坪内逍遥以前の小説観

 坪内逍遥の『小説神髄』が日本に於ける小説の大きな飛躍になったことは多く知られているが、それ以前の小説とは一体どうなっていたのか。文章が小説という自覚をどうして持つようになったのか、辿って行きたい。

中国では

 魯迅(ロジン 中国の文学者)の『中国小説史略』を見ると、『荘子』の「小説を飾って高名美誉を求める」という言葉の引用から始まっている。その小説という語の意味するところは、「些細な言説で、そこに大道は存在していないことをいったもの」だから、現代のロマン的な小説観とは必ずしも重ならない。
 ついで『文選』李善注に引く「新論」の、「小説家は残叢の小語を集め、手近な例え話を取り入れて、短い書物を作るが、身を治め家を治める為に見るべき言葉があるもの」という文章であるから、前にあげた『荘子』とはニュアンスが違ってくる。
 また、小説は卑賤視もされていた。それが分かるのが、『漢書』芸文志の以下の言葉である。
「小説家なるものの類いは蓋し稗官から出る。街談巷語、道聴塗説者の造る所である。孔子曰く「小道と言えども必ず観るべきものがある、けれども遠大の事をはかるには、それに拘束されてはよくない、だから君子は小説などをあてにはしない」
 こう書いてある。稗官とは身分の低い官僚という意味だろうと推測されるから、小説家とは必ずしも尊敬に当たる職ではなかったとわかる。また、街談巷説の類いにあったことから、日常的な興味と結びついて来たとわかる。

日本では

 坪内逍遥以前に滝沢馬琴という戯作者が江戸後期にいた。
 馬琴の言葉には勧善懲悪の傾向があるのは知られている所である。それは『南総里見八犬伝』にも見られる。また馬琴晩年のものと考えられる言葉を引用しておく。

小説の趣向する所、巧拙はとまれかくまれ、作者に大学問なくては、第一勧懲正しからず、今の小説は、之之として皆これ也、将人情を穿つにも才のしなあり、是に情を穿つこと、小説にはいとなしがたし、情を穿ち趣をつくさざれば、見るに足らず

「懲悪」の語は同じでもここではそれは人生の理法であり、それを「大学問」すなわち人生の大きな理解によって形象化するという認識にまで馬琴は到達していた。逍遥は『小説神髄』(明治18)で「盛んなるかな我国に物語類の行はるるや」としていたり、時に馬琴を含めて「小説ますます世に行はれ」と説いているように、日本の小説の大衆化を指摘している。それが前提となっての『小説神髄』とも言える。実際、馬琴の影響の跡は少なくない。

参考文献
・近代文学成立期の研究 越智春夫 岩波書店
・資料集成 日本近代文学史 磯貝英夫 右文書院

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