芥川龍之介(3) 「蜃気楼」についての感想及び考察1/2

<その1>

 芥川龍之介の晩年の心境小説「蜃気楼」(『婦人公論』昭和二年)には、周知の如く、初出時には「或いは「続海のほとり」」なる副題が付けられていた。それは今作品には、一年前の彼の作品——初めての心境小説である「海のほとり」(『中央公論』大正十四年)との繋がりが意識されていたからであろう。「海のほとり」は芥川が作家活動を開始したばかりの、大正五年初秋の上総一宮海岸での体験——大学卒業後の夏休みを久米正雄と共に過ごし、師である晩年の漱石との有名な書簡の往復もあった、懐かしくも輝かしい時期を扱ったものであった。

 一方「蜃気楼」には、それより十年後の大正十五年秋の鵠沼(くげぬま)海岸滞在時の体験が使われている。この時期の芥川は、作家、生活者としても、健康的にも、まさに「行き暮れた」状態にあった。ともに海のほとりの体験を描いたとはいえ、時代も隔たり、場所も同じではないのに、何故『続』の語で二つの作品は結ばれる必然性があったのであろうか。

 人生の光と影を、場所こそ違え、同じ海浜のリゾート地滞在の体験を描いて、際立たせようとしたのであろうか。作品の素材や内容に関して言えば、それは大いに有り得ることである。しかし、その背後に、作品の方法の問題も微妙にカランb寝いたのではなかろうか。二作品とも、芥川の晩年に目立ち始めた、自身の身辺に取材した心境小説(或いは私小説)である。その意味であまり芥川らしくない小説である。にも関わらずこれらは、一方で如何にも芥川らしい「種本」のある小説でもあるのである。即ちこの二作品は、種本のある身辺小説という矛盾を持った「心境小説」なのである。知られているように、晩年の芥川は、谷崎潤一郎との「小説の筋」論争で、「「話」らしい話のない小説」「最も詩に近い小説」「最も純粋な小説」として志賀直哉の諸短編——「焚火」以下の諸短編を称揚したが、その「焚火」こそが、この二つの芥川作品の種本であることは、既に多くの指摘のある通りである。「焚火」は「山の生活にて」の原題で大正九年四月『改造』に発表されている。芥川の二作品の素材としての体験のあった、大正五年と同十五年の丁度中間の時期に発表されたことになる。何故大正九年の作品が、大正五年の体験を書いた「心境小説」の種本になりうるのか。今回は、この奇妙な逆転、或いは拗れを解き明かしていこうと思う。

<その2>

 「海のほとり」は次のように書き始められる。

......雨はまだ降り続けていた。僕等は午飯を済ませた後、敷島を何本も灰にしながら、東京の友だちの噂などをした。

 一方「焚火」は次のように始まっている。

其日は朝から雨だった。午からずっと二階の自分の部屋で妻も一緒に、画家のSさん、宿の主のKさん達とトランプをして遊んでいた。部屋の中には煙草の煙が籠もって、皆も少し疲れてきた。

 なんとなくよく似た叙述であることだろう。作品としては志賀作品が早い以上、「「焚火」の題材と手法を露骨に追いながら」芥川が「海のほとり」を始めていることは、否定できない。「焚火」発表以前の芥川の体験が、「焚火」の主人公等の行為に倣って叙述されている。天候や時間や気怠い昼下がりの雰囲気までが、後の時間に属する作品によって模倣され整序されているのである。

 因みに「焚火」は、大正四年初夏、前年末結婚したばかりの志賀夫妻が、赤城山大洞の猪谷旅館滞在中のある日の出来事を描いたものである。「創作余談」には「前半は赤城山で書き、後半は四五年して読むと案外かけているように思われ、後半を付け、雑誌に出した」とある。四五年前の出来事を四五年後の気分で統一して書いたもののようである。赤城山滞在時の志賀夫妻は、里見純宛の当時の志賀書簡などからもわかる通り、夫婦揃って(とりわけ妻の方が)神経衰弱気味で、その治療を兼ねての滞在であった。無論其の背景には長年に渡る志賀とその父の確執があった。父の意に添わない彼の結婚は、その確執を一層激しくし、妻の神経を病ましめたのである。しかし、四五年後の執筆時には、既に父との和解(大正六年初秋)も成立して、志賀自身周辺との調和的気分の中にいた。「焚火」に見られる人や自然への親和的な気分には、作者の執筆時のそのような状態の反映もあるであろう。「海のほとり」の方はむしろ逆で、執筆時には、二年後の自死に繋がる、作者の精神上肉体上の不調がようやく顕著になり始めていた。のような執筆時の気分の差が、「焚火」とは違う「海のほとり」のオリジナリティーを形成することになるのは当然であろう。だが、それに触れる前に、先ずは芥川が志賀作品から取り込み、自身の過去の体験を整序し或いは虚構をも施したであろう部分を見てみよう。

「焚火」には昼のばねんと夜の場面から構成されているが、芥川の二つの作品も、全くそれを踏襲して構成されている。「海のほとり」は三節からなるが、1・2が昼の場面で、3が夜の場面である。

・1ではMが「僕」と「東京の友だちの噂などをした」後、「さあ、仕事でもするかな」と、次の間に創作の仕事のため姿を消すが、これは「焚火」で雨が上がったのを確認してKさん、Sさんが「私、一寸小屋の方をやって来ます」「僕も描きに行こうかな」と「自分」ら夫婦の部屋を去っていくのと対応している。ついでに言えば、友人達をアルファベットで記すのも「焚火」の手法の踏襲である。尤もこれは、志賀に限らず、『白樺』の連中が、私小説的作品で既に使いならした手法でもあった。

・2は一時間後「僕」とMが海に泳ぎに出て、同じく泳ぎに出た二人の少女の客と出会う場面であるが、ここで「僕」とMとが「泳げるかな?」「けふは少し寒いかもしれない」などと会話を交わすのは、「焚火」の夜の場面で、湖がいつ頃から泳げるのか、水浴の可能な時節について「自分」とKさんが問答する場面を意識した会話であることは間違い無いだろう。また一人海に入ったMが、水母に刺されて逃げ帰るのは、「焚火」のKさんが、尺取虫に驚いて森から飛び出す行為の「模倣」とも言えよう。

・3はその日の夜の場面であるが、果たして芥川自身が大正五年初秋のある一日に、1・二に描かれたようなことと、3に書かれたようなことを同時に体験したかどうか、または別の日に体験したことを一日の出来事に纏めたのか、更には虚構の体験を「焚火」に触発されて主人公達にさせたのか、事実のところは不明である、しかし、「焚火」との対応を見ていくと、上記三つの推測のうち、最初のよりは二番目、三番目の推測の方により信憑性があるように思える。一方「焚火」はどうか、これも三つの可能性を否定することは出来ないが、おそらく「焚火」には「海のほとり」に於けるような種本はなかったであろうし、昼から夜への叙述がいかにも自然である。雨上がりの夕暮れの登場人物等の親和的な会話や、前日の同じく雨上がりの美しい夕暮れの中で、皆で木登り遊びをした楽しい思い出が、自然に「自分」の「晩、船に乗りませんか」という提案に繋がり、皆んな賛成して、その夜四人で湖に船で乗り出す行為へと繋がっていくのである。其に比べると、「海のほとり」では、昼間の出来事と、夜の出来事にはほとんど必然的なつながりが見られない。「焚火」の叙述の方が事実「らしく」思われる所以である。

「海のほとり」の3には、事実「焚火」との対応関係が著しい。この夜「僕」とMは、この街に帰省中の友人Hと宿の若主人Nさんがそれぞれの用事で出かけるのに、途中まで散歩がてらについて行くのであるが、彼らの会話や行為には「焚火」を粉本とするものが多いのである。土地っ子のHに主人公等が海蛇のことを尋ねたりする会話は、「焚火」の主人公等がKさんに蝮や山犬のことを尋ねたりする会話を彷彿とさせるし、Nさんの煙草の火は、「焚火」のKさんらの其とイメージが重なり、Nさんがながらみ取りの男に「風呂にお出で」と声をかけるのは、「焚火」のKさんがお札売りに「お湯にお入りなさい」と声を掛けるのと全く同じである。ながらみ取りの幽霊の正体の話は、「焚火」でKさんの言う大入道の正体の話とパラレルであり、「僕」とMが他の二人に分かれて引き返す時の会話の「僕等ももう東京へ引き上げようか?」は、「焚火」に於ける妻の「もう帰りませうか」と呼応する。「うん、引き上げるのも悪くないな」と答えるMが「気軽さうにティッペラリイの口笛を吹」くのは、場面こそ違え、「焚火」のSさんが、船を漕ぎながら「ドナウ・ウェレンの口笛を吹」く行為のなぞりであろう。このように見てくると、3の場面が全て芥川の実体験に基づくとは容易には信じがたいことではあるまいか。とすれば、東京から来た入り婿Nさんの家付きの細君が、去年の夏男を拵えて家出したことも、案外事実ではなく、「焚火」のKさん母子を苦しめた、前橋辺に若い妾と住んだと言う父親から思いつかれたとも考えられる。よしんば事実としても「海のほとり」ではNさんのこのような境遇は、小説的には何の意味も持たされていないので、依然として「焚火」に引き摺られて書かれたに過ぎないとも言い得るのである。

「海のほとり」は、無論上記のような借り物の部分ばかりではない。作者が「焚火」の枠組みを借りながら意を用いて書き込んだのは、既に指摘されているように、「僕」の夢の部分であろう。1でMが仕事のため隣室に赴いた後、主人公が昼寝のうちに見る「短い夢」の話である。自分の寝ている座敷の雨戸をたたき、お願いがあると言って起こそうとする声を、始め「僕」は日頃嫌っているKという男だと思うが、如何やらそうではなさそうで、声は「唯私の友達に会はせたい女がある」という。急いで雨戸を開けて、庭の潮入の池に泳ぎ寄る「一匹の鮒」を見出し、「ああ、鮒が声をかけたんだ」と納得するというものである。その納得の仕方は「つまりあの夢の中の鮒は意識下の我と言うやつなんだ」と言うもので、芥川晩年に於ける無意識の問題に直結するため、取り上げることの多い部分である。芥川が「芸術活動はどんな天才でも、意識的なものなのだ」「無意識的芸術活動とは、燕の子安貝の異名に過ぎぬ」と「芸術その他」で揚言したのは大正八年であるが、その信念への亀裂が認められる、格好の素材になっているからである。

「海のほとり」2はこれを受けて、Mと海へ出た「僕」を、二人の水着姿の少女に合わせている。まさに夢のお告げである。少女達は「寂しい残暑の渚と不調和に感ずるほど華やかに見え」る、「人間よりも蝶の美しさに近いものだった」。言うまでも無く青年の識域下の欲望を見させる、幻影に近い形象である。夢の中の声が言った「私の友達」とは恐らく「僕」自身のことであろうし、「会わせたい女」がこの二人の少女のいずれかであろう事は、小説の流れが、自ずから示唆するように思える。少なくとも作者が、無意識というものを、このような形で、「意識的」に描こうとしていることが推測されるのである。芥川にとって、無意識のテーマも依然として未だ知的、意識的処理の対象だったように思われる。

 このような夢、或いは無意識のテーマは然し、芥川固有のテーマではない事は言うまでもない。フロイトの心理学や、その影響下にあったシュールレアリスムの同時代的な影響が論じられるのも当然である。然し、確かに芥川の当時の知的センサーが、このような世界の共時代的関心事に敏感に感応している事は認めても、創作に於いて彼を突き動かしたのは、やはり創作そのものではなかっただろうか。「焚火」でも「夢」は大きなテーマとしてあった。夜中に雪山を越える息子の難渋、危機を、夢に感知した母親が、迎えの人々を送り出す話は「焚火」のまさにハイライトの部分で、芥川が、これを少しも意識しないで、「僕」の夢の話を描いているとは思えない。唯志賀の作品では、このような夢の話が登場人物達に、共感的に受け止められているのに反し、芥川の知的作風は、Mに少女達を露骨に品評させて、「僕」の夢を相対化してしまっている事は否めない。なお、創作の影響と言う事で言えば、「僕」の夢の部分の具体的描写には、「焚火」より、漱石の「夢十夜」の方が、遥に大きな影響を及ぼしていると言えるのではなかろうか。雨戸の外の声を、「ああ、鮒が声を掛けたんだ」と納得するあたりの呼吸は、「夢十夜」の呼吸そのものではなかろうか。芥川という作家は、種本を固有の創作に作り替える工程に於いても、幾重にも更なる種本が必要な作家であったのだ

<その3>

「蜃気楼」はより明快に昼の場面と夜の場面から構成される。作品は1と2から成るが、1が昼の場面で、2が夜の場面である。両節に描かれた事が実際の或一日の出来事であったか、別の日の出来事のコラージュであったか、あるいは多分にフィクションであったのかは、この作品でも依然として不明である。唯「海のほとり」と違い、「焚火」の後に書かれたものであるだけに、「自然が芸術を模倣する」側面があったとしても不思議ではない。ともあれ冒頭は、

或秋の午頃、僕は東京から遊びに来た大学生のK君と一しよに蜃気楼を見に出かけて行った。

の一文で始まるが、「海のほとり」と似通っているとは言え、「焚火」からの離陸度は此方の方が高いと言えるであろう。事実、1の部分で、「焚火」をそのままなぞるような叙述は殆どなく、鵠沼海岸へ蜃気楼を見にいく一行が、「僕」のほかK君と、近くに住むO君という、親和的な三人連れという事くらいが、目に付く類似点であるといえよう。唯帰路O君が砂の上から拾い上げた「黒枠の中に横文字を並べた木札」の主に関する、以下のような「僕」の「想像」は、「焚火」がなければ、或いは出て来なかったかも知れない。

「さあね。......然し兎に角この人は混血児だったかも知れないね。」      僕はK君に返事をしながら、船の中に死んで行った混血児の青年を想像した。彼は僕の想像によれば、日本人の母のある筈だった。

「焚火」の該当部分は、既に「海のほとり」でも引き合いに出した、Kさんの母親の神秘的な夢に関わる話である。「混血児」という推測はここでは関連がないので後に回すとして、船で死んだ青年の木札(霊魂)が、母の国の渚に慕い寄るという想像は、母と子の情、絆の強さを言うもので、まさに「焚火」に言う「Kさんとお母さんの関係」の変奏に他ならないであろう。

「蜃気楼」に於いても、1・2即ち昼と夜の繋がりは、余り必然的なものとは思われない。「海のほとり」同様「焚火」の枠組みに囚われた要素が多いように思われる。「焚火」では既に述べたように、昼間の、「自分」と妻、kさん、Sさんの四人の親和的な関係が、夜の行動に繋がり、さらにこの同じ四人の親和的な関係が強調されるという構造になるが、芥川作品では、昼の部と夜の部ではメンバーまでも異なってしまうのである。「海のほとり」では、昼は「僕」とM二人の関係が中心だが、夜には四人になるし、「蜃気楼」では何方も三人ずつながら、昼に登場した大学生のK君が、夜には妻と入れ替わっているのである。主人公の妻が登場するという事は然し、「焚火」の構成メンバーに近づく事であり、その分「蜃気楼」の2は「焚火」との接点をより多く持つ事になるようである。

 2は上記の三人による夜の鵠沼海岸の散歩の場面であるが、間も無くO君が「波打ち際にしゃがんだまま、一本のマッチを灯して」砂の上に打ち上げられた海草などを照らし出すという行為をする。これはおそらく「焚火」でSさんの、Kさんが怯えた虫を、暗闇の中にマッチを擦って確認する場面を援用したのであろうと思われる。O君の行為はやがて「意識の闇の外」つまり無意識のテーマを引き出すものとなるが、ここでは「焚火」との比較の上でもう一つの別の意味を読み取る事もできるのではないかと思っている。「焚火」では船から上がった一行が、焚火をして遊ぶシーンがあるが、先程のSさんの行為もその焚火の準備中の一コマであった。焚火のシーンは「焚火」という作品の中核をなすもので、この作品が書き出そうとする人と人、また人と自然との親和的な関係を象徴するものでもあった。焚火を真ん中にして人々がこれを取り囲み、お互いに顔を白くして談話に花を咲かせる、まさに炉辺談話、炉辺の幸福を、原始に遡って自然の闇の中に再現したものであった。ここで語られた幾つかの不思議な話の中心に、これまで再々話題にした、Kさんの危機を救ったお母さんの神秘的な夢の話があったのである。「蜃気楼」のO君のマッチの火は、この焚火のミニチュア的意味合いを背負っているのではなかろうか。湖と海の違いはあれ、いずれも水辺の原始の自然の暗闇の中に放たれた火である。これを取り囲む人々は、果たして同じく炉辺の幸福を味わう事ができたのか。然し焚火の火に比べて、近代的なマッチの火は、余りに小さく且つ儚い。安心よりは不安をむしろかき立てずにはおかないだろう。

「海のほとり」と同様、夢の話も登場する。「僕」がO君に語る昨夜の夢である。夢の中で話をした「トラック自動車の運転手」が、「三四年前にたった一度談話筆記に来た婦人記者」の顔をしていたというものである。テーマは同様無意識の問題に繋げられて行く。

「けれども僕はその人の顔に興味も何もなかったんだがね。それだけに返って気味が悪いんだ。何だか意識の閾(しきい)の外にもいろんなものがあるような気がして、......」

 志賀という人も、特に若い頃は気味の悪い夢によく悩まされた作家であるが、「焚火」における夢は、このような主人公の気味悪さには反転しない。むしろ共感的にその不可思議が受け止められていた事は、既に見た通りである。「蜃気楼」では「焚火」の素材が、このように主人公「僕」の気分に汚染され、反転あるいはズラして使われる事が多いようである。先程のマッチの火の場合も、これを焚火のイメージの反転、あるいはズラして読むことも可能である。次のような例も同様であろう。

 砂浜の夜の散歩も終わり近く、「僕」が一つの「錯覚」に囚われる場合がそれである。それは「僕」達の方へ向かって早足に歩いて来る背の低い男の、巻煙草の火を「ネクタイ・ピン」と間違えたというものである。闇の中に光る煙草の火については、「焚火」に印象深いシーンが描かれている。

皆は別れ別れになったが、KさんやSさんの巻煙草の先が吸う度に赤く見えるので其居る場所が知れた。

焚火を始めることになり、四人がそれぞれ薪や白樺の皮を集めに、闇の中に散った時の描写である。この時巻煙草の火は、その美的側面だけでなく、仲間の確かな存在を見るものに伝え、安心と親和感の付与に大いに与えているのである。片や「蜃気楼」では、「僕」がそれを錯覚し、不安に陥れられ、人間存在や人間の認識の不確定さを確認するに終わってしまうのである。

 作品の終末が、散歩者(遊行者)達の帰宅で終わる事は、この作品も「焚火」を踏襲しているようであるが、「焚火」終末の著名な美しい描写——皆で燃え残りの薪を湖に投げると「上と下と、同じ弧を描いて水面で結びつくと同時に、ジュッと消えてしまう」というような——に見られる安心感、自然との親和感は、芥川作品には望むべくもない。

僕等は気軽にO君に別れ、松風の音の中を歩いて行った。その又松風の音の中には虫の声もかすかにまじっていた。                      「おぢいさんの金婚式はいつになるんでせう?」              「おぢいさん」と云ふのは父のことだった。                 「いつになるかな。......東京からバタは届いているね?」           「バタはまだ。届いているのはソウセェヂだけ。               そのうちに僕等は門の前へ——半開きになった門の前へ来ていた。

「松風」あるいは「松林」というものは、芥川作品では主人公達に親和的或いは安らぎの気分を与える小道具として使われる事が多いが、「蜃気楼」ではしばしば描き込まれるものの、その効力がすぐに否定されるためだけに使われているようである。直後の何気ない夫婦の会話から伝わって来るものは、「僕」の何事も片付かない、中途半端な気分だけである。その象徴のように、彼らの前に「半開きになった門」が現れることになるように思われる。

 後半へ続く。

参考資料:「蜃気楼」——種本のある心境小説/滝藤満義

      蜃気楼/芥川龍之介(『婦人公論』昭和二年)

      海のほとり/芥川龍之介(『中央公論』大正十四年)

      焚火/志賀直哉(『改造』大正九年)

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