見出し画像

破局によって僕はバカになった。

すこし前まで、むずかしい言葉を使うことや、情報量が多く、画数の多い漢字を使うことは良いことで、格好の良いことだと思っていました。背の低い僕にとって、かしこく見られることはなによりも重要です。背丈で敵わない相手に、舐められてはいけないからです。外身で勝てないならば、中身のクレバーさで勝負するしかありません。そういう生き方をしてきたような気がします。

すこし前、文学が大衆文化として発達する前のころ、文化人たちは教養をひけらかして、知識のある貴族は難しい言葉を多用し、解読できない人間をフィルターすることが美徳だと感じていたようでした。

しかし、こんにち、ポップスミュージックが広く親しまれているように、ミニマルでポップなデザインが好まれるように、“わかりやすく、受け入れやすいもの"の価値が、どこかで上がりました。理解できない言葉は受け流され、噛み砕かれない専門性は、多くの人にとって、ただの白痴に映るようになってしまったのです。

情報は、情報量の多さではなく、意見や意思、感情の伝わりやすさが大切だと思われるようになりました。それは人間が教養をなくしたのではありません。たんに、教養それ自体が変わったのです。読む人が限られる、分かりづらい言葉を広めることは理解を得られません。誰もが読める、分かりやすい言葉で伝えられる能力を持っていることこそが教養であると。それは、これからは誰にでも貴族になる権利があるともとれるし、もう誰も貴族にはなれなくなった、ともとることができます。

遠野遥の破局を読んで、僕はそんなことをつらつらと思いました。あれほど平易な文体で、分かりやすく、読みやすいながら、かつ想像させる文章は、ほかの現代文学にはありません。だから、破局のすべてを読み終わったあと、僕は自分を隅々までかえりみることになりました。全身が麻痺しているようでした。ともすれば、バカにされているとすら感じていました。難しい言葉でしか伝わらないものがあるとこだわっていた、画数の多い漢字たちは、遠野遥のあまりにも簡単な言葉たちによって、力を失いました。意味ありげに難しく書く必要はなかったのです。溢れるほどたくさんの情報を詰め込む必要はなかったのです。


まったく反対に、安心しもしました。どれだけ簡単な言葉で物語を書いたとしても、伝わるものがある、と、そういったある種の証明になったからです。破局によって、僕はバカになったのかもしれません。

サポートはすべて本を買うお金として使われます