芥川龍之介(1) 「語り」についての考察1/2

<その1>

 芥川龍之介は新思潮派の一員として生涯にわたり小説を記した。その技法は新技巧派と言って理知的たるを重視し、物事を冷静に書き表すのを特徴としている。また、新思潮派は芥川の他に久米や菊池などが含まれて、文芸雑誌『新思潮』は大正文壇勢力の一角を有した。

 さてそんな芥川の小説は『語り』の小説だとも言われている。つまり彼の小説には殆ど必ず顕在化した「語り手」が存在する。顕在化した語り手とは換言すると、志賀文学に於ける普遍的な語り手とは異なり、「語り手」が何人かの人生を実況するのと似ている。両者の例を挙げて比較してみよう。

 最初は『赤西蠣太/志賀直也』より、

「昔、仙台坂の伊達兵部の屋敷に未だ新米の家来で、赤西蠣太と言う侍がいた。三十四五だと言うが、老けていて四〇以上に誰の目にも見えた。容貌は所謂醜男の方で言葉にも変な訛があって、野暮臭い何処までも田舎侍らしい侍だった。」

 次に『蜘蛛の糸/芥川龍之介』より、

「或日の事でございます。お釈迦様は極楽の蓮池の縁を、独りでぶらぶら御歩きになっていらっしゃいました。池の中に咲いている蓮の花は、みんな玉のように真っ白で、その真ん中にある金色の蕊からは、何とも言えない好い匂いが、絶え間なく辺に溢れております。極楽は丁度朝なのでございましょう」

 両者の語り手の違いがわかるだろうか。志賀においては、語り手は何か幽霊的や神的な人間でない全知全能の存在に思われるのに対して、芥川においては、誰かが話を解いているような確かな人間が語っているように聞こえる。この蜘蛛の糸の関して見てみれば、神様の側近が我々(若しくは神の家来)へ説法しているように読める。これこそが芥川の語り手法である。

 篠崎美生子は、ジュネットの『問題のディスクール』(昭和六〇年九月、水声社)における焦点化の分類に従って、幾つかの芥川小説を分類し、次のように述べている。

 衒学的な語り手を持つ「羅生門」や「鼻」などは焦点化ゼロ、作中人物でもある語り手が自分の知っている事を語る内的焦点化言説のうち、一人が一貫して語る「地獄変」、「河童」、「歯車」などは内的固定焦点化、一つの出来事を複数の人物が反復して語る「藪の中」などは内的多元焦点化、焦点人物が途中で変化する「舞踏会」などは一種の内的不定焦点化と言う具体に、焦点化の仕方はバリエーションに富む。

 ではまた、例文を使って確認していこう。では最初に焦点化ゼロとして『羅生門』から少し引用しよう。

「ある日の暮方の事である。一人の下人が、羅生門の下で雨やみを待っていた。 広い門の下には、この男の外に誰もいない。ただ、所々丹塗の剥げた、大きな円柱に、螽斯が一匹止まっている」(羅生門)

 次に挙例するは、内的焦点化言説の内の内的固定焦点化であり、引用元は『地獄編』・『河童』とする。

「堀川の大殿様のような方は、これまでは固より、後の世にも恐らく二人とはいらっしゃいますまい。噂に聞きますと、あの方の御誕生になる前には、——」(地獄編)
 「三年前の夏の事です。僕は人並みにリュック・サックを背負い、あの上高地の温泉宿から穂高山へ登ろうとしました。穂高山へ登るのには、——」(河童)

 次に挙例するは、内的焦点化言説の内の内的多元焦点化であり、引用元は『藪の中』とする。

検非違使に問われたる木樵りの物語「さようでございます。あの死骸を見つけたのは、私に間違いございません——」                    検非違使に問われたる旅法師の物語「あの死骸の男には、確かに昨日遭っております。昨日の、——」(藪の中)

 次に挙例するは、内的焦点化言説の内の内的不定焦点化であり、引用元は『舞踏会』とする。

 本文がない為、未完

 こうして見ると、芥川の小説は初期の者から晩年のものまで一貫して、「telling(語ること)」の手法を採用してきたと言える。芥川文学を考える上で、「語り」の問題は常について回るものだといえよう。また研究者の皆様も彼の語りについての研究は盛んに行われている。では何故、芥川は長く日本の近代小説に支配的だった「showing(示す)」ではなく、「telling」の手法を用いて小説を書いたのであろうか。芥川文学に詳しい佐伯影一と佐藤泰正の二人の見解を紹介しておこう。

・佐伯は、芥川と狂気との関係を「語り」の理由として取り上げている。佐伯によれば、初期の「孤独地獄」の「語り」で、狂人の母を<隠蔽>した芥川は、以降「語り手」と言う<ペルソナを多様化する事で、その蔭に我が身を隠そうとした>が、「点鬼簿」でその秘密を衆目に公開した後は、「河童」や「歯車」で<狂気の聖化>を「語る」ようになったと分析している。

・佐藤は、自然主義文学台頭以来の<告白>や<私小説のありように対する本質的な疑い>という時代認識によって、芥川が「語り」の方法を取ったのだと指摘している。

 私は両者の意見を汲んだ上で、後者の意見に同意する。芥川時代の文壇は大きな勢力が幾つか点在し、その方々で主義の在り方や小説の在り方などが検討されてきた時代であり、また、言文一致を着々と押し進めた時代であったからこそ、芥川の「語り」が所謂突然変異的に発生したのだと思われる。故に、進化途上の私小説に於いての一種の正解を彼は導き、使用していたのだと思う。

<その2>

 芥川には文章観に於いて、二律背反する志向があった。それが端的に現れている例として、晩年の『文学的な、余りに文学的な(改造 昭和二年四月〜)』の中の「六 僕らの散文」と題された文章を上げる事ができるだろう。ここで芥川は、日本の近代散文に於ける言文一致の問題について次のような興味深い発言を行なっている。

「佐藤春夫氏の説によれば、僕らの散文は口語文であるから、喋るように書けという事である。これは或いは佐藤氏自身は不用意の内に行ったことかも知れない。しかしこの言葉は或問題を、——「文章の口語化」という問題を含んでいる。近代の散文は恐らくは「喋るように」の道を踏んで来たのだろう。僕はその著しい例に武者小路実篤、宇野浩二、佐藤春夫などの散文を数えたいものである。志賀直哉氏の散文もまたこの例に漏れない。しかし僕等の「喋り方」が紅毛人(西洋人)の「喋り方」は暫く問わず、隣国たる支那人の「喋り方」より音楽的でないことも事実である。僕は「喋るように書きたい」願いも勿論持っていないわけではない。が、同時に又一面には「書くように喋りたい」とも思うのである。(中略)「喋るように書く」作家は前にも言ったように居ない訳ではない。が、「書くように喋る」作家はいつこの東海の孤島に現れるであろう。しかし、—— しかし、僕の言いたいのは「喋る」ことよりも「書く」ことである。」

 明治から大正にかけて日本の散文は、話し言葉を皆言葉に移行させることで、言文一致を進めてきた。佐藤春夫が、芥川に勧めた<喋るように書く>散文がそれである。<僕は「喋るように書きたい」願いも勿論持っていないものではない。>と言うように芥川がは、この<喋るように書く>散文を否定している訳ではない。しかし、彼が持ち出してきたのは、<喋るように書く>に対置される<書くように喋る>と言う一見不可解な実戦要綱であった。芥川は、<喋る>ことよりも<書く>事に重点を置いたのである。芥川は、その理由を<僕等の「喋り方」が音楽的でない>からだと述べている。実は、この芥川の抱えていた問題は、明治の言文一致体模索期の作家たちが陥った問題と同一のものであったと考えられる。

 そもそも、何故日本の近代散文は<喋るように書く>事を主流とする言文一致体を志向してきたかを考えてみたい。それは坪内逍遥の提唱した言文一致運動まで遡る事ができるだろう。逍遥は「小説神髄」(明治十八年〜十九年)に於いてその理由を<言は魂なり。文は形なり。俗言には七情尽く化粧を施さずして現れるけれど文には七情も皆紅粉を施して現れ、幾分か実を失う所あり>と説明している。つまり、話し言葉(=俗語)は、人間の感情を率直に表現できる点で、書き言葉(=文)より優位な言葉であると逍遥は考えた訳である。後に詳しく触れるが、要するに、<喋るように書く>、言文一致とは小説における「写実」を重要視した逍遥の、文体の面におけるリアリズム追求の態度であったと言える。

 しかし、言文一致の達成に長い年月がかかった事からも知れるように、言を文に移行させていくと言う行為は非常な困難が伴うものであった。逍遥は同じく「小説神髄」の中でその問題点を語っている。

「我国の俗談平話は兎角に冗長に失する弊あり、並びに語法に定律なく唯音調の美ならざるが故に、叙文並びに記文等には用いて妙ならざる事多かり、蓋し其冗長に失する所以は我本来の優柔なる倭言語に因するべく、其用語に定律なく唯音調の美ならざる所以は和漢の言語転訛の方言混じたるに基づくなるべし」

 ここで逍遥は、<定律なく>、<音調の美ならざる>と言った話し言葉の持つ問題点を提出している。これは恐らく、明治の漢文を教養の基礎とした知識人達の共通感情であっただろう。磯貝英夫は明治の言文一致模索期の文章を広く検した上で、この<音調>の問題について興味深い示唆を行なっている。

「この場合の音調の問題は比較的簡明である。逍遥を始め、この頃の人々の文章感覚を主に支配していたのは、文章の朗誦的美感である。昔の人々にとって、文章とはハレの言葉であり、ハレの言葉は朗誦に堪える言葉であった。そう言う関係の上で、文語文の各種様式は、いずれも洗練された韻律を備えており、半面そう言う文と大きく隔離した言すなわちケの言葉は、放任のままで、無論そう言う朗誦性とは無縁であった。明治の革新期に於いて、言文一致が必ずしも簡単に受け入れられなかった根本の理由はそう言うところにあったと言っていいだろう。」

 黙読が当たり前になっている現在とは違い、明治期の作家、読者は音読と完全に絶縁していた訳ではなかった。それは彼らの中に漢文的な文章感覚が根強く残っていたからだと思われる。尾崎紅葉、幸田露伴、森鴎外、樋口一葉などの文章は皆<朗誦的美感>を持っていた。当時は、音読して調子の良い文章こそが名文とされたのであり、そのような文章は、当然全て漢文脈によった文語文であったのである。

 例えば、川崎備寛は「現代作家の文章を論ず」(『文章倶楽部』大正十四年)の中で明治期と大正期における文章の違いを次のように比較している。

「中学生の時分に、よく国漢文の教師から、教科書の中の名文を暗誦させられたものである。随分神妙に暗誦したものと見えて、太平記の「落花に踏み迷う」の部分や、尾崎紅葉の「塩原」の一説や、漢文では「阿房官」とか「赤壁賊」とか言ったものなら、十年以上経た今でも、ある程度までは宙で読み下す事が出来る。   勿論中学生時代の記憶力の旺盛にもよるところであるが、一つには、そうした文章は所謂美文であって、同時に一種リズミカルであるため、暗誦に容易だったのであろう。(中略)今日では文章と言うものの見方が随分変わったものである。朗々誦すべき文章を書く人が文章家であるならば、今日の文学者で、凡そ美文家と言うものは一人もいない」

 自然主義や白樺派によって言文一致が達成された大正期には、<朗誦的美感>を持つ漢文調の文章が廃れていった事が窺い知れる。

 続けて、川崎は<先頃、泉鏡花大全の発刊される前、内容見本の巻頭に長文の鏡花賛辞の辞があった。確かあれは芥川龍之介の執筆になったものらしいが、最近の名文としては、蓋しあの一文に止めを刺すと言うふべきものである>と芥川の文章を取り上げている。

 試みに、芥川の書いた「鏡花全集目録開口」(『新小説』大正十四年)冒頭の数行を抜き出してみよう。

「鏡花先生は古今に独歩する文宗なり。先生が俊爽の才、美人を写して化を奪うや、太真閣前、牡丹に芬々の香を発し、先生が清超の思、鬼神を描いて妙に入るや、鄒湛在外、......」

 格調高く綴られた文章ではあるが、このような美文は大正期としては、極めて珍しいものとなっていた。恐らく、それは当時の人々の漢文的な教養の水準の低下も手伝っていたと思われる。自然主義以降、明治期ほど漢文学が省みられ無くなったことは佐藤春夫の「支那雑記」(昭和十六年、大道書房)の序文「からもの因縁」に詳しい。しかし、その情勢の中で、芥川は<漢詩漢文を読むと言うことは、過去の日本文学を鑑賞する上にも利益があるだろうし、現在の日本文学を想像する上にも利益があるだろうと思う>(「漢文漢詩の面白味」『文章倶楽部』大正九年)と述べているように漢籍を好んで読んでいた。さらに、「病中雑記」(『文藝春秋』大正十五年)の中では、<僕の文語を用いるは何も気取らんが為にあらず。唯口語を用いるよりも数等手数の掛からざる為なり。こは恐らくは僕の受けたる旧式教育の祟りなるべし>と文語を好んで使う理由を説明している。これらの鑑みるに、芥川の文章感覚は一時代前の明治人の感覚に近いものがあったと考えられる。

 その芥川が、文語体の持つ<暗誦的美感>にも極めて敏感であったのは当然だろう。例えば、「芥川龍之介氏縦横談」(『文章倶楽部』大正八年)と言うインタビユーの中で、芥川は記者との間で次のようなやりとりを行なっている。

「露伴の『運命』はお読みでしたか」と尋ねたら「読みました。すぐ仕舞まで読みました。名文ですね。一寸」と言って手を叩いて「改造」を取り寄せ、「運命」の中程を広げて「天那、時那。燕王の胸中風母様に動いて、黒雲飛ばんと欲し、張王、朱能の猛将鳥雄、眼底紫電閃いて、雷火発せんとす」のところから「——直にまさに天下を呑まんとするの勢を為さしめぬ」のところまで朗々たる声で一気に読んで「実に巧みな修辞ですね」と言った。

 ここで芥川は、露伴の文章を<朗々たる声>で音読し、<巧みな修辞>によって作り出された文章のリズムを味わっている。芥川が露伴の文章を名文だとしたのは、漢文調で書かれた露伴の文章に<暗誦的美感>が備わっていたからである。このインタビューからも、芥川が聴覚的なりリズムを持つ文語体に大きな魅力を感じていた事が窺い知れる。そして、それ故に芥川は、<喋るように書く>と言う言文一致体の文章が<音楽的でない>事に不満だったのである。

<その3>

 当然ではあるが、時代が下り、言文一致が進んで行くに従って、文章に<暗誦的美感>、聴覚的なリズムを求める姿勢は、次第に失われて言った。何故なら、逍遥が提唱し、多くの作家によって推し進められて行った言文一致運動とは、本質的に視覚的なリアリズム追求の為の運動だったからである。イメージを過不足なく捕捉し、読者に喚起してくれるのは日常生活で使われている話し言葉である。例えば、「とても悲しくて、俯いた。」と言う文章と、「悲嘆限りなければ、こうべを垂れぬ」と言う文章があれば、読者にとって、明らかに日常語を使って表現されている前者の方がイメージしやすい筈である。

 この点について、篠田一土は、明治期には韻文と散文が相拮抗する形で発達してきたが、後に<韻文よりは散文の方が遥に早く日常会話を捕捉して>きたと述べた上で、日本近代詩の口語化が散文に比べ、十年近く遅くなったことを指摘している。散文の世界で言文一致が叫ばれていた時も、より聴覚的なリズムを重んじる韻文の世界においては、古色蒼然とした文語が、なお盛んに使われていた。同時代の散文と韻文を比べてみると、言文一致体と言う文体が、文語の持つ聴覚的な美感を切り捨てて、口語の持つイメージを認識する視覚性を重視するものであった事がよく分かる。

 また、視覚的なリアリズムと言うことを考える時、日本の言文一致運動が、自然主義の「描写」論と『ホトトギス』派の「写生」論に、大きな影響を受けて発達したことは見過ごす事ができない事実だろう。当時の文壇と俳壇の間に直接的交渉はほとんどなく、両者は基本的には別個に活動していたと思われるが、田山花袋が「美文と写生文」(『美文作用』明治三十九年)の中で次のように述べているのは面白い。

「其処へ行くと子規は凄い。てんから小説などと言う完全したものを書かずに初歩の下等八級から始めている。全然従来の文章をかなぐり捨てて、初めからやり直すと言う風がある。」

 美文を打破し、言文一致で事実をありのままに書こうとした自然主義と、見た通りに書くことを徹底した『ホトトギス』派は、新しい文体を模索すると言う点で共通する一面を持っていた。何よりも「見ること」を重視した彼らによって、言文一致体が飛躍的に推進されたと言う事実からも、日本の散文が視覚的なリアリズムを重視して発達してきたことが窺えるのである。

 勿論、近代作家の一人として、芥川も文章に於ける視覚的なリアリズムを追求する姿勢を持っていた。それは芥川が、言文一致の完成者と目される志賀直哉の文章を、<リアリズムの細に入っている>、<写生の妙を極めないものはない>(「文芸的な、余りに文芸的な>『五 志賀直哉氏』)と終生羨望し続けた事実からも伺えよう。また、実際に「小説作法十則」(『新潮』昭和二年)では<ありのままに見、ありのままに書くを写生と言う。小説家たる便法は写生するに若かず>と小説を書く根本に「写生」が必要であることを主張している。このような芥川の志向は、初期に書かれた文章論「眼に見るやうな文章——如何なる文章を模範とするべきか」(『文章倶楽部』大正七年)まで遡る事が出来るだろう。この中で芥川は<景色が眼に見えるように浮かんで来る文章が好きだ。さういふところの無い文章は嫌いである。>と述べ、模範とする文章の例として、夏目漱石の「永日小品」(『東京朝日新聞』、『大阪朝日新聞』明治四十二年)から二つの文章を取り上げている。

木戸を開けて表へ出ると、大きな馬の足跡の中に雨が一杯溜まっていた。(「蛇」)
風が高い建物に当たって、思う如く真直に抜けられないで、急に稲妻に折れて、頭の上から斜に舗石まで吹き卸して来る。自分は歩きながら被っていた山高帽を右の手で抑えた。(「暖かい夢」)

 漱石の文章が「写生文」によるところが大きいことはよく知られている。ここで挙げられる文章も「写生」的要素が強い。また、二つの文章はいずれも言文一致体で書かれており、芥川にとっても<眼に見えるような文章>とは言文一致体で書かれる事が不可欠であった事が窺える。言文一致体がリアリズムの文体であることを考えた時、<僕は「喋るように書きたい」願いも勿論持っていないものでは無い。>と芥川が言ったのは当然であった。

 ここまで見てきたように、芥川は、文語体による聴覚的リズムを求める志向を持ちながら、一面で言文一致体による視覚的リアリズムを求める志向を持っていた。つまり、芥川という作家は、その創作活動を通じて、文体面に於ける深刻な眼と耳の隔離に悩まされていたと考えられる。


参考資料:「芥川龍之介における「語り」についての一考察——その散文観から——」 高嵜啓一

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