世界が敵に見えることがある。

全身の毛という毛が逆立って、アドレナリンは抑えられなくなり、人間と、人間が織り成す社会と、世界そのものが敵に見えて仕方なくなることがある。一度そうなってしまえば、自制こそすれ完全に止めるすべは消え失せて、誰も彼も、見え得る目線はすべからく敵意となる。ひとたびその禍々しい目を向けられ、敵意に囚われてしまえば、怯え、すくみ、ただ大人しく敵意が過ぎ去るのを待つか、自らも敵意を送り返し、復讐にもならない無意味な行いを、脅威がなくなるまで続けるほかない。

敵意はそこらじゅうにある。世界が敵に見えているとき、一人きりでばら撒かれた敵意から逃げ切ることは到底できない。インターネットにも、駅前の人混みにも、電車のシートにも、対価を伴う労働にも、ただ道ばたに転がっている石ころでさえ敵意に満ち満ちる。身体をどう動かしても避けることはできないうえに、こころは足場を失ってどうしようもなくなる。敵意から逃げることはできない。怖いもの見たさでお化け屋敷を練り歩くのとは訳がちがう。鎖で繋がれている程度ならまだマシで、どこにも繋がれていないはずなのに動けず、どこに行くことも、なにをすることもできなくなる。

それは気候の変動によるものだったりする。雨の日の前日から当日にかけて、頭蓋骨の内側がズキズキとして、ふだん面倒くさがるはずの意識は脳みそを飛び出して前のめりになって、どうにもならないくらい仄暗くなった世界に取り残される。取り残された意識は、たとえ盲目になろうとも、無邪気に、あるいは邪気に満ちたまま、一心不乱にはしゃぎたくなる。そうして視界はすべて敵意に満ちていく。

それは誰かによるものだったりもする。恋人の不安な声色や、何気ない家族の一言や、恩師による温かさのこもった投石や、友人が、文句のつけようがないほど鮮やかに、なにかをうまく成した場面を見たときだったりする。クリアだった意識にかげりが見えて、狭くなった視野の中から必死に食らいつける要素を探して、自分の新しい柱になるようなランドマークを探さなければならなくなる。身体は不自然なリズムで脈をうち、吊り橋を渡るみたいにこころは揺れ動いて、人間ぜんぶが敵にしか見えなくなっていく。そうして世界は敵意に満ちていく。

敵、という言葉、それ自体によるものだったりもする。自分で書いた言葉や、頭の中の残響や、忘れていた苦い思い出を掘り起こして、出来て間もないかさぶたを剥がすみたいに何度も見つめ続けているせいだったりもする。痛みで意識は奥に追いやられて、匂いが分からなくなって、憧れていたはずの暗闇の中へ置き去りにされる。言葉は形を持った瞬間に、ただ形を持ったという理由それだけで内臓をぐちゃぐちゃに掻き乱す。まっすぐに歩けなくなり、正面がどの方向だったかを忘れて、外側の人間たちと世界は敵意に満ちていく。

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