二葉亭四迷(5) 二葉亭四迷の翻訳

 東京商業学校を退学し、文学活動(『浮雲』など)に身を投じた二葉亭だったが、小説の執筆とほぼ並行してロシア文学の翻訳にも取り組んでいた。最初の企てとして、本人や坪内の回想からツルゲーネフの『父と子』をある程度訳し、『虚無党気質』という表題で刊行しようとしていたことが分かるが、何らかの事情で出版されていない。またゴーゴリの短編を翻訳して坪内に見せたこともわかっている。夫婦の会話の口調をめぐって、坪内と論争になった経緯はよく知られている。坪内は二葉亭の訳し方が余りに下卑ていて「裏店調」だと批判したのに対し、二葉亭は、西洋の夫婦は平等だからその様に訳す必要があると抗弁したのである。

 日の目をみたのは、明治二一年(1888)のツルゲーネフの「あひびき」と、同作者による「めぐりあひ」の訳である。前者は『猟人日記』の中の短い一エピソードを訳したもので、後者は現代が『三つの邂逅』という短編小説を訳したものであった。

 どちらも短い、軽い作品であったが、これらの翻訳——特に「あひびき」——が当時の日本の文学者や知識人に与えた衝撃は『浮雲』に劣らない、或いは『浮雲』以上のものがあった。よく知られているのは国木田独歩の『武蔵野』の中での言及で、「あひびき」から長々と引用した上で、落葉林の美しさを理解できる様になったのは此作品のお陰であったと語っている。他にも田山花袋や柳田國男ら、多くの若い文学者に広く愛読された。

 だが、今日の読者がこれらの訳を読んでみてまず異様に思うのは、訳語として単に英語を与えたり、あるいは——これは「めぐりあひ」の特徴だが——無数の長々しい注釈を伴ったりする異形の訳文である。例えば、「あひびき」では、男はTur-quoise製の飾りのついた指輪をしているし、娘は彼にBurmarigoleの花を摘んで渡す。「めぐりあひ」では「すかし戸」と訳しておいて、それに「原語は『ジヤアルウジイ』とって板片を幾枚も合わして透かせる様に作った窓の戸の一種です此訳ハ未定」(第二巻二三頁)という詳しい、やや持って回った注釈が付いている。

 訳出にあたって、原文をなるべく完全な形でそのまま移す、そのためにはコンマ一つピリオド一つも落とさないと述べたのは有名な話で、彼の翻訳を研究する際にしばしば言及されていることである。

「外国文を翻訳する場合に、意味ばかりを考へて、これに重きを置くと原文をこはす恐れがある。須く原文の音調を呑み込んで、それを移すやうにせねばならぬと、かう自分は信じていたので、コンマ、ピリオドの一つをも濫りに棄てず、原文にコンマが三つ、ピリオドが一つあれば、訳文にも亦ピリオドが一つ、コンマが三つという風にして、原文の調子を移さうとした。殊に翻訳を為始めた頃は、語数も原文と同じくし、形をも崩すことなく、偏へに原文の音調を移すのを目的として、形の上に大変苦労した。」(「予が翻訳の標準」第四巻一六七頁)

<では二葉亭以前の翻訳はどの様な形式だったのか>

 明治初年度には多くの欧米文学作品が翻訳された訳だが、その全ては実際には、筋を大幅に変えたり、登場人物の名前を日本風にしたり、設定や舞台を変えたり、時には大きく異なったストーリーにしてしまうという「翻案」であった。そういう翻訳は「豪傑派」と言われたりした。それがやがてだんだん原文に「忠実な」訳が翻訳の正しいあり方だと思われる様になっていった。「密集文体」と呼ばれるものが、藤田鳴鶴らの『繋思談』によって出現し、その後の翻訳の標準文体になるのである。

 「豪傑派」翻訳はプロット、設定、舞台の変更などを自由に行った訳だが、そうした改変は文体の変更と補完しあっていた。それらの翻訳は全て白話小説、または江戸の読本のスタイルおよび文体で行われたのだが、それに応じて、白話小説ないしは読み本流の物語に内容的にも読み替えられたのである。文章としては漢文書きくづし体であったし、各章は必ず漢文による外題を持っていた。例えば、当時、最も影響力の強かった翻訳の一つである、丹羽純一郎訳の『花柳春話』(明治十一年)の冒頭を見てみよう。

第一章 猟夫モ亦能ク窮鳥ヲ憐ム 世人疑休メヨ李下ノ冠           爰ニ説キ起ス話柄ハ市井ヲ距ル凡ソ四里許ニシテ一ツノ荒原アリ。緑草繁茂、怪石突凸、......

『花柳春話』はブルワー・リットンの『アーネスト・マルトラヴァーズ』(1837)と『アリス』(1838)を組み合わせて訳したものだが、此冒頭は『マルトラヴァーズ』の書き出しに相当している。原文は直訳すると以下の様になっている。

18??年、英国北部の工業都市の一つから四マイルほど隔てたところに、大きな荒れ果てた公有地があった。これほど荒凉たる場所は考えるのが難しいだろう。黒くて石だらけの土から草がぼうぼうと生えていた。......

 これらの対比から分かるのは、訳者の理解の範疇で、原文が、馴染みの深い漢文の定型的表現に置き換わっていると言う事だろう。そして、その定型的表現に従うため、原文には見られない様な語句が挿入されている。また、白話小説の語りの語りに合わせるべく、「爰ニ説キ起ス話柄ハ」などと言う決まり文句も付け足されているのである。

 こうして、明治初期の「豪快」な外国文学翻訳は、概ね白話小説ないしは読み本の「期待の地平」に合わせて読み替えられていった訳だが、これが白話小説・読本ではなく、黄表紙なり人情本なりのスタイルや内容に移し替えられてはならなかった内的必然性は何もなかったと言って良い。それが選ばれず、白話ないし読本の形式が採用された理由は後者が外国種とそもそも結びついたジャンルであったからと言う以外の何物でもないだろう。そして、明治になって「文学」と言うものの創作を担う事になるのは、戯作の流れを汲む作者たちではなく、白話の物語を生産していた士族層の後継者たちであった。それは、概ね旧士族層が西洋の文芸へのアクセスを独占していたと言う事態とも対応している。

 その彼らに、物語を語る文体として、話し言葉と書き言葉の一致などと言う非常識な課題が課せられた時、これらの作家や翻訳者が当惑し、右往左往したのも当然のことだろう。「俗語」の採用ということが言われた訳だが、既に述べた様に、それは新興の中上流階級の話し言葉と、彼らが許容する範囲での俗語(下町言葉)を、文章語として取り込む作業に他ならなかったのだ。そのことは、例えば、二葉亭と並んで言文一致体の創設者であるとされる山田美妙の次の述懐を見れば明らかだろう。

何さま下流の語法は簡略かもしれません。だが、どうも伴ふ第一の弊と云ふのは語気の荒っぽいことです。それは元々下流の語法である故、仕方のないことです。この荒っぽく、ぞんざいな処を直すやうに目立たせぬやうに為ると自然に普通語法から離れてきて、夫では折角言文一致にした甲斐がありません。ことに簡略である無くもよくよく見れバ大した事でも無く、上流中流の語法に比較してほんの僅かバかりの相違であるのです。すると差引きしたところで其弊で其利は掩へず、終にこの下流の語法は用に立たぬと見究めを付けました。(......)それで上流か中流かの内で選ぶと、中流が前後によく通して丁度いい頃合いで、夫からしても私も「ぬれ衣」、「胡蝶」いずれも中流にしました。続いて嵯峨のや、思案、漣などの人々及び其他も大抵この風に為った。(「言文一致体を学ぶ心得」六三二頁)

 言文一致体の真の目標は、二葉亭も含めて文章改良論者たちがそう考えていた様に書き言葉と話し言葉の一致には無く、新たな文章語の創出と標準化にあったことは、既に『浮雲』を分析した後では明らかだろう。ここでさらに明らかになったことは、それが、新たに形成され力を強めつつあった中流階級を代弁しうる語りの文体と会話文を標準として確定する作業だったことである。そうした中から二葉亭の「だ」体や、山田美妙の「です・ます」体が、さらには、明らかに話し言葉ではない紅葉の「である」体が生まれてくるのである。それはつまり標準的な、「国民」的言語としての文学的言語を創出する過程だったのだ。

<二葉亭の場合>

 こうした文学的言語の創出を、二葉亭は『浮雲』や初期の訳業を通じて、試行錯誤を繰り返しながら、作り上げていった。それはもちろん困難な作業であったが、中流の「国民」の意識を巧く表現する様な文体を提供することに成功したからこそ、二葉亭の、特にそのツルゲーネフ訳は、冒頭でも挙げた様な強い感動と刺激を同時代の文学者たちに与えたのである。——彼らの多くはその様な階級的出自と、それに応じた文学的立場を持っていたから。 

 しかし、二葉亭が翻訳に於いて直面していた困難は、新しい文体の創出の問題だけではなかった。もっと単純な、だが、同じく大きな困難を伴う、語彙論的問題があった。それはレアリア(言語外知識)の関わる事で、つまり、そもそも日本文化・社会に事物として存在していないものは訳しようがないという事態である。

 例えば、「あひびき」ではトルコ石が小道具として登場する。実はこの宝石はその名を負った国では産出されず、トルコ経由で西洋にもたらされたのでそう呼ばれているだけであるが、ヨーロッパでは古典古代から既に知られ、愛用されていた。日本に初めて伝えられたのはいつのことか詳らかにしないが、『明治事物起源』には「黄玉[トパーズ]の始」として「従来本邦人の宝石として珍重せしは、水晶等数種類に過ぎず」とあるので、明治初年代にはまだ馴染み深いものではなかったのだろう。尾崎紅葉はこうした新しい流行、新奇な価値観を踏まえた上で、「ダイヤモンドに目が眩んだ」女お宮を作り出した訳である。

「あひびき」でもキザで軽薄な男がトルコ石の飾りのついた金銀の指輪をいくつも指につけて登場する。薔薇色の首巻や金モールのついた帽子と相まって、その過剰な装飾と、そこから漂う虚栄心は読者を辟易させる。彼がまとう懐中時計や青銅のフレームの眼鏡も、彼の浮ついた新しいもの好きを示すメタファーとなっている。男は、眼鏡を珍しがって、それが何かと尋ねるアクリーナを小馬鹿にするが、自分はそれを上手く嵌めることさえ出来ない。——片眼鏡なので。男の皮相で、軽薄な流行志向、モノ崇拝の様を訳出しながら、二葉亭は日本の「文明開化」の同じ様な問題をそこに感じ取っていたことだろう。

 とはいえ、この様に表層的な物質文明を批判する小道具としてトルコ石もあったわけだが、二葉亭は、トルコ石がダイヤモンドと同じく宝石であると理解はあったものの、そのものについての具体的な、現実的な知識はなく、何かはっきりとしたイメージを持っていたわけではなかった。「トルコ石」の英訳Turquoiseだけを掲げ、「宝石の一種」と注釈した二葉亭には、原作における文明批判を伝えられない、歯痒い感情があったに違いない。

<異化的翻訳>

 二葉亭の翻訳は、近年、翻訳論の領域で非常に強い影響力を及ぼしてきた。L・ヴェヌーティーの「異化的翻訳」という理論に照らしてみると、ある興味深いことがわかる。ヴェヌーティーによれば英語圏に於いて翻訳の標準とは、英語として完全に自然であること、つまり翻訳と認知されないもの、完全に「透明」であるものが良いとされてきたという。これに対してヴェヌーティーは「異化的翻訳」、つまり翻訳であることを露わにし、そのことによって目標言語を変容させ、新しいテキストの可能性を引き出していくものに価値があることを説く。

 この理論から見た時、二葉亭の(特に初期の)訳業は、完全に「異化的翻訳」である。原文にピリオド一つあれば訳文でもピリオド一つにし、コンマ一つあればコンマ一つにし、単語の数まで揃えるというのは、訳文の日本語として自然さを犠牲にして、訳文の中に別の言語の異種性を持ち込み、露呈させるということである。日本語の訳語では無く、英語の単語を与えるのも異化的作業であるし、本文中に多数の訳注を組み込む、しかも時に長々しい解説を加えるなどということも、全て訳文の異質性を際立たせている。

 この様な訳文の異化性は二葉亭には顕著だが、同時代の他の翻訳では一般的な態度ではなかった。日本語として完成されていることは多くの場合、翻訳の用件であった。明治訳文文学史に於ける、二葉亭と並び立つ双頭ともいえる森鴎外の訳業についてもそれは言える。鴎外の翻訳は和文として完璧な美を備えていた。尾崎紅葉も原文の意味なり文体なりリズムなりを伝えるというよりは、訳文そのものの文章の彫琢に骨身を削っていた。正岡子規はエッセイ「閒人閒話」で自ら創作した「花枕」という小説が人から外国種の翻案あるいは英語の小説の翻訳だろうと忖度されたことに憤慨している——翻案なり翻訳なりでなければ文学作品として認められないのは、日本文学の恥であると。子規の講義は、創作と翻訳と翻案の区別が、少なくともこのエッセイが書かれた明治三十一年(1898)までは、極めて曖昧なものであったことを示している。それは翻訳に際して原文の異種性をなるべく消し去って、馴化し、日本語化することが——そして、その様な原文の「日本化」をさらに突き詰めれば、「翻案」が生じてくることになる——当然の慣行だったからである。

 これに対して二葉亭の態度は原文の絶対視、神聖視に基づくものであり、外国文学の芸術性の物神化から来るものであった。二葉亭の態度は同時代の文学者——特に豪傑流の訳にこだわりを持たなかった翻訳者たち——に比べて異様である。内田魯庵の回想によると、二葉亭は原文の神格化を次の様に説明していたという。

「あの時分はツルゲーネフを崇拝して句々皆神聖化していたから一字一句どころか言語の配列までも原文に違へまいと一語三礼の苦辛をした」(「思ひ出す人々」二九九頁)

 ここまで異端な異化的翻訳は二葉亭だけで、二葉亭その人も、「あひびき」の改訳では、既に日本語としての自然さ、「透明さ」に重きを置く様になっていく。だが、二葉亭が提示した、原文尊重とそのことによる異化的訳文は、大筋においては日本の翻訳全般に於いてやがて標準的なものになっていくのである。日本の翻訳文学においては、完全な「透明」な表現、すなわち、日本語として自然であり、翻訳であるとはさらさら思われない様な訳文が理想となることは決してなかったのである。

 こうして、「翻訳性」が有標である、すなわち、翻訳文であることが文章からはっきり読み取れる様な訳文が、むしろ一般化するのである。そのことは、例えば、「あひびき」の現代訳における「[男]の顔にはわざと人を軽蔑した様な冷淡ぶりを見せている陰から、いかにも満足そうな、満腹した自尊心がチラついていた」(佐々木彰訳下巻百九頁)などいう表現を読めば、思い半ばに過ぎよう。この様な文章は、見るからに「翻訳」なのであり、文体がそのことを明示しているのだ。そしてやがて、逆に日本人作家が、恰も翻訳と受け取られる様な文体で執筆する、つまり、「翻訳体」と呼ばれる様な文体さえ見ることになるのである。

 これはヴェヌーティーが想定している様な、透明な翻訳の標準化という事態とは全く異なるものである。このことは端的に言って、英語圏では英語が特権的地位を持っていたのに対し、日本では日本語では無く西洋語が特権的地位を持っていたという、一種のコロニアルな状況と結びついているに違いない。英語もどきの、ロシア語もどきの日本語は、日本においては拒絶されないのである。

<翻訳の中のセクシュアリティー>

 ところで、この様に文体、訳語、思想の面で良かれ悪しかれ大いに時代に先んじていた二葉亭の翻訳であるが、ことセクシュアリティーに関わる問題では、実は『浮雲』からかなり後退している。

 前の章でも見た通り、二葉亭は『浮雲』に於いて当時の最も「進歩的」で「開明的」な恋愛観であるロマンティック・ラヴの理念を、北村透谷や巌本善治らと並んで、いや、むしろ彼らに先んじて表現していた。しかし、ツルゲーネフ作品の翻訳に於いては、それは後景に引いてしまう。

 『浮雲』の節でも指摘したことだが、そもそもテーマから言って、「あひびき」は、純粋だが無知な田舎娘が村のダンディーを気取る男に弄ばれ、捨てられる話であり、また「めぐりあひ」は主人公が不思議な出会いを繰り返す美女に——しかも、彼女には他に好きな人がいる——憧れるという話である。「めぐりあひ」はロマンティックといえばロマンティックだが、『女学雑誌』や『文学界』によった思想家や文学者たちが説いていた、男女の敬愛、人格主義、精神性の強調と肉欲の否定などを旨とする「恋愛」の理念——これは『浮雲』に於いては十分に表現されていた——はここには見られないのである。

 思想面での後退は表現面にも反映している。例えば、『片恋』で主人公アーシャが好きな男に向ける「死んでもいいわ」というセリフがある。このセリフのことは日本近世文学研究者の暉峻康隆が取り上げていて、江戸の「好色」の理念とはまるで異なる態度がここに示されているとするのだが、訳した時に、元々漢文調の未熟なこの訳語「『愛する』という語」に抵抗を感じて、——あたし、あなたを愛しているわ。アイ・ラヴ・ユウ。と、いうところを、——死んでもいいわ。と訳したことは有名である。


参考資料:『二葉亭四迷:くたばってしまえ(ミネルヴァ日本評伝選)』

     『浮雲/二葉亭四迷』

 


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