三国志

 漢詩のサイトにも自説を展開したのですが、ここでも自説を展開しようかとか思います。はじめに断っておきますが蜀ファンの皆様にゴメンナサイ!できれば見なかったことにしたください。炎上覚悟で投稿したいかと思います。夷陵の戦いあたりから蜀は下り坂です。益州を分捕るぐらいまでは良かったですが夷陵の戦いで軍事的に国力の半分を失ったと言っても過言ではないほどの痛手を蒙りました。その上戦略的にも大事な荊州を失ってしまいました。ここで自力優勝の目はなくなりました。蜀に対してマジックナンバーが点灯してしまったという感じです。負けた方の立役者が劉備玄徳で勝った方がまだ無名だった陸遜伯言です。進軍する時は長江を下り退却するときには流れに逆らわなければなりません。そのため攻めるときはいいですが一旦退却となると難儀するのは子供でも分かりそうです。呉はまたしても火計で国難を乗り切りました。関羽をだまし討ちにされ冷静さを失っていたのかもしれません。軍師の諸葛亮もベタランの趙雲も反対していたみたいです。長期の遠征で厭戦気分が蔓延していたかもしれません。
     蜀の主だったメンバーは荊州の出身者が大多数です。益州の土着の人間からすれば面白くなかったのではないでしょうか?当然益州閥と荊州閥の間で亀裂があるように思いますがいかがでしょうか?人材の補給も荊州を失ってからは出来なくなり人材面でも退勢は隠せない状況だったでしょう🎵北伐をしていないと求心力の上でも軍事面でも空中分解しかねない状況だったように思います❗️
    天然の要塞の益州にたて込もっていた地方軍閥にすぎず、魏との国力は開くばかりであったように思われます。心情として判官贔屓もわかりますが、あくまでも魏が正統で魏の足を引っ張っていただけで一番早く滅亡しました。

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