夏目漱石(6)草枕とオフィーリア

『草枕』は明治三十九年「新小説」九月号に、一挙掲載された中編で、漱石の作家としての地位を確立した小説である。『吾輩は猫である』を「ホトトギス」に連載をしたばかりの頃である。中編としては以下の順番。
・吾輩は猫である(1905年明治三十八年)
・坊ちゃん(1906年明治三十九年)
・草枕(1906年明治三十九年)
 猫と坊ちゃんでは漱石の私小説的なニュアンスを含む教師が登場するが、今回の草枕では登場しないと言うのは、のちに説明するが、大きな特徴である。短編としては、坊ちゃんと草枕の間に、薤露行(かいろこう)があるが、それは読者の反応はあまりよくなかった。しかし草枕は大衆的な人気を博した。当時流行の自然主義、風葉などの濃厚な性愛描写より安心して読め、その頃は現代と違い読者の中にも文人趣味があったことも影響しているだろう。
 草枕が熊本付近の小天温泉を舞台としていることはよく知られている。漱石は明治二十九年から三十三年に外遊するまで、熊本の五高で教えていたから、その間に行った経験を元にして書かれたものである。

 オフィーリアはシェイクスピアの『ハムレット』の許婚で、ハムレットに捨てられ、父を殺され、気が狂って、川へ身を投げたか、偶然落ちたか、とにかく死んでしまう。これをイギリスの画家であるミレーが描いた絵が有名である。
 シェイクスピアでは、オフィーリアの身投げの場面は、こう描かれる。

「花鬘をば手に持つて、狂ひあこがれつつ来やつたげなが、それを掛けうとて柳の枝に、捻づれば枝は無情うも、折れて其身は花もろともに、ひろがる裳裾にささへられ、暫時はただよふ水の面。最後の苦痛をも知らぬげに、人魚とやらか、水鳥か、歌ふ小唄の幾くさり、そのうちに水が浸み、衣も重り、身も重つて、歌声もろとも沈みやつたといの」

逍遥訳

 ミレーの絵にはこの台詞の通りに描かれている。以来十九世紀の西欧文学はオフィーリアについて多くの詩や三文を生んだが、シェイクスピアの原文よりは、このミレーの絵から誘発された水に浮かんだ美少女に基づいている。
 そうしてこの草枕もその一つと考えられる。

 水と美少女、これは古今東西を通じて、常に現れる結合である。神話、怪異譚、文学一般によくある組み合わせだ。この現象をフランスのガストン・バシュラールと言う哲学者は、『水と夢」の中で「オフィーリア・コンプレックス」と呼んでいる。バシュラールは元来科学方法論から出発した哲学者だが、物質の認識には、科学的認識の他に、人間が物質に直面して、感じる物、想像力の働きによる認識がある、と言う。想像力と言うと、普通、架空の人間関係や波乱万丈の出来事を物語化する力を考えるが、バシュラールはそれを形成的想像力と呼び、もう一種の、今言った物質に接して働く夢想、「物質的想像力」と言う物を考えている。
 私たちが水を見て感じる快感は、その流動性、透明性、流れるリズム所狭し、人間の「物質的想像力」を掻き立てるものとしている。西洋では水は文法的に概して女性である。そしてまた「母」であるが、一方は若い水の妖精、ギリシャ神話で言えばニンフ、北欧神話ではオンディーヌがいる。
 とにかく漱石はよく女性と水を一緒に書く作家だった。当時、藤村操と言う学生が、人生は不可解なりと言って、日光の華厳の滝から、投身自殺した事件があったが、漱石は早速、操を女性に見立てて「水底の感」と言う詩を弟子に送っている。また紅葉の「金色夜叉」でも塩原の段に、貫一が夢にお宮の水死体を見るところがある。

 とにかくオフィーリアはこう言う風に多様な意味を含む形象であり、そしてそのイメージを愛好した漱石の内部から表出するのは何も不自然でないことと思われる。

参考文献:大岡昇平ー水・椿・オフィーリア

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