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満員電車で胎児を目指す

緊急事態宣言が出てからしばらくが経つ。電車は本数が減り、ゆったりしていた終電の時間は繰り上がり、鉄道各社は赤字が膨らんでいる。
しかし人々は満員電車をやめられない。東京都の家賃は他の国にある大都市と比べると平均値は安いにもかかわらず、わざわざベッドタウンに身を置き、満員電車に揺られて通勤する。働くひとたちの収入が少なく、ベッドタウンにしか住めない経済の問題だとひとまとめにするならば、それも一理ある。だれが好き好んで満員電車に乗っているものかといった怒りは、至極まっとうである。しかし積極的に通勤時間をずらすことを呼びかけたり、通勤を取りやめる会社はそう多くない。

ほんの少し前まで、プログラミングされた飛行機が飛ぶ以前は、米軍の兵士たちはジープに乗り込んで戦場へ向かっていた。引き金のすぐ近くには整備された銃があって、トリガーを引くと撃ち放つ瞬間に反動を感じられた。ジープに乗り込んで移動し、引き金を引き、またジープに乗り込んで帰還する。ドローンの登場によって引き金と銃が離れるまで、兵器を持ち運ぶ重さは肌で感じられた。
遠隔操縦できる兵器が出てくると、精神状態がおかしくなる操縦士が増えたという。遠隔コクピットに乗り込むために基地へ出向き、しかし兵器が自分の身体とはべつの場所にあるという感覚と、引き金と銃の位置が著しく離れているという事実を、人間の脳みそは簡単に受け止められるようにできていないのだ。想像力が足りないわけではない。人間ができる想像は、多分もともと欠けているのだ。もっと正確にいえば、"人間が想像できる範囲"を人間は把握できない。どれだけ想像力を働かせたところで、どれだけ銃を意識しようとしたところで、地響きを肌で感じられなくては、それが一体なにを引き起こすか感じられなくなり、こころと身体が離れ離れになってしまう。

電車の中にいると安心できる。自分ではなにもしていないまま、けれど確実に目的地に着くという事実がひとを安心させる。こんなにも鉄道が発達した過程には、安心を求める心理があるのかもしれない。見えるかぎりの車内に、より多くのひとがいるほど安心できる。同じ路線を使っている人は、多ければ多いほどいい。袖振り合うも多生の縁と言うように、車内にいる人たちは仲間であり、目的地へ電車が着くことを証明する生き証人でもある。多ければ多いほど、仲間も証人も多くなるということになる。事故や災害で電車が止まったりすれば、揃って文句を言えばいい。

電車の中はカンガルーのお腹の中だ。誰かに運んでもらっている事実そのものが、ひとびとを安心させる。手を引かれて歩く子供のように、大きな存在を感じさせてくれる、大人数がいればいるほど、旅先への不安を拭ってくれる。満員電車をやめられないのは、その安心感を得る機会が他にすくないからだ。
電車の中は棺桶ではない。電車は子宮であり、ひとびとは電車に乗ったそのときから胎児になる。そして降りるときに、またちがった命として生まれ変わるのだ。

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