芥川龍之介(4) 「蜃気楼」についての感想及び考察2/2

<その4>

 これまで、志賀直哉の「焚火」を、芥川が二つの心境小説にどのように利用してきたかを見てきたが、「海のほとり」は初めての心境小説だけに、種本への依存度がかなり高い事は明白であった。それに比べれば「蜃気楼」はその度合いが低く、枠組みにおいては依然として「焚火」に負いながらも、極力自らのオリジナリティーを発揮しようと努めている事が見て取れる。以下そのような部分を、「焚火」離れした素材を中心にいくつか確認しておきたい。

 1では先ず次のような叙述が目に留まる。

五分ばかりたった後、僕等はもうO君と一しよに砂の深い路を歩いて行った。路の左は砂原だった。そこに牛車の轍が二すじ、黒々と斜めに通っていた。僕はこの深い轍に何か圧迫に近いものを感じた。逞しい天才の仕事の痕、——そんな気も迫って来ないのではなかった。

 強迫神経症に罹ったような主人公の病的神経のありようが窺われる部分である。ここはこれまで、夏目漱石との関連で解かれる事が多かった部分である。「海のほとり」に描かれた時期、漱石から芥川に何通かの手紙が寄せられた事はよく知られている。その中に、

君方は新時代の作家になる積でせう。僕も其積であなた方の将来を見ています。どうぞ偉くなって下さい。然し無闇に焦っては不可ません。唯牛のように図々しく進んでいくのが大事です。(大正五年)

という一節があるのは有名である。この中の「牛のように」という比喩は、漱石が同じ時期芥川らへの手紙に、繰り返し使用したものでもあった。作家活動の始発時に漱石から忠告されたこの事が、十年後の、作家生活に行き暮れた芥川に、重く甦ってきたとしても不思議ではない。「天才の仕事」とは、言うまでもなく第一義的に漱石の仕事であろう。それに比べれば自分は何をしたのかと、臍を噛むような思いを芥川自身反芻する事が多くなっていたのではなかろうか。

 一篇の小説の中に、このような書かれてもいない背景を読むのは、邪道であるという説も成り立とうが、そこには心境小説あるいは私小説である。作者も読者もこのような暗黙の了解を前提として、書き或いは読むことに、身を委ねていられる小説の制度が、一般的になってきたのである。其ような心境小説の読者の代表としてのO君が登場せしめられ、「僕の心持ちはO君にははっきり通じたらしかった」と、作者は何の説明もなしに書く事が出来たのである。このような小説の書き方を、従来の小説の制度への挑戦として芥川を称揚する議論もあるが、それは贔屓の引き倒しというべきものであろう。

 尚、当時の芥川に於ける漱石の重みに関しては、「蜃気楼」より一年余り前に書かれた心境小説「年末の一日」(『新潮』大正十五年)が参考になろう。これは「僕」の自宅を訪ねてきた本社詰めの新聞記者K君を、用談が済んだ後外に連れ出し、夏目先生の墓に案内するという話である。漱石の愛読者であったK君にかねて約束していたことを、K君の要望でこの機会を果たそうとしたのである。然し雑司々谷(ぞうしがや)の墓地に着いて、先生の墓を探すが、よく知っているはずの墓がどうしても見つからず、墓地掃除の女に聞いてやっと目的を果たしたという。おそらく作り話であろうが、「いくら先へ言っても、先生のお墓は見当たらなかった」の一文が暗示するように、この話の寓意するところは明らかである。芥川には、漱石は追い求めても届かない存在という、絶望的な思いがあったのだ。K君と別れ日暮れ時に動坂に着いた「僕」は、墓地裏の八幡坂下に東京胞衣会社と書いた箱車が休んでいるのを見つけ、車夫に声をかけて車の後押しを買って出る。「力を出すだけでも助かる気」がし、「まるで僕自身と闘うように一心に箱車を押し続けて行った」というのである。やりきれない思いを払拭すべくひたすら車を押す「僕」(作者)には、おそらく十年前の漱石の「牛は超然として押して行くのです。何を押すかと聞くなら申します。人間を押すのです」(大正五年)という言葉が響いていた事であろう。「蜃気楼」の作者も読者も、この「年末の一日」を前提にして、書きあるいは読んでいいのである。心境小説(私小説)の制度とは其ようなものであったのだ。

「蜃気楼」が焚火ではなく蜃気楼を話題の中心にした事が、この作品のオリジナルな部分であるのは言うまでもないが、作品の表題としてのそれの決まり方には、志賀の影を見出すことも不可能ではない。「焚火」が「山の生活にて」の原題で掲載された『改造』には芥川も「小品二種」を寄せているし、「大正九年四月の文壇」(『東京日日新聞)大正九年)で「『山の生活にて』は、何となく心持ちの好い作品である。末段は殊に美しい」と自ら評してもいるので、「焚火」が改題されたものである事は芥川も承知していたものと思われる。「蜃気楼」も始め「海の秋」と言う題が用意されていたらしい事は、斎藤茂吉宛書簡(昭和二年)で明らかだが、これが改題されて発表された経緯には、「焚火」への改題の経緯が参照された可能性は高いと思われるのである。すなわち、最終的にはどちらも、作品の中心になる事象を端的にくくり出す表題が選択されたと言う点に於いてである。

 さてその蜃気楼であるが、焚火の、存在感の強烈なイメージに対して、なんと言う存在感の希薄はイメージが選ばれた事であろう。しかも現実に作品に描かれるのは余りに貧弱な、蜃気楼の名に値しないほどの現象で、したがって、むしろ比喩としての蜃気楼の方がアピール度の高いものになるのである。最初の比喩は新時代の二組の男女の相似性と言うイメージとしてであるが、これにはファッションとしてのみ追求される新時代性の浮薄さ、その空虚さへの揶揄あるいは批判が込められているのは確実である。然し同時に、先に引いた漱石書簡が示すように、十年前自分らが新時代の代表と目された事実に鑑みれば、内心恥いる思いが作者側にもあったであろうと思われる。批判の矢は確実に作者自身にも向けられていたのである。

 もう一つの蜃気楼の比喩は少々わかりづらいものである。前節で引用した、O君が砂の上から拾い上げた黒枠の木札に関する「僕」の「想像」に対し、O君の発した「蜃気楼か」と言う「独り言」がそれである。これを主人公にも「僕の心持ちには何か幽かに触れるものだった」と肯定されているが、どう触れたと言うのであろうか。これはおそらく、二十歳で死んだ混血児の青年に託して夢想された純粋な日本の母のイメージが、実態のない絵空事、空想にすぎないことを、O君に言わせ、「僕」もそれを肯定せざるを得なかったと言う事ではなかろうか。「混血児」も又「蜃気楼」独自のもので、議論の多いテーマである。通常これは芥川自身の混血児性、即ち西洋と東洋(日本)の文化の混血児と言う解釈がなされており、否定は出来ないが、然し考えてみれば近代日本に於いて誰が一体混血児性を免れ得ると言うのであろうか。芥川が志賀を「東洋的伝統の上に立った詩的精神」の持ち主として称揚された所為もあって、志賀を一方的に東洋的伝統の作家と見做す向きが多いが、それは明らかに誤解であろう。早い話が、本論で話題にしている心境小説、私小説にしてからが、東西の文学的伝統の、紛れもない混血児に過ぎなかった。心境小説の傑作「焚火」は西洋近代小説と日本の伝統的文学の間に生まれた混血児だったのである。近代日本の多くの作家たちは、西洋近代小説の枠組み、制度に倣って小説を書き始めたが、挫折の山を築いた挙句に彼らが漸く手にした近代的な小説の有り様が心境小説、私小説であった。西洋近代小説の側からすれば、似て非なる近代小説かもしれないが、日本の近代作家にとっては、これこそが和風にアレンジされ、己が身の丈にあった近代小説であったのだ。芥川も晩年に至って、漸く心境小説、私小説に近づいて行った。然し彼は、志賀のようにこの制度に、あるいは混血児性に、全身を委ねる事がついに出来なかった。そこに芥川の悲劇があったと言わなければならないだろう。

 2の冒頭近くで、作者は突然「僕」に十年前の上総(かずさ)の海を思い出させている。

 十年前、上総の或海岸に滞在していたことを思い出した。同時に又そこに一しよに居た或友だちのことを思い出した。彼は彼自身の勉強の外にも「芋粥」と言う僕の短編の校正刷を読んでくれたりした。......

 夜の黒い海が仲立ちしをして「僕」は十年前のことを思い出したようで、げんに「海のほとり」にも「海だけは見渡す限り......一面に黒々と暮れかかっていた」とあった。然し余りに唐突の感は、やはり否めない。原因はおそらく作者の側にあった。それは十年前の上総一宮海岸、あるいは「芋粥」から始まった自己の文壇的生涯を、今こそ総括せずにはいられないと言う切迫した思いが、彼を突き動かしたであろうと思われるからである。唯、それがくらい総括にしかならないであろう事は、既に予め暗い海が象徴していたと言えよう。「焚火」には、無論このような作者自身の文学的生涯の総括をしようと言うテーマは、何処にも秘められてはいなかった。ともあれ、右の引用のような数行が書かれた事で、「蜃気楼」は形の上でも「海のほとり」に繋がる作品となった。

 「焚火」の中心をなす、登場人物等の親和的な関係は、これを種本とする芥川の二つの心境小説にも受け継がれている。然し「蜃気楼」の親和関係は些か趣を異にする。特に2の場合、端的に言えばここの三人の関係は、一人の病者とそれを気遣う二人の看護者の関係である。「僕」は夜の海岸の散歩で出会うあらゆる外界の事象に、自分を脅かす種ばかりを見出してしまう病的な精神の持ち主である。先の、暗い海もそうであれば、広大な無意識世界を思われる暗闇——マッチの火で余計に強調される闇の深さ、片っぽの遊泳靴、鈴の音、砂明かり、ネクタイ・ピンと錯覚した巻煙草の火等々、である。「僕」と妻とO君は、「僕」の反応を察知して、速回りしてそれを言い紛らしたり、謎解きをしたり、冗談にしたりして「僕」の神経を鎮めようと必死である。まさに看護者の気遣いに溢れた態度と言わねばならない。これは作品の上の虚構では必ずしもなく、当時、現実のこれに似た事が多かった事は、芥川夫人自身の証言にある通りである。であればこそ、「『蜃気楼』は、文芸的な遺書である。死を前にして、美化した文夫人・小穴・久米を作品の中に定着させて、彼らへの感謝の意を表しているのである。「しみじみ」として描いた所以である」と評することも可能だろう。

<その5>

 「蜃気楼」は、同時代評からして評判の良い作品であった。然し、それには多分に作者自身の自評も影響していたのではなかろうか。周知のように、芥川は発表以前から「蜃気楼」に関する自信の程を、友人知人に吹聴していた。

・「『河童』は僕のライネツケフツクスだ、然し婦人公論に書いた十枚ばかりの小品、あるいはご一読に堪ふるならん」(昭和二年、佐々木茂作宛書簡)

・「婦人公論のはしみじみとして書いた。大兄や女房も登場させている」(昭和二年、小穴隆一宛書簡)

・「蜃気楼は一番自身を持っている」(昭和二年、滝井孝作宛書簡)

・「『河童』などは時間さえあれば、まだ何十枚も書けるつもり。唯婦人公論の『蜃気楼』だけは多少の自信有之候」(昭和二年、斎藤茂吉宛書簡)

 この事が次第に芥川周辺の人々に伝わり、やがて堀辰雄が卒業論文「芥川龍之介論」で論じたように、谷崎との論争で芥川が志賀の「焚火」以下の諸短編に奉った「「話」らしい話のない小説」「最も詩に近い小説」「最も純粋な小説」と言う評価を、「蜃気楼」にも換言して論ずるようになったのではなかろうか。

 近年の「蜃気楼」論も概ね上記のラインで評価されているように思われる。と言うよりむしろ、芥川が志賀に挑戦し、方法的に乗り越えた作品とさえ論ぜられる事が多いと言わねばならない。比較的早い時点でこのような考えを披瀝した三嶋譲氏は、「海のほとり」で志賀に挑戦した芥川は、「蜃気楼」に至って「<私>を「現象」と化することによって、一つの<文体>を獲得した」、彼はこれによって「完全に「焚火」の<方法>を超え、志賀直哉の呪縛から逃れる事ができた」とさえ述べており、同調者も多いように思われる。

 然し、「海のほとり」は本当に志賀への挑戦であったのであろうか。

 志賀に挑戦するために、志賀の傑作「焚火」をあえて種本にするとすれば、パロディーの方法に寄るしかないが、「海のほとり」はパロディー小説であろうか。我々が既にしてきたこの作品の分析によれば、そこにはパロディーの手法もエネルギーも何処にも見られない。あるのは「芋粥」以来の、種本をもとにストーリーを構え、自己の独自のテーマを盛り込もうとする方法である。その独自テーマに関してさらなる種本が求められるところまで、「芋粥」と同じなのであった。

 「蜃気楼」も又同じ志賀の「焚火」が粉本に用いられた。「海のほとり」では志賀を克服し切れなかった為の再挑戦であろうか、然し、「蜃気楼」もパロディーではなかった。三嶋氏はこの作に至って「<私>を「現象」と化することによって、一つの<文体>を獲得した」と言うが、志賀のように強烈な自我を主張できぬ人間が、心境小説をかけば、必然的にそのような「文体」になる外は無く、それは「獲得する」と言う次元の問題ではないのではなかろうか。氏はこのような芥川の文体が時代を先取りすると評価したいようだが、志賀文学を克服し、時代を先取りする文体を手に入れた芥川が、どうして自裁する必要などあったのであろう。我々の分析によれば、「蜃気楼」の方法も又、「海のほとり」更には十年前の「芋粥」のよれを大きく出るものでは無く、この旧態依然とした創作方法——しかも物語的作品と「筋のない」心境小説の別もなく繰り返される——に、芥川はむしろ絶望してもよかったのである。にもかかわらず、芥川がこの作に自身を持ったとするならば、「海のほとり」のように種本に着きすぎず、適度に離陸しながら当時の心境を、比較的満足の行くまで再構築できたと言う確信、あるいはそのような蜃気楼を見たゆえではなかったであろうか。

参考資料:参考資料:「蜃気楼」——種本のある心境小説/滝藤満義

      蜃気楼/芥川龍之介(『婦人公論』昭和二年)

      海のほとり/芥川龍之介(『中央公論』大正十四年)

      焚火/志賀直哉(『改造』大正九年)

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