夏目漱石 文学論(上)について 2/3

 『文学論/夏目漱石』の要約をここに残します。また、氏の著書における著作権は消滅しています。

<第二章 文学的内容の数量的変化>

第一章 Fの変化

 Fは数量的に変化する。幼少、少年、青年と認識力は次第に変化していく故である。ここでその認識力の変化は二様の特性によるものである。

識別力の発達

 個人の幼少時または人文未開の時は同一のFと考えていたのが、時期を経過して経験を積むにつれて、二個以上のFであると発見すること。すなわち一個の厭わしが識別力の発達に伴いF、F`、F”、と分岐し得る意味。

識別すべき事物の増加

 人間は長く生きていくなかで、多くのもの、新きものに接触したり、見聞したりする故の認識の増加。幼少時代の見聞と成人の見聞の違い。

・感覚的材料では、緑色を夏草の緑や常磐色の緑と認識したり、煙草をマルボロやキャメルと認識したりする。

・人事的材料では、怒りを怨恨、義憤、激怒と認識する。


第二章 fの変化

 前章にして如是増加することが判明した。では、これに伴うべきfはどのように増加していくのか。漱石曰くfの増加は三つの法則に支配されていると云う。

感情転置法(情緒の転置)

 これはAと云うFに伴って起こるfがある時、ある原因によりこのfは他物Bと云うFにも附着し来る現象。例えば雛鳥が毛虫を見て突き、驚き逃げることがあるとする。その後雛鳥は同様の場合に遭う時、決して同様の経路を進むことはなく、しかも同一の終点に達する。つまり図式化すると、

(見る→啄む→不快)→逃走  が転じ、

(見る→不快)→逃走 となる。

 これすなわち、不快なる感情を啄みから視る行動に転置する事となる。また、人間は欲望を満たし得て初めて満足の念を生じる。然るにこの満足の念を充欲より転置して金銭に及ばし、金を得れば直ちに満足の念を生ずるのも、転置法の一例。

感情の拡大

 fの推移では無く新しく出来たFに新しきfを附着し、その結果として文学の内容を富ましむること。例えば死というF、これには常に不快、恐怖などのfの伴うこと万人共通の性なるも、世の中が今日の如くに変移し来る時は進んで死を望む者を生ずる。これは決して転置にあらず、ただ、新しきFにfを附着し来るに過ぎない。

感情の固執

 すなわち(a)Fそのものが消滅する(b)Fそのものにfを附着する必要なきにも関わらず、因襲の結果、習慣上より従来のfを附着せしむる。

 (a)の事例では約束というものがある。約束より生ずる感情は約束の相手が死ぬと同時に消滅するが、時々吾人が依然として生前、死後同一の感情を以て約束に対する。剣を送った騎士であったり、夫が死んでも貞操を守ることは少なくない。これこそ情緒fの持続であり、情緒の固執という名を付けられる。

 また(b)の事例では神が挙げられる。


第三章 fに伴う幻惑

 文学に於けるfは一つにあらず。ここで三つに分割する。

⑴作者がその材料に対して生ずるf、及びその材料を取り扱う際に生ずるf、またこれを成就したるときに生ずるf

⑵読者が著書に対して起こすf

⑶作者の材料たるべき人間、禽鳥のf(無生物にはfが無いと仮定)

 また、別の分類方法を使って分類をしてみると、

 人事界または自然界にありて、

⑴直接経験をなす時のf(記憶想像のFに伴って生ずるf)

⑵間接経験をなす時のf(記述叙景のFに対して起こすf)

 上記の経験(直接・間接)をなす時のfについて下記に記す。


経験を成す時のf

 直接経験より生ずるfと間接経験より生ずるfは、その強弱及び性質に於いて全く異なることは勿論である。この差異のために、人事もしくは天然界にありて留意すべきな堪えづらく、聞きずらき、居ずらき境遇なども、これらを一回転して間接経験に改める時は、却って快感を生ずるに至る。つまり、普通美しきと思はぬもの、もしくは肉体的、精神的に欠くべきものも、一旦文学中のfとなり現れる時は、吾人はこれを少しも怪しまざるのみならず、時としてこれを歓迎する。

 この相違を来す原因として二つ挙げられる。

表出の方法

 著作者自身が与えられる材料に対する態度。Fが実際において不快を与えるFであっても、如何に取り扱い、如何に観じ、如何に表現するかによって、相違を生む。

読者の幻惑

 叙述詩文を玩味する批評家や一般読者がこの作家の手を経て与えられらる材料に対する態度。直接経験においては少しも趣味を生じす、不快なFを作物の上に読む時は、非常の興味を以て前後を忘却して賛美する態度。

 ①の表出の具合ということは、作家が文学的内容に対する態度、更に大きくすれば、作家の世界観、人生観に通ずる。以下には作家が、不快なる材料を如何に取り扱い、一種の幻想を吾人に与えるかについて話す。


[作家の材料に対する場合]

<感覚的F>

⑴連想の作用にて醜を化かして美と成すの表出法

 物体Fそのものは実際経験において不愉快なるも、連想により結びつけられたる観念と共に表出する時、その観念が美なれば、吾人がこれに対して生ずるfも美となる。

⑵事物その物は醜なれど、その描き方が如何にも巧妙にして思わずしてその躍如たる様子描写に打たれる場合

 吾人がこの際感ずるfは、醜態の描写そのものの技巧上に落ち来る。「不快だ」と感じるよりも、筆者の文章に「名筆なり」と讃嘆する辺に感興を生ずる。

⑶描かれたるFそのものは醜悪なる故に実際これを見れば直ちに嫌悪の念を生ずるにせよ、このFの奇警にして非凡なるに感心して、間接にこれを経験する時、吾人がこれを面白しと思うことあり(p199を参照)

 そして間接経験の際に吾人を支配する興味を解剖すれば、

 ①同種類のFを重ね得たる手際より起こる面白み

 ②奇警、警抜のFなりとの感より来る面白み  などがある

⑷醜怪なるFを写すにあたり、美なる部分のみを集めて描写し、その他醜悪なる部分は除き去る時(p200を参照)。

 蛇が具有する特定のうちについて、その美なるもののみを列挙し、その美の為に、他の醜なるものを隠蔽し去る。かくして、毒を吹く恐ろしさも醜さも、背景に押しやられて気づかない。

<人事F>

⑴前述(感覚的F)の規則は、この人事Fにもある程度応用し得べきものとす。更に前より一層有力に善を悪と捉え、悪を善と捉えることができる。しかし人事Fに於いて、その材料は判然たる区別を持たず、甚だ曖昧な分子を含んでいることを了承したり。尤も道徳なる見方を以て見れば、正反対の性質が同時に同様の資格を以て表出せらる

 例を幾つか出すと、一つにキリストの話がある。キリストは人の子の為に磔にされた男であるが、吾人が仮にキリストを言い伝える時に、気魂なく、熱情なく、卑屈にして弱々しい男と伝えることもできれば、何をされても抵抗をしない無上有徳の人物と伝えることも容易である。

 故にキリストを見る立場の異なるより、このキリストを解釈するに於いて、絶対的反対なる道徳的批判を彼に与える。

 例の二つ目に操を破れる王妃を君子が許すと云う作品がある。すると、一方では、妻の罪を憎みてそれを許す最高級の君子と見て取れる。しかし一方では、不貞の女性をかくまで庇護する馬鹿げた男である。

⑵躍如たる描写により読者の興味を喚起することあるは、尚お感覚的Fの場合と同じ。価値なき不快な人事もその描き方巧みなれば、これに対するもの、その内容の如何をさて置き先ずその作家の技量に感じ入る

⑶作家が不快なるべき、または自分に都合悪き部分を除去して叙述に快感を与しむる場合

 これは⑴の場合と似ている。その差を言えば、⑴はAを写してBともCとも任意に思わせる場合であるが、この⑶ではAを写す際に半面のみを写して他を捨てる。故にAは読者によりA’ともA"ともなり得る。

 ⑴は例えば、旅館にて財布を放り出して盗まれたとすれば、これを書くとき、この人を褒めるのも、責めるのも、作家の勝手次第である。⑶の場合は人情・人事の複合体より都合よきもののみ陳列する。ここに例を挙げると、若夫婦が叔父に結婚の意思を伝える場面。ここで情熱に駆られた夫婦に叔父は地団駄を踏むのだが、一見すると若夫婦を応援してしまうところだが、それは人事の表出の仕方が故であって、一歩退いて見ると、盲導的な若夫婦と分別の叔父となる。しかし作者がわざとこの一面を除去せるからで、叔父は嘲笑の内に葬り去られる。

 また、以上の⑴⑵⑶はどれも似た様な技巧であり、ほぼ同場面で使われると考えるべき。

<超自然F>

宗教的F、そのFは時と国によって異なること勿論なれど、これに伴うfは大概にして同様となる。但しギリシャの昔時に於ける八百万神を朋友の首領と捉えるfと、ユダヤ人の如く神に対し恐怖する分子の多きfとは差がある。

⑵宗教的ならざる超自然F。例えば妖精なども他同様類似のFについては、そのfも各々特色が有るが、詳述の余白なし。要するに、この超自然Fも感覚的F・人事Fと同様に表出法の手加減による。

<知的F>

 特別に論ずべきものなし。


[読者の作品に対する場合]

 如何なる心理現象ありて、如何なる幻惑を受けるか。文学的作品を読むにあたって読者の態度につき注目すべき二箇条あり。換言すれば直接体験が間接体験に変化する際二個の重要現象を生ず。

<情緒の再発>

 吾人が文学に対する時、一種の感動を受けるは無論のことにして、この際もしこの感動なければ、それは文学の主要成分たる情緒を欠くが故に、この文学は文学たる資格を失う。しからば如是文学の必須要素たる情緒は、その強弱の度合いが当時に経験した情緒と異なるのか。換言すれば、「情緒の再発」なるものは、当時の情緒と如何ほどの差異があるのか。例えば、吾人が月そのものを見て起こす情緒と、月を詠んだ詩歌を見て起こす情緒との違い。ここでは「百聞一見に若かず」を前提とする。

 元来情緒の再発とは人々により異なるものにして、多くの場合に於いて、情緒の記憶は殆ど不可能のことに属す。この方面の専門家は人々を三種に分かつ。

⑴情緒の記憶(remenber)は大部分の人々にありては不可能なり

 この部類に編入されたる人々は、文学に縁なき人々にして、世の中には頗る存在する。

⑵或人は半ば知的、半ば情緒的な記憶を有する。すなわちその情緒的分子は知的状態の連想力を借り、ただその一部分を想起し得る。

 これこそが真に文学を楽しみ得る人である。

 文学書中にあるFより己のfを部分的に再発する人々にして、この部分的にfを再発することが、丁度適度に文学を味わひ得る程度となる。すなわち直接経験と間接経験の差異はそのfの強弱に存し、この間接経験がその強さに於いて直接経験に劣るの事実は、文学の面白し一原因なり。

⑶極めて少数の人々は完全なる情緒の記憶を有す。

 この部類に編入されたる人々は、文学に容易に近づいてはいけない。恋愛小説を読んで癇癪を起こし、厭世文学に耽りて翌日に自殺する人々は皆この部類なり(藤村操の華厳の滝への飛び込み自殺)。

<除去法>

 表出法などの上述の如く故意、または無意識に多くの事実分子を閑却して文が出来るなれば、かくの如く一種の除去法の結果現れたる文学的作品に対し吾人が生ずるfは、その実物に対して感ずる情緒と質に於いて異なる。

 今少し読者が文学を読むにあたり行う除去法について論ず。

⑴自己関係の抽出

 自らの存在(自己観念)を悉く除去して、文学作品に対する故に、吾人は事実とは全く反対のfを生じ得る。

 例えば怪物が主人公として設定されている作品を読む時。読者の中には、悪漢なり、厭ふべき、と感じる人もあるかもしれないが、大部分の人々は彼を嫌う念よりも賞嘆するだろう。しかしもし仮にこの怪物がこの世界に存在し、当の敵とすると仮定してみると、吾人はその際に恐らく気味の悪さを感じ、畏怖を十分に抱くだろう。

 さて紙上の怪物と実際の怪物に対する情緒の差は著しい。果たしてこれは何に基づくべきか。それはやはり自己関係の抽出である。紙上の怪物は我を敵と気遣いなく、これを敬して遠ざかる必要なし。すなわち吾人の自己観念に何等関係を有せざる。故に吾人の利害問題に打算するの必要を認めず。

⑵道徳的要素の抽出

 これは読者が必ず抽出するというのではなく、することが出来るというのみ。従って前の如く実際と読書の上に全然反対の結果を生ずるとは断言し難い。

 例えば或人が噴火口に飛び入るが如し。この事実を聞く、もしくは読むの一方に於いて頗る熾烈の感を生ずるに関わらず、もし吾人が実際に彼の死せんとするに立ち会うならば、吾人は我が熾烈美の満足を得んが為に死を傍観すべきか、あるいはこれを救うべきか。

 これを救うとせば吾人は道徳の義に駆けられたるなり。それは同時に壮大の情緒を犠牲にすると同じである。すなわち直接経験にあっては道徳心を脱却し難きも、間接経験に変ずる途端にこれを抽出し去る故に、この差異を生ずる。

*文学賞玩の上に於いて道徳的分子を除去しようとすれば所謂”Art of art"派、純芸術派の説に帰すること必然とす。(芸術は芸術のためのものであって、それ以外の[例えば道徳上の]配慮は必要ないとする考え方)

 ここにおいて道徳家対芸術家の紛争絶えることなし。


 この善悪の抽出を以て、文学の或部分の賞玩に欠くべからざる条件を二つ提示する。

⑴非人情(俗世の人情・不人情を超越した自由の境地)

 例:「李白一斗詩百編、長安市上酒場に眠る」と云う文は、李白の自堕落を書いたものだが、人は文学だと認識しているが故、不徳だ、と怒りはしない。

⑵道徳的分子の当然混ざり来るべき問題なるにも関せず、読者がその道徳的方面を忘却してこれを味わう場合

 不道徳な文学は同情を寄せ難い。しかし現代に於いて、そう云う文学が残っているのは何故かと云うと、吾人は実際に於いて道徳的なれども文学上または文学を味わう時のみ不道徳になるから。

(a)吾人は作家の表出法に幻惑せられて善悪の標準を転倒し、同情すべからざる人物に同情し、あるいはこの同情を一方にのみ寄せて全然他の一方を閑却することがある。例としてp239の男女の三角関係を挙げると、読者はある程度まで読んだ時、不道徳の方面に向かって一歩進む。この狂女を殺して、相思の情を遂げなさいと。つまり吾人は文章を賞玩するにあたり、常にこの意味に於ける不道徳を犯すものにして、所謂健全の趣味を解する作者も読者も共にこの偏重を免れ能はざる。

(b)前節は読者の道徳標準が当を失って、その同情の分配公平ならざる場合なり。されどこれから説かんとするところは、読者が或文学的作品に対し、その道徳的情緒の全部を脱却するとして、評家が普通崇高、滑稽、純美感などと賞するものすなわちこれなり。

Ⅰ崇高

 凡そ自己以上の勢力——精神的あるいは肉体的——に対して生ずる感情は全てこの名称の下に総括し得べく、この力もし潜伏の状態にあればとにかく、一旦事実に出現する時は一面に創造的なると共にその裏面に必ず破壊的勢力を包むものとす。また、一旦間接経験として自己観念を除去する瞬間に於いて、かかる道徳的fは消滅して、唯荘厳となり、猛烈なるを見る。p246の引用に於いては、道徳fの当然占めるべき位置を審美的fが横領したるもの

Ⅱ滑稽(落語)

 文学の不道徳分子は道化趣味と相結ばれて存することあり。この趣味に「道徳の除去」の常に行はれるは真なり。一番の例は落語。卑猥にして君子の耳に容れ能はざる小噺も、これを表出する方法宜しきを得れば女色その物にfを止むることなく、これを用いてその目的とする道化趣味を巧みに生ぜしむることを得るものなり。

 沙翁の描出せるfalstaffに対する時は誰人も暫く堅苦しき道徳情緒の支配を離れ無邪気なる滑稽情緒に耽るの尤も自然なるを発見すべし、誠に善悪除去の適例なり。

Ⅲ純美感

 裸体画問題が良い例。何れの画館も何れの展覧会も問わず、当然に風紀を乱すべきこの種の裸体画は今も陳列せられているのは何故か。それは同一のFに対して起こるfの質的差異が原因している。吾人現在の社会にありては裸体を一個の道徳的Fとして観察するが、これに反し絵画の上に見る時は単に感覚的Fとして見る。道徳と美感を区別して、一の世界より他の世界に移る時未練なくこれを忘失する。


 <第四章 悲劇に対する場合>

 読者のfを論ずるに当たり、吾人は先ず第一にその数量的に異なるを理解し(第二章)、次にその性質上の差異を理解した(第三章)、そして今最後に特別の場合として舞台上苦痛の表出に対する読者あるいは観客のfの特性を解いていく。すなわち悲劇に伴うfである。

 実際の世にあって人々は悲劇を避けようとするのは当たり前のことなのに、書物の上、舞台の上に移せば面白いと感じるのはどうしてだろうか。その理由としては直接、間接経験や自己観念の除去などがあるが、これ以外に尚一種特別の根底がある。

⑴先ず前提として人間は動物であり、活動そのものはある意味に於いて吾人の生命の目的である。故に、活動禁止の状態になれば、人は勿論不快を感じる(囚人や暗室禁錮)。しかし本当に自分が囚人になったらどうだろうか。もしそうなれば恐らく、生死の判然としない石の如き一塊になるよりはもしろ苦痛を自覚して生命の確証を得んと欲するだろう。まさにこれが人情である。

 更にこれは演劇を鑑賞する際にも適用される。演劇は人生の再現であるから、観客である吾人も人生の実在を明瞭に意識する。そして悲劇に会った時、この功尤も顕著となる。悲劇の関する所は生死の大問題であるのは当然の事で、当然苦痛に思われるが、この苦痛とは演劇上から伝播した仮の苦痛であり、仮の苦痛である。仮故に一大安心あり。つまり悲劇は吾人の存在の意識を盛んならしむが、これは虚構の苦痛なので安心という快感も同時に得るのである。これこそ吾人が好んで悲劇に赴く第一理由である。

⑵次に人間は冒険性の人間である。沙翁の言葉に<野兎を驚かすよりライオンを呼び起こす方が血が騒ぐ>とあるように、危険を犯すのを好む。しかし思ふに、吾人は危険その物を好むのではなくて、この危険に打ち勝った時に、自己の力を自覚して、これに伴い生ずる快楽を求めているのである。つまり苦痛は目的ではなく、苦痛後に来る快楽が目的である。文学や演劇においても、その性質は適応される。

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