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第1回 学び続けるということ(前編)

板野 和彦 教授 (教育学部 教育学科) 通信教育課程長(新任)

 明星大学通信教育課程では、4年をかけて学士号取得をめざす方や、新たに教員免許状の取得に挑戦する方、現役の先生で今持っている免許状以外の校種、科目の免許状取得をめざす方、大学院で研究に励み博士号・修士号を取得しようと考えておられる方など、さまざまな夢を持った方が学んでいます。いずれも仕事や生活との両立を図りながら「学び続ける力」が必要で、とても困難な道のりです。

 今回は、ご自身も本学の通信制大学院で修士号を取得、さらに通学課程の大学院で博士号を取得され、現在は通信教育課程と通学課程両方で指導に当たっている板野教授に、これまでの経験と通信教育課程で学び続ける意義についてお話を伺いました。なお、板野教授は、2022年4月より通信教育課程長に就任されます。

 明星大学note学長が聞く、学長に聞く -第12回-明星大学のもうひとつの顔・通信教育課程でも通信教育課程についてご紹介しています。合わせてお読みください。


板野教授は音楽教育が専門ですが、まずはご自身が研究者になるまでの道のりについてお聞かせください。

 私が音楽教育に出会ったのは5歳のときです。音楽大学で教授をしていた父が、近所の子どもたちを集めてピアノの音に合わせて身体を動かすスイス発祥のリトミックという教育法を実践していて、その輪に加わったのが最初でした。同じ頃にピアノも習い始めました。

 小学校は音楽大学の附属に通っていたのですが、4年生で挫折してしまい、中学高校は公立で学んできました。そして大学進学を考える時期にジャズをやりたくなって、音楽大学に入って音楽の道に戻ることにしました。高校2年生からの再スタートで、3歳くらいからずっと練習を続けてきた他の受験生と勝負せねばならず大変でしたが、どのようにすれば短時間で上達できるのかを考えながら演奏技術を習得しました。例えば、課題で弾く曲のレコードを買って、繰り返し聞いてイメージを掴んでから弾いていくなど、練習一辺倒ではなくあらゆる戦略と戦術を考えていました。その時の工夫は、教員になってからも活きています。

研究者をめざすようになるのは、大学に入学した後でしょうか。

 大学入学後は、ジャズをやるために軽音楽部に所属して、毎日夢中で練習をしていました。演奏する楽器も、ピアノではなくドラムでした。実は1年浪人したのですが、その時に父にドラムをやりたいと言ったら猛烈に怒られました。しかし想いを伝え続けたところ、岡田知之先生というNHK交響楽団で活躍されていた日本を代表する打楽器奏者の先生を紹介してもらい1年半ほど入門しました。残念ながら打楽器科は落ちてしまいましたが、併願していた音楽教育学科のリトミック専修に合格したおかげで、クラブ活動ではありますが大学でドラムを続けることができました。

 私が学んでいた国立音楽大学はジャズ関係者が多くて、その時に一緒にやった仲間で有名になった人もいます。T-SQUAREで活躍した本田雅人さんや、後にできた演奏・創作学科 ジャズ専修の教授になった池田篤さんもその一人です。その頃から、みんな演奏の腕は確かでした。

お父様が研究されていたリトミックについて、本格的に勉強を始めたのも、この頃からなのですね。

  そうですね。しかも、そのリトミック専修で父が教えていて…。ゼミも父のところに所属していました。家でも父の書いた本があったり、高校生の頃から「拍と拍子の違いを答えてみろ」なんてやったりしていたものですから、いつでも勉強できる環境にいました。

 ちなみに、リトミック専修を立ち上げたのが黒柳徹子さんの恩師としても有名な小林宗作先生で、明星大学の第2代学長である児玉三夫先生も弟子だったそうです。あらためて考えると、その頃から私は本学にご縁があったのかなと感じます。大学に入って1年間はジャズに打ち込みましたが、2年生からはリトミックの研究を一生懸命やりました。大学卒業後に、アメリカのダルクローズ・スクール・オブ・ミュージック(Dalcroze school of music) 留学して、3年間さらに勉強してきました。

JAZZに没頭されていた意外な一面も伺うことができました

ご経歴を拝見すると、その後に明星大学の通信制大学院で修士課程へ入るまでに10年以上の期間がありますが、この間は何をなさっていたのでしょうか。

 1988年9月から、東京や千葉、青森、長野で、大学の非常勤講師と短大の専任講師をしていました。教員をしながら、実際に幼稚園や保育園に出向いて子どもたちにリトミックを教えていました。当時は大学教員が子どもの指導をすることが珍しかったので、そこで得た知見を今後に活かせるだろうと感じていました。またベビーブームを背景に、質のいい教育に対するニーズも高まっていたので、必ず私の出番はやってくると信じていました。

 やがて1999年に日本初の通信制大学院が明星大学に出来たことを知って、ここで研究に取り組んでみたいと思い、翌年の2000年に入学しました。この時すでに40歳。長年、勉強したいと思っていても、このような場がなかったので、本当に嬉しかったです。あの頃は、私と同じように修士号を取る機会を待っていた人が全国から押し寄せて凄まじい熱気でした。高幡不動のお店で飲み会をやっても100人くらいやってきて、先生方にも加わって頂き夜中まで激論を交わしていました。

リトミックについて学ぶ、大学院スクーリングの様子(2013年)

板野教授が修士号を取得しようと思ったのは、どういったきっかけだったのでしょうか。

 1998年から2008年にかけて勤めていた長野県短期大学で、50人ほどいる教員の中で修士号を取得していなかったのが私を含め僅か2名でした。音楽大学を出て教員として教えることはできていたものの、以前からより質の高い授業をできるようになるためには研究を重ねる必要があると感じていました。

 これをご覧の教員としてご活躍の皆さんも、きっと同じ思いを抱かれているのではないでしょうか。私は修士号を2年で取得して、博士号を取得するまでにその後8年かかりました。当時勤務していた短大や母校の国立音楽大学で非常勤講師として働いたり、明星大学でも新たに出来た総合演習の非常勤講師を任せていただいたり、研究以外でもとにかく忙しい毎日でした。

仕事と研究の両立は、とても大変だったと思います。何が板野教授を突き動かしていたのですか。
 
 
明星大学の通信制大学院に入学してお世話になった佐々井利夫先生(明星大学 元副学長)や、小川哲生先生(明星大学 元学長)のように教育学に対する情熱を持った人になりたい!と影響を受けたことが大きかったですね。お二方とも、指導が的確でスピーディ。私が書いたものをスーッと読まれて「こことここを直した方がいいよ」とサッと返していただける。なんでもご存知で、本当に感動したことを覚えています。佐々井先生は教育哲学がご専門で、教育全体を俯瞰で見ておられ、いろいろと勉強させていただきました。

通信制大学院入学式の様子(2011年度)壇上は小川哲生学長(当時)

 情熱あふれる先生の指導を受けながら、まとめ上げた論文。完成した時のお気持ちはいかがでしたか。

 
ずっと書き続けてきたものを最後にまとめ合わせていく感じでしたが、完成した嬉しさとこれでいいのだろうかという思いが半々でした。通信課程での大学院修了後、通学課程の大学院でさらに研究をすすめ3月の卒業式で学生として博士号を授与されて、翌4月には明星大学の教員の一人として壇上に立つという、貴重な経験をしました。

 最初は父の影響で興味を持った音楽教育の道ですが、今日までずっと探究してこられたのも、いろいろな方との出会いと教えのおかげだと感謝しています。そして明星大学通信制大学院での学びが、新たな展開への突破口となったことは間違いありません。

幼い頃から40歳を超えて入学する通信制大学院まで、ずっと学生として学び続けてきた板野教授。後編では、教える側の立場から学生たちの「学び続ける力」について語っていただきます。


【後編へ続きます】