谷崎潤一郎(1) 『痴人の愛』について

『痴人の愛』は、関東大震災によって谷崎潤一郎が関西に移住した翌年、大正十三年(1924)の三月から、更にその翌年十四年の七月にかけて発表された作品である。前半は「大阪朝日新聞」、その後大正十三年六月から十月までの中絶を経て、後半が雑誌「女性」に連載された。その反響は極めて大きく、巷に女主人公の名を取ってナオミズムという言葉を流行させたのみならず、この作品の成功は作者谷崎をそれまでの長期間のスランプから脱出させたといって良いだろう。

 これに先立つ大正初年代後半の一時期、谷崎は佐藤春夫と千代子夫人をめぐる三角関係、所謂小田原事件の渦中にあった。この出来事そのものは、大正十年三月に谷崎と佐藤が絶交する事で一応の締めくくりがつけられるのだが、それ以降この二人の作家の間には、この事件を如何に芸術化するかという激しい戦いが展開される。谷崎はこの時期『AとBの話』(大正十年)・戯曲『愛すればこそ』(大正十一年)・『神と人との間』(大正十二年)などの作品を発表して居るが、それらはいずれも谷崎自身を思わせる悪魔的人物が一人の女(千代子夫人が戻る)をめぐって人道的人物(明らかに佐藤春夫を意識して居る)と心理的葛藤を演ずるという共通の主題を持って居る。つまりその分だけ、素材もモチーフも露わで、作者の意図が見透かされてしまうといった不出来な作品を描き続けていたのである。

 ところが、この『痴人の愛』に至って谷崎は面目を一新する。早くも昭和期の豊饒な活躍を予感させる、新たな出発点に作者は進み出て居るのである。後編の「はしがき」に「此れは長編であるが、一種の『私小説』であって」とことわって居るように、この小説にはモデルがある。大正九年から谷崎は映画界に関係していたが、そこで葉山三千子という芸名を持っていた女優、千代子夫人の実妹の石川せい子がそれである。せい子は谷崎が一時同棲するつもりで千代子夫人との離婚も考えたという形で、上記の小田原事件にも介入する。大正十二年には、谷崎は同じ女性をモデルにして『肉塊』という小説を書いて居る。映画監督が不良女優と関係してこれに翻弄され、次第に堕落していくというこの作品は疑いもなく『痴人の愛』の原型と認められるが、筋の運びが如何にも図式的で明らかに失敗作である。『痴人の愛』の成功は、何よりもまず作者が物語をモデルへの密着から切り離して虚構化した事、そしてそれに適合した新しい話法を獲得したことにあると言えよう。

私はこれから、あまり世間に類例が無いだろうと思われる私達夫婦の間柄に就いて、出来るだけ正直に、ざっくばらんに、有りのままの事実を書いて見ようと思います。それは私自身にとって忘れがたない貴い記録であると同時に、恐らくは読者諸君にとっても、きっと何かの参考資料になるに違いない。

 これが『痴人の愛』の書き出しである。作者は「あまり世間に類例が無いだろう」と言いながら、小説の事件の舞台を欧化風俗のいわば大衆化が始まった大正年間の市民社会にさりげなく虚構化する。読者に語りかける主人公河合譲治が住んでいるのは、語り掛けられる読者が暮らすのと同じ、ハイカラの、赤い屋根瓦の文化住宅の、カフェの、ダンスホールの、大正市民社会である。主人公の男女の境遇といい、生活の設定といい、『痴人の愛』はまず日常性の描写に富んだ、見事な風俗小説として出発して居るのである。こうした風俗描写の厚みは、従前の谷崎の作品では十分になされることのなかった最初の達成であった。

 それと共に、ここで採用された一人称の告白体という話法——ナレーション——の作者にとっての意味は重視されて良い。『神童』(大正五年)・『鬼の面』(同)・『異端者の悲しみ』(大正六年)などの自伝体小説が三人称叙述をとりながら却って作者自身のマゾヒスト的体験告白であったのに対して、この一人称話法は読者への呼びかけという形を通じて広く連帯の場を求める効果を収めて居る。自己の異端者ぶりをどぎつく強調するのではなく、読者と共通の生活圏に物語の空間を開いたことで、作者谷崎はこの作品に最大級の皮肉を仕掛けたのである。ここには恐らく、明治から大正にかけて近代小説の基調を無していた告白小説のスタイルの鮮やかな逆転がある。

 文学史的に見れば、関東大震災前後のこの一時期は、明治の自然主義における人生の苦悩のテーマが大正理想主義の人生の調和に席を譲った文学的季節であった。例えばここに、当時散文文体のペース・メーカ。になりつつあった志賀直哉の『暗夜行路』前編(大正十一年)を置いてみたらどうだろう。『異端者の悲しみ』を書いた谷崎が佐藤春夫に、同じ大正六年の『和解』に劣るかどうか尋ねたという話は有名だが、ともかく文壇小説の大勢が人生の煩悶から人格完成への道ほどを自己告白のスタイルで語ることに向かっていた風潮の中で、『痴人の愛』の話法は、一路生活の破壊へと突き進む主人公の淡々たる独白を語って見せるという芸当を演じたのである。遥か後年の『瘋癲老人日記』に貫かれる冷淡なセルフ・デタッチメントは、つとにこの作品で話法化されていたと言えるだろう。

 主人公の譲治は、町のカフエエで拾ってきた小娘ナオミを自分の好むタイプの女に教育し、あわよくばこれを未来の妻にしようと思い立つ。そのナオミがいつしか猛々しいまでの淫婦に成長して、その魅力の前に逆に主人公を屈服させるというのが『痴人の愛』のプロット である。ナオミに輝くばかりの美しさを与えた「悪」は、しかし元はと言えば譲治が性的イニシエーションによってナオミの体内に注入したものであった。ここにはすでに処女作『刺青』の女郎蜘蛛の刺青が象徴する「悪」と「美」との不思議な調和が、皮肉たっぷりに再現されて居るのである。だが、『痴人の愛』の谷崎がその主題の展開を求めて行ったのは、どこまでも同時代の市井風俗のうちであった。「ナオミちゃん、お前の顔はメリー・ピクフォードに似て居るね」「似て居るのかどうか分からないけれど、でもみんなが私のことを混血児みたいだってそういうのよ」この二人の対話には、無声映画の銀幕を透かして眺められる大正の些か浮薄で物悲しい西洋憧憬、そしてまた、この時代の谷崎の抜き難い西洋エキゾチシズムが、巧みに語り込まれて居る。

 ナオミの顔立ちが、またその体つきが「西洋人臭い」こと。それが譲治が彼女に惹かれた理由であった。それどころか、この人物にとってはダンスを教える西洋女の脇臭さえ「ああ、これが夫人の白い体から放たれる香気か」というほどの蠱惑なのである。西洋人並の白い肌。譲治は結局、ナオミをその模造品に仕立てるという自分のエキゾチシズムのエギ気になって身の破壊を招く。なんといっても圧巻は、いったんはその不品行を知って家から追い出したナオミの魅力に、譲治が抗しきれなくなった場面だろう。

......私はその声を聞かなかったら、帽子を脱いだ今になっても、まだこの女は何処かの知らない西洋人だと思っていたかもわかりません。次には前にも言う通り、その肌の色の恐ろしい白いことです。ナオミも日本の女としては黒い方ではありませんでしたが、しかしこんなに白い筈がない。

「白」の色は、谷崎にとってそれ自体が一つのフェティッシュであった。「白」は或る禁忌を伴った、畏怖すべき崇拝の対象の色であった。『痴人の愛』の執筆当時、すでに関西に移住していた谷崎が、やがて所謂古典回帰によってエキゾチシズムの対象を関西の女性に向けて行くことはよく知られて居る。即ち『陰影礼讃』の世界である。そのことは例えば、『蓼食う虫』(昭和三年)の主人公が怪しげな混血の娼婦の肌の色に幻滅するエピソードに象徴されるだろう。が、しかしそれは未だ『痴人の愛』の関与する問題ではない。問題はむしろ、その対象が如何なる女性に向けられるにしろ、谷崎が終生求め続けていたのは、魅惑と同時に禁忌の色であるところの「白」だったと言うことである。そしていつの時期にあっても、谷崎が模索した「白」の象徴は時代の風格と共にある。谷崎の最深の主題は、常に風俗描写の肉質のうちに埋在して居る。「今までのナオミには、いくら拭っても拭きれない過去の汚点がその肉体に染み付いていた。然るに今夜のナオミを見るとそれらの汚点は天使のような純白な肌に消されてしまって」と、主人公が未練がましく読者に語りかけるとき、大正モダニズムの衣装を纏ったナオミの姿は、今なお婉然と我々に微笑みかけてくるのである。

「悪」によっていよいよ磨きを掛けられたナオミの肌のこの世のものならぬ白さ。この小説の結末は、主人公譲治がついにそれに慴伏し、完全にナオミに屈服するところで終わる。「ナオミは今年二十三で私は三十六になります」と言う結びの文章の心憎さをみよ。馬鹿馬鹿強いと思ったら笑え、と作者は言う。が、恐らく男性読者の笑いは途中で強張るだろう。生涯かけて性の葛藤から逃れられない読者同胞への皮肉なウィンク。小林秀雄氏の周知の言葉を文字って言うなら、『痴人の愛』の作者は、見事に「社会化されたマゾヒズム」を描くことに成功して居るのである。

参考資料:文芸評論/野口武彦 昭和五十年二月

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