緊急ニ有」り、しかも従来の五語学科のうち、「仏、独、露、語学ノ如キハ既ニ養成スル所ノ生徒モ乏シカラス、又仏、独語学ノ如キハ他ニ学習ノ道モ有之候」からであった(野中正考『東京外国語学校史』より孫引き。百八十頁)。結局、ロシア語は文部省(そして、明治政府)に依って、文明開化あるいは富国強兵のためには特に必要のない言語と認定された訳である。この淵源には明治四年(1871)から六年にかけて派遣された、岩倉具視を特命全権大使とする遣外史節の判断があるだろう。一行はロシアを西洋列強の中でも国力が劣り、社会的にも後進であると認識した。

 一方、時を同じくして東京府商法講習所が農商務省の管轄になり、明治十七年(1884)五月に東京商業学校として再編されていた。明治十八年には同校では文部省の所管となり、八月には仏語・独語科の教員と学生を東京大学予備門に移籍させた。そして九月には東京外国語学校は東京商業学校に吸収合併されてしまう。辰之助は一旦は東京商業学校に籍を移したが、最終的にはそこを飛び出してしまう。「僕は商人になる気はない、其に校長の矢野は気に入らぬ」、これが二葉亭の結論であった。

・坪内逍遥との出会い

 怒りに任せて外国語学校から飛び出したのはいいが、先の計画があるわけではない。だが、文筆で身を立てようというのは自然な発想であった。彼はそこで文学の世界への手引きを求めて、当代、文学理論書『小説神髄』と其を実践した小説『当世書生気質』で新進気鋭の文学者として飛ぶ鳥を落とす勢いだった坪内逍遥を電撃的に訪問するのである。

 二葉亭の、この突撃的な坪内訪問は文学史上よく知られた事件である。坪内の回想によると二葉亭は『小説神髄』を携えて訪問し、疑問を感じた多くの箇所について、どのような根拠で主張をしているのか一々尋ねたという。逍遥の方では、『小説神髄』中の議論のそれぞれに確固たる根拠があるわけではなく、当時の文芸雑誌であろうかかれていたことを漫然と読み散らして、それを盛り込んでいただけだった。そんな体たらくだったので、そくな回答も出来なかったと坪内は伝えている。「僕のあの著述[『小説神髄』]はご存知の通りの軽薄なもの故、二度三度と突っ込まれると奥行がない。初めて自分の考えの浅いのを知った。」(「二葉亭四迷伝)五百十二頁)

 其に対して二葉亭は近代リアリズムの文学理論を体系的に研究していた。其最大の源泉はベリンスキーというロシアの文学批評家であった。二葉亭の文学観は綿密な原書購買に基づき、しかもそれを徹底的に、原理的に突き詰めていくという体のものでった。二葉亭の深い見識と真理追求の熱意に敬服した坪内はこれ以降、二葉亭を引き立て、文壇に送り込んだだけでなく、私生活に及ぶまで面倒を見て、師として、友として、一生二葉亭を支えていくことになる。

 

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