徳川宗春をご存知ですか?

 江戸時代中期、徳川吉宗の享保の改革に真っ向から逆らった尾張徳川家7代目藩主徳川宗春の名をご存知でしょうか?慈愛の政治を志し吉宗の緊縮財政に反対して開放的な積極財政を実施し名古屋に繁栄をもたらせました。
 享保の改革は上げ米、新田開発、足し高の制度、流地禁止令、とかが挙げられます。質素倹約を旨とした緊縮財政でした。倹約すれば蔵にお金は確かにたまります。享保の改革は一定の成果が上がり幕府は財政危機を脱しました。その事は認めます。しかし倹約すればする程世の中はますます金回りが悪くなりデフレスパイラルからは抜け出せません。世の中はますます不景気になっていきました。
 これに対抗して減税、規制緩和、開放政策を推し進め自らも贅沢を率先してやり、歌舞伎役者の様な派手な衣装を着て練り歩き、祭りを盛大に行うなどの景気刺激策を率先してやりました。当時としては画期的な政策でまるで現代の経済政策をカンニングしたのではないかと思われる様な江戸時代版アベノミクスでした。一見すると単なる放漫財政の様に思えるのですが尾張藩の領内だけが好景気に沸き立ったそうです。
 デフレは何も現代だけの問題ではなく江戸時代にもありました。元禄時代には景気が良かったみたいです。経済も平和な時代を背景にして発展したようです。江戸時代版バブルとでもいいましょうか?その後はその反動でしょうか大変不景気になりました。そんな時代に吉宗と宗春はそれぞれ方や将軍に方や御三家のは一つ尾張藩の藩主になりました。同じ時代に生きながら全く正反対の生き方を選びました。
 派手好きで浪費家贅沢三昧の性格で、花魁を大金で身請けしたり芝居や見物を奨励して江戸の尾張藩邸だけは質素倹約で日の消えたような街の中で、夜遅くまで歌も鳴り物自由で華やいでいたそうです。彼が贅沢三昧するのには訳がありました。お金というものは天下の周り物で使えば使うほど減るのではなく増えるのだと言うことです。金は不思議なものです使えばその人の財布からは確かになくなります。しかし必ず帳簿上は誰かの借り方に記録されます。使えば使うほど流通するだけで無くなりはしないのです。使えば使うほどますます活発に流通するだけで無くなりはしないのです。もし減らそうとするなら河原がなにかに行き燃やしてしまうとかしなければ無くなりません。バブル期に金が多すぎると河原で償却するような今で言えば勿体無い話ですが、そう言った骨のある豪傑も居ました。彼の贅沢三昧はその逆で世の中の金回りを良くしようという信念のもとにしていた事でした。
 

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